わたくしの休息
* * * * *
「何故だ……何故、お前が……」
お兄様の胸が、真っ赤に染まっていました。“主人公”の前に立つお兄様の瞳には、“主人公”は映っていませんでした。
「何故? 面白いことを問うね、国王様」
お兄様の胸には、鈍色の鉤爪が生えていました。お兄様の血で染まったそれは、不気味にてらてらと輝いていました。
「道化の王様、キミはボクを味方だと思ったの? とんでもない。ボクはキミを見ていただけだ、支配者気取りのキミがどんな風に踊るのか」
お兄様の背後には、異形の腕を持つ聖職者が佇んでいました。いかなる時もお兄様の相談役として控えていたその聖職者は、引き裂いたように笑っていました。
「キミの傍にいられた時間、とてもとても楽しかったよ。キミの周りは、人間の恐怖と怨嗟で溢れてた。キミはいつも面白い景色を見せてくれた、アリガトウ。死と苦痛はボクにとっても最高の娯楽だ、キミを観察することにして正解だった!」
お兄様がまだ何かをおっしゃろうとします。
けれど言葉は血に変わり。
ごぽり、口元からとめどなく溢れる血はお兄様の無念の象徴のようでした。
「けれどサヨウナラの時間だよ。仕方ないだろ、もっと面白い玩具を見つけたんだから」
「ッ……!」
鉤爪が、引き抜かれて。
血飛沫が勢いよく吹きあがる中、お兄様の身体がふらりと傾いで――――倒れ込む前に、嫌な音が。
頭から。ばりばりぐしゃぐしゃ。ぶちり。人の姿をしていたけだものが、真の姿を現して。おぞましい化物。口の端からぷらりと垂れる、あれは、お兄様の腕。
「改めてのハジメマシテ、ボクはスルト。ごらんのとおり、悪い王様は退場だ。天使様が罰を与えてあげたんだ。さあ、アリガトウは?」
* * * * *
「……ル、エイル?」
「――ッ!」
瞳に焼きついた真っ赤な真っ赤なその景色は、今のわたくしの記憶ではありません。かつて“主人公”として物語を辿っていた時のものです。
その証拠に、見開いた目が映すのは自室の寝台を覆う天蓋と、わたくしを見下ろすカイだけです。夜ということもあってマスクはしておらず、ローブも白から黒へと着替えていました。
確か、夕方にノルンヘイムに着いたわたくしはお兄様と夕食を共にして……深夜なら誰にも見咎められずに時間を取れると、カイを部屋に呼び出しておいたんでしたっけ。日中のカイはてるてる坊主状態で何かと目立ちますもの。
「大丈夫か? うなされてたみたいだけど」
「夢見が悪かっただけです、問題はありませんわ」
荒い呼吸を鎮めながら嫌な汗をぬぐいます。あれはただの悪夢です。あれが現実になることなどありません。だって、わたくしがいますもの。
「それよりカイ、報告なさい。わたくしがいなかった間のことが知りたいの。より正確な戦況も、アラーニェちゃんのこともです」
帰国したはいいものの、アラーニェちゃんにはまだ会えていませんでした。お着替えや湯あみ、そして晩餐など予定がたくさん詰まっていたせいで、アラーニェちゃんに会いに行くのをファム達に止められてしまったからです。
アラーニェちゃんは今、すでに鎖された小さな離宮にいるそうです。本来なら王宮の一室をアラーニェちゃん専用のお部屋にしていたのですが……なんでも、世話係のカイが王宮を留守にしがちなせいで、わたくし不在の間に宮殿内でお散歩させないよう他の宮廷人や使用人達が騒ぎ立てたからだとか。
でも、離宮を丸ごと一つあげたほうがアラーニェちゃんものびのびできていいかもしれません。アラーニェちゃんはだいぶ大きくなりましたし、これからもまだ大きくなりますもの。「アラーニェは元気だよ、明日辺り連れてくるから」カイはため息をつき、改めて口を開きました。
「エイルに言われた通り、シグに近づこうとする連中の監視は怠ってないよ。君が危惧したような、妙なものが視えた奴がシグに接触した事実はなかった。……ただ、不審者の目撃情報はいくつかあがってるし、宮廷の外で気味の悪い気配を纏った奴は見たことある」
「なんですって?」
「まずは不審者の話からしよう。最初の証言者はリーヴァだ。シグが雇い入れた覚えのない使用人が、一度だけ部屋に来たと言っていた。だけどシグはすっかりリーヴァにご執心だ、彼女の世話を人に任せるわけがない。シグはすぐ離宮中の使用人を調べたけど、誰もリーヴァの部屋に入った事実はなかったし、リーヴァと面識がある者もいなかった」
誰が誰にご執心ですって? 聞き捨てならないことを聞いた気がします。
……ですが、今はあのお人形より不審者です。その不審者の正体がスルトなら、見過ごすわけにはいきません。
「そいつは、“リーヴァを助けに来た天使”って名乗ったそうだ」
「その使用人を見つけ出し、即座に捕え……ああ、ですが今は剣が……。まあいいです、居場所は掴めているのかしら?」
大当たりです。そんな気取った口上で名乗り上げるなんて、気障な役者か悪乗りが過ぎる終焉の獣ぐらいのものでしょう。惜しむらくはまだ偽剣レーヴァテインが手元になく、たとえ捕縛できたとしてもすぐに斬り捨てることができないことです。それでも、いつでも存在を捕捉できるに越したことはありません。
「その使用人もどきが来たのは一度だけで、それ以降リーヴァは姿を見ていないらしい。リーヴァの周囲も監視してみることにしたけど、確かにそんな奴は現れなかった」
「むぅ……」
「次の証言者は、騎士団所属の騎士達だ。知らない騎士が自分達に紛れていたらしい。それがどこの誰なのか、いつからそこにいたのか、誰もはっきりと覚えていないそうだけど……詰所や戦場で、自然に場に溶け込んでたんだって。ただ、その騎士はどの部隊にも所属していないことだけは確からしいよ。敵軍の間者じゃないかって大騒ぎになった」
スルトは人間に擬態することができます。物語においても、聖職者の姿をしてお兄様に近づいていました。宗教弾圧のおかげで聖職者の姿で活動することに限界を感じて、擬態するものを変えたのでしょう。
「その騒ぎ以降、不審者の目撃情報は見つかってない。……その代わり、戦場で変な奴を見た。一月ぐらい前の話だ」
「貴方が見たのですか?」
「ああ。ノルンヘイムが制圧した国々の難民達が結成した反乱軍の幹部だ。鎮圧に行ったとき、リーダーの傍にそいつがいた。でも、シグに接触しようとしてたわけじゃない。そもそもあの鎮圧作戦に、シグは参加してなかったし」
お兄様に近づけないとわかって、狙う先を変えたのでしょうか。……ですが、お兄様に仇なそうとする者に与するのであれば、やはり殺しておかなければいけません。
「確か連中、大陸解放軍とか自称してたかな。その幹部の変な奴は、フロディって呼ばれてた。向こうが僕に気づく前に、そいつの周囲一帯を焼き払ったけど……感覚でわかる、あれは仕留め損ねた」
大陸解放軍。聞いたことのない名前です。物語には、そのような組織はありませんでした。
ですが、幹部の名前には心当たりがあります――――聖職者のふりをしていたときにスルトが使っていた、偽名に間違いありません。
「フロディは、自分の本質を別の何かで上書きしてるみたいだった。まるで根本から徹底的に、存在を偽装しようとしてるみたいに。隠されてた本質のほうは、見ていて気分が悪くなるような代物だったけど、見てられないほどじゃなかった。……実は、似たようなことが前にもあった気がするんだ。その時のことはよく覚えてないんだけど、おかげで耐性がついてたのかもしれない」
「宮廷に出没していた不審者の正体は、おそらくそのフロディでしょう。宮廷に入り込んだのは、内部機密を漁るためか……あるいは、内側からノルンヘイムを蝕むために違いありません」
「チッ。次に会ったら必ず殺してやる」
カイは苛立たしげに親指の爪を噛んでいます。物語のことは伏せましたが、嘘は言っていないので大丈夫でしょう。
「落ち着きなさい」
「……薄汚いネズミがシグにたかろうとしてたとか、許せなくて。それに、そいつをみすみす逃がした自分もだ」
「そう自分を責めてはいけませんわ。結果は確かに出ていませんが、成果は持ち帰っていますもの。よくやりましたね、カイ」
カイが仕留め損ねたと感じるのであれば、フロディの正体がスルトだと確定したようなものです。ただ存在自体が不愉快な人間だっただけなのなら、間違いなく殺せていますもの。
物語において、スルトはフロディと名乗ってお兄様を甘言で惑わし、お兄様を裏で密かに操っていました。今、スルトは敵方についています。恐らくスルトは、人間の姿で民衆を扇動して大陸解放軍を結成させたのでしょう。解放軍のリーダーこそ、スルトの現在の操り人形です。
お兄様を殺めた存在が敵方についているというのは、わかりやすいですがぞっとする構図でもあります。一刻も早く偽剣レーヴァテインをお兄様に献上しないと。
「戦況のほうはいかがです? イズンガルズとスカジガプはまだ降伏してくださらないのかしら」
「これはまだ内々の話だけど、スカジガプは白旗を上げた。少なくともスカジガプには、もう戦争を続ける資源も気力も残ってない。君がヘズガルズを陥落とそうとしてる間に、僕はイズンガルズ側の同盟国を三つぐらい陥落としたからね。これだけ力の差を示せば、そりゃスカジガプだって自分の愚かさに気づくだろ」
「調子に乗らないでくださる? せっかく褒めてさしあげたのに」
「それとこれとは話が別」
カイのくせに生意気です。得意げな顔に向かって枕を投げつけると、カイは避けることすらできないまま間抜けな声を上げました。ふふん、いい気味です。
「……」
ぶつかったのはちょうど鼻のあたりのようです。無言で顔を手で押さえながら、カイはしゃがみこんで落ちた枕を拾いました。
応戦してくるかと思って身構えますが、枕を手にしたカイは振りかぶった体勢で一時停止して……腕を降ろし、そのまま枕を噛みちぎってしまいます。羽毛がはらはらと散りました。
枕なら、まだ寝台の上に二、三あるので一つ駄目になったところで困らないのですが……カイったら、一体何がしたいのかしら?
「もうすぐ、スカジガプと停戦協定が結ばれるはずだ。スカジガプが撤退する以上、イズンガルズ同盟軍は瓦解したも同然さ。この戦争は、ノルンヘイムの勝利だ」
「当然の結果ですわね。……カイ、貴方も戦争にはかなり貢献したのでしょう? お兄様からお褒めの言葉をいただくと思いますけれど……ノルンヘイムの王女として、わたくしからも褒美を取らせましょう」
マスクで隠されていないので、カイの顔はよく見えています。目の下の隈は、ヘズガルズで会った時より濃くなったようでした。日中はてるてる坊主の格好で無理やり活動しつつ、夜のほうが動きやすいからと眠る時間を削ってまで任務をこなし。今晩も呼び出しに応じて素直に来たカイに、ねぎらいのひとつぐらいあってもいいでしょう。
「ファム達には、起こしに来ないように伝えてあります。共寝だけなら許可してあげますわよ?」
さすがにこの身体で、同衾までするつもりはありません。思えばルファル王子が新しい女性を探しはじめたのは、わたくしやお腹の子のことも考えず夜に無体を働こうとしたのをすげなく断った日の翌日からだったかしら。
カイはぽとりと枕を落としました。生気のない青白い頬が、瞬く間に真っ赤に染まっていきます。
「シ、シグのためだからってすぐ自分を安売りするのは君の悪い癖だ。直したほうがいいんじゃないか?」
「あら。わたくし、安売りだなんてしていませんわ。余計なお世話です。そもそも、まずは貴方が噛み癖を直しなさいな」
指摘すると、カイは言葉を詰まらせます。他の人にも噛みついていないといいのですが、わたくしへ反撃しない代わりに枕に八つ当たりをしたところを見ると物には平気で噛みつくのでしょう。油断はできません。
「そんなつもりでこんな時間に呼び出したなら、僕はもう帰るからな!」
「わたくしとこの子のぬくもりがあれば貴方もゆっくり休めるかと思って提案しただけですのに、冷たいこと。わたくしと過ごした夜は遊びだったのかしら」
「あれはそういうのじゃないだろ!」
「なら、せめてこの子に挨拶なさってくださいな。だって、貴方の子ですもの。……この子の名前は、貴方がつけてくださるでしょう?」
腕を引っ張っただけで、カイはあっさり体勢を崩します。とっさの動きがわたくしを潰さないことを優先したものだったせいで、寝そべったままのわたくしでも簡単にカイを捕まえることができました。カイはおそるおそるといった様子で、なぞるようにわたくしのお腹を触っています。
「ヘズガルズでは貴方の腕の中が一番安心できました。貴方はどうかしら?」
「……そんなの、ただの勘違いだろ。エイル、君はつくづくどうかしてるよ」
お腹の子のことを気にしているのか、カイは強く逃げられないようです。ややあって諦めたようにため息をつき、わたくしの唇に甘く噛むようなキスをしました。
「これで十分元気出たから」そのままカイは優しくわたくしの腕を下ろして立ち上がろうとしてしまいます。治癒の秘跡が作用したのでしょうか。……というのは、謙遜が過ぎてむしろカイに失礼ですわね。
「寝相に自信がないんだ。君達を蹴飛ばすと悪いから、今日はこのまま帰らせてくれ。……もしも不安なら、日中はなるべく傍にいられるようにする。僕が出向くほどの戦場も、もうほとんどないだろうし」
「あら。愛しいお兄様と貴方がいる祖国に帰ってきたのに、どうしてわたくしが不安になっていると思うのかしら」
今度はわたくしが彼の頭を撫でて額にキスをします。カイはそのまま帰っていきました。お腹の子は、カイとは違って素直な子に育ってくれるといいのですけれど。




