わたくしの里帰
「妃殿下、足元に気をつけてください」
ファムの手を借りて宮廷を歩きます。嫁いでから半年も経てば、お腹は一目で懐妊がわかるほどの大きさになっていました。
もちろんその間にも、この国を手に入れるための根回しはしています。あとはこの子が無事に生まれるのを待つだけです。……いいえ、それより早く終わるかもしれません。
「殿下は、今日こそ政務をなさっているのかしら?」
「……いいえ。今日も今日とて、遊びまわっているようです」
「そう。ふふ、困った方ね」
わたくしの妊娠がわかって以来、ルファル王子はだんだんわたくしから距離を取るようになりました。贈り物だけは変わらず届きますが、昼の間にわざわざ会いに来ることもなければ、社交の時にもよそよそしくなるのです。理由は簡単、寝室を共にできなくなったからでしょう。わたくしとしては喜ばしい限りですけれど。
王子の相手をできないわたくしに代わり、王子は新しい女性を寵愛するようになっていました。元より、婚約者がいるにもかかわらず他の女に目移りするような方ですもの。その程度は予想済みです。読み通りで助かりました。
王子のお気に入りになった女性のお名前は……確か、ジャンド男爵家の令嬢のリヨーラだったかしら。彼女なら、真実の姿でルファル王子を受け止めているでしょう。わたくしとは違って。早くも寵姫に目されている彼女には、王子と一緒に踊ってもらうつもりです。
「妃殿下も、たまにはお休みになられてはいかがですか? 無理をされてはお身体に障ります」
「気遣いだけは受け取っておくわ。けれどファム、わかるでしょう? ふがいない夫に代わって、わたくしが頑張らないと」
今日の予定は城下の視察でした。寄付をしている孤児院や病院の慰問をしながら、実際に王都を見て回るのです。
このお出かけには最低限の護衛しかつけていません。カイに作らせて送ってもらった守護の魔具があるので、人の護衛は不要なのです。お出かけのことは国王夫妻や王子にはわざわざ言っていません。非公式の視察ではありますが、その際に民から陳情があれば耳を貸すようにしていました。わたくしが街に出て何をしているのか知りたがる官僚や、最大の協力者たる宰相にはきちんと伝えているので、理に適った陳情であればきちんと受理もしてあげています。
他国から嫁いできた王太子妃は、ヘズガルズの民に寄り添い民のことを第一に考えているのです――――私腹を肥やして享楽に耽るしか能のない、ヘズガルズの王族とは違って。
人に秘密は守れません。噂が広まることの早いことといったら。良識ある宮廷人はわたくしを憐れみ、王子を責めているようです。ですが、王子がそれに耳を貸すことはありませんでした。それも当然でしょう。ルファル王子に臣下の諫言を受け入れる度量があったのなら、そもそもあの……お名前はなんと言ったかしら、侯爵令嬢との婚約を破棄してまで―たとえ宰相の裏工作があったとしても―わたくしに求婚なんてしませんもの。
上の不安は下にも伝わるものです。宰相を含めた優秀な官僚達の手腕のおかげで国政は支えられてこそいますが、すでに民衆の間には王子とリヨーラの風刺画が広まる始末。すでに王族に求心力はないと言っていいぐらいでした。宮廷の醜聞を漏らしたのは、もちろんわたくしですけれど。
*
非公式のお忍びだというのに、民はわたくしの前に跪いて深く頭を垂れます。布施を求める者、環境の改善を求める者。彼らを前にして、お兄様ならどんな苦痛をお与えになるのかしら。
「王太子妃殿下……どうかお慈悲を」
「ええ、話してごらんなさい。わたくしにできることならなんだってします。貴方も、わたくしの愛しいヘズガルズの民なのですから」
慈愛の笑みで手を差し伸べると、民は疑うことなく縋りついてきました。
お兄様、お兄様、エイルは異国の地でもお兄様の妹に恥じないよう振る舞っています。エイルがしっかり役目を果たしたら、お兄様はどんなご褒美をくださるでしょうか。
「おいたわしや。王太子妃殿下は身重にもかかわらず、いつだって我々に心を砕いてくださる。それに比べて両陛下や王太子殿下は……」
「王太子殿下が我々にしてくださったことと言えば、あの素晴らしいお妃様を娶ってくださったことぐらいだ。それなのに、よくわからない女にうつつを抜かしているだなんて。まったく、ヘズガルズの民として恥ずかしい」
今日もどこかで、暗い顔をした者達がひそひそと話し合っています。わたくしはほんの少し焚きつけただけなのに。人の妄想力はあなどれませんね。
「宰相閣下や他のよく働く官僚達がいなければ、王太子妃はすぐにヘズガルズの宮廷に愛想をつかして離縁していたって噂だよ」
「もしも妹姫を冷遇しているなんて知られたら、ノルンヘイムの王太子はどう思うんだろうねぇ……」
「ノルンヘイムは、少しでも叛意を見せたり支援を渋ったりしたらたとえ友好国であっても容赦はしないらしい。いくつもの国が背後からの侵攻に遭ったとか。今は王太子妃殿下のおかげで結ばれた同盟があるが、万が一それが反故にでもなったりしたら……」
「あの馬鹿王子のせいで、イズンガルズの庇護はもう得られないんだろう? ノルンヘイムに裏切られたら、ヘズガルズは終わりじゃないか!」
イズンガルズとの大戦のさなかではありますが、お兄様はイズンガルズを攻めると同時に対イズンガルズ戦線から離反しようとした元同盟軍の国家への侵略も行っています。片手間の侵攻ではありますが、それでも勝利を収めてしまわれるほどお兄様は優れているのです!
聞くところによれば、カイが一人で主要な都市を陥落させたり有力者を暗殺したりしているので相手国も白旗を挙げているとか。それでも従わない国は見せしめとして徹底的に蹂躙し、他の同盟国を恐怖で服従させているらしいです。無駄な戦力を割かず適材適所で戦果を上げることができるのは、お兄様の采配の妙でしょう。
今日の視察で集まった陳情をまとめ、宰相に提出します。宰相は意見書を恭しく受け取り、はたと足を止めました。
「王太子妃殿下、ご帰郷されてのご出産はお考えになっておりますか? なにぶん、今の宮廷は……御身にとっては、あまりいい環境とは呼べないでしょう」
「ええ、そのつもりです。お兄様にももうすぐそのお手紙を送りますが、きっと歓迎してくださるでしょう。わたくしが不在の間のことは頼みましたよ、宰相」
「御意のままに」
懐妊して五か月目を数えるおかげか、最近はわたくしの体調も安定してきました。魔術の防護がかかった馬車なら、速く安全にノルンヘイムへ帰れるでしょう。
わたくしは近々ルファル王子の子を産みます。ですがヘズガルズの宮廷には、それを望まない者もいるでしょう。たとえば、強欲にも娘を寵姫の座で終わらせたくない貴族とか。
ルファル王子の移り気が一時的なもので、子を産んでからはまたわたくしのもとに戻ってくる? そんなことはどうだっていいのです。大切なことは、「浮気性の王太子にわたくしが愛想をつかした」と人々に思われるか、それだけですもの。
「宮廷人達には、私めから説明をしておきますゆえ。どうかなんの憂いもなくお過ごしくださいませ。元気な御子がお生まれになりますよう」
「ありがとう、宰相。……貴方の優秀な部下達にも、十分なねぎらいをしないといけませんわね」
宰相は笑みを浮かべて立ち去ります。ヘズガルズ王族の印象操作のためにわたくしが利用したのは、宰相が持つ間諜達です。
実力だけでのし上がった方ですもの、権威ある他の貴族達と渡り合うために彼が影で世論を操作するための腹心達を飼っていると当たりをつければ、案の定その通りでした。そのぐらいの腹芸ができていなければ、声のうるさい無能な貴族に何もかもを潰されて終わっていたでしょうね。
宰相ローフォール伯爵に、ヘズガルズへの愛国心はありません。……いえ、もしかしたらあるのかもしれませんが、それは決して現王朝への忠誠心と等式で結ばれる類のものではないはずです。もしそうであれば、彼はあらゆる手段を用いてわたくしを排除しているに違いありませんもの。
彼は自分の地位と、この国のよりよい未来のため、ヘズガルズをノルンヘイムに売りました。少なくとも宰相は、今の無能な王に国の舵取りを任せるより、お兄様に委ねたほうが正しいと判断したのです。宰相には先見の明がありますね。
里帰りの許可をいただけるよう、お兄様へのお手紙をしたためます。快諾のお返事はすぐに届きました。早速出立の支度をして、わたくしはヘズガルズの宮廷を後にします。後は、宰相がうまく経緯を脚色して広めてくれるでしょう。
*
「久しいな、エイル。息災そうで何よりだ」
「お兄様! お会いしとうございました!」
通された謁見の間には、お兄様がいらっしゃいました。それと、その他大勢の臣下達も。
久しぶりのお兄様です! お兄様は手にしていた鞭を側仕えに預け、足元に横たわっていた人を遠くのほうに蹴飛ばしました。わたくしの障害にならないようにでしょう。これで転ぶ心配もなく、お兄様に駆け寄ることができます。
「エイルはとても寂しかったのです。それでもお兄様の妹として、お兄様の名に恥じない振る舞いをしましたわ」
嬉しくて嬉しくて、人目もはばからず駆け寄って抱きしめてしまいます。お兄様は微笑と共にわたくしを抱き止めて、頭を優しく撫でてくださいました。ああ、なんという至福のひとときでしょう!
「案ずるな、お前の働きぶりは私の耳にも入っている。ノルンヘイムが戦勝を重ねているのも、お前がヘズガルズからの後援を取り付けてくれたおかげだ。よくやった、エイル」
お兄様の視線が、わたくしのお腹に向かいます。お兄様は慈愛に満ちた微笑を浮かべ、そっとお腹に触ってくださいました。
「生まれるのは男児か女児か……いずれにせよ、エイルによく似た美しい子が生まれるだろうな。楽しみだ。お前もそう思うだろう、カイ?」
「……」
カイは無言で、気まずげに目をそらしています。もちろんお兄様には、この子の父親のことは伝えています。カイが返答を避けているのは、周囲の臣下達のことを気にしているからかしら。それとも、お兄様にさえ隠し通せていると思っているからかしら?
「ところでお兄様、あちらで惨めに這いつくばっているのはどなたです? わたくし、お邪魔してしまったかしら」
「属国からの使者だ、気にするな。話はすでに済んでいる。……おい、その男の首を斬り落として祖国に送り返してやれ。それが私の答えだ」
お兄様は官吏に指示を出します。さんざん鞭で打ちすえられて息もしているか怪しいその使者を、官吏達は速やかに謁見の間から運び出していきました。
属国……ああ、愚かにもお兄様にたてついた、元友好国のどこかのことでしょう。もはや対等な国家として扱うのも不相応な、身の程知らずな国の方。叛逆を企てただけでも罪深いのに、このうえどんなおこがましい要求をしてきたのでしょうか。
「ある国から賠償に色々と搾取してたら、その国の王から嘆願が届いたんだよ。これ以上は何も渡せないってさ。結果はシグを余計に怒らせただけだけど。せっかく国としての形は残してもらえたのに、馬鹿な王。正式にノルンヘイムの領土として吸収して終わりかな」
「ですが、仕方ないことですわ。だってお兄様のお慈悲を理解できないんですもの」
カイがこっそり教えてくれます。領土を広げるのは、お兄様の暇つぶしでしょう。本命のイズンガルズを陥落させるついでに、大陸全土を平定なさるおつもりなのかもしれません。さすがお兄様、大局を見据えていらっしゃいます。
物語でも、十年戦争のおかげで大陸のほとんどはノルンヘイムの旗下でした。それほどまでに勢力を拡げるお兄様でありながら、“主人公”の登場のせいでお兄様は……いいえ、“主人公”はもうどこにもいません。お兄様こそ世界の勝者になるべきお方、滅ぼされるべき悪などではないのです。




