騎士の逡巡
* * *
「聞いたか? あの砦、ついに降伏したらしい。無茶な籠城のせいで何人も死んだってよ。どうせ降伏するんなら、とっとと音を上げてりゃよかったんだ。ともあれ、これでイズンガルズはまた一歩追い詰められたな」
「だが、追い詰められたイズンガルズが何をしてくるかわからないぞ。なんせエイル殿下の結婚式で、畏れ多くも我らが陛下を暗殺するような卑劣な連中だからな」
「そういえば、支配下に置いていた南部の町で義勇軍が発足したとか。それに気づいたシグルズ殿下の迅速な指示で、組織が大きくなる前に潰されたそうだが。まったく、シグルズ殿下は聡明なお方だよ。イズンガルズがどんな卑怯な手を使っても、我らが英雄シグルズ殿下がいてくだされば大丈夫さ」
部隊の詰所は、明るい話題で持ちきりだった。俺以外の全員が明るい話題だと思っている話、といったほうが正しいかもしれない。
戦勝の報せとともに、犠牲になった命の数を知らされる。祖国が勝利を掴むことはもちろん喜ばしい。それでも、無辜の命が踏み躙られていくのは耐え難い悲しみだった。それがたとえ敵国の民のものだとしても。
「なあ、ジェレゴ」
「え……ええ。そうですね」
話を振られても、曖昧に笑うことしかできなかった。どうして同僚達は、平然と手を叩いて喜んでいるのだろう。
それとも、それがノルンヘイムの民が持つべき愛国心と忠誠心で、彼らに同調できない俺は忠誠心に欠けた非国民なのだろうか。
「まだ詳しい日程は未定のようだが、殿下は近々また自ら出陣なさるらしい。戦場で殿下の目に留まる活躍ができれば、出世も約束されたも同然さ。殿下に取り立てられるためにも、死力を尽くして祖国に勝利をもたらさないとな!」
「殿下が指揮をしてくだされば、常勝の我が軍はさらなる躍進を遂げられるだろう。大陸全土がノルンヘイムの領土になる日も近い。……なんてな、ははははは!」
我らがノルンヘイムの王太子、シグルズ殿下。人望に篤く、政治家としての手腕も優秀で、まだ未成年ながらもすでに君主たる風格を備えた、まさに英雄のようなお人だ。
殿下は幼少のみぎりから前王陛下の補佐をしていただけでなく、騎士団長をはじめとした武人達相手にも引けを取らない武術の才を発揮していた。聖鐘教の教義を不当な差別だと切り捨て、被差別民達を保護しつつ“悪の皇国”に宣戦布告をした殿下のことを慈愛と勇気に満ちた賢君だと称賛する声は大きい。陛下が凶刃に倒れてなお国内が乱れなかったのも、すべてシグルズ殿下の采配のおかげだ。
……だが、シグルズ殿下はとても苛烈な方でもあった。
宗教改革に応じない信徒や聖職者達は処刑され、今も軍靴がイズンガルズ側の国々を荒らして回っている。敵軍の仲間割れや裏切りを誘発して自滅に導いたとか、降伏に応じない有力者達を残忍に処刑したという噂は枚挙にいとまがないし、騎士として実際に様々な戦場に赴いた俺はその噂のほぼすべてが真実であると知っていた。
本来なら玉座に座るべきだったのは、このように冷酷なシグルズ殿下ではない。第一王子たるシンフィ殿下こそ、この国の正統なる王位継承者であり、今シグルズ殿下に集まっているありとあらゆる称賛を受けるべき方だった。
寵姫を母に持つシグルズ殿下には、本来なら継承権など存在しなかった。シンフィ殿下が謎の死を遂げ、彼の異母弟だったシグルズ殿下が正式に王族として扱われるようになったのは、俺達がまだ子供だった時のことだ。
確かにシンフィ殿下はわがままな方だったが、それでも俺はシンフィ殿下こそを生涯の主君だと定めていた。シンフィ殿下に足りないところは、俺のような臣下が補えばいい。王になるのは、シグルズ殿下ではなくシンフィ殿下だったはずなのに。
シグルズ殿下が王子として扱われるようになって、宮廷の様子はだいぶ様変わりしたと子供心に肌で感じた。シンフィ殿下の学友だった俺や、第一王子を王太子にと推していた俺の家も、身の振り方を改めるよう求められた。王弟殿下が不慮の事故死を遂げてから、その風潮はさらに強まった。
本当なら俺は、シンフィ殿下に仕えていた時と同じように、シグルズ殿下の近衛騎士見習いになるはずだった。だが、未来の近衛騎士を志願する子供達を集めて「本気で私を守れると豪語する者は前に出ろ、その思い上がりを正してやる」と挑発して即座に全員叩きのめした方の護衛は、俺達のような見習い騎士には重すぎる。
そもそも俺は、親に言われたから志願しただけだ。本音を言えば、俺はシグルズ殿下中心の宮廷になじめなかった。
シグルズ殿下は、同年代の子供の誰よりも強くて賢く、なにより不気味だった。かつて俺と同じようにシンフィ殿下の取り巻きをしていて、シグルズ殿下に鞍替えしようとした奴のことは何人も知っている。シグルズ殿下はそいつらを拒まなかった。だが、誰も殿下のお気に入りにはなれなかった。
シグルズ殿下のお気に入りは、最愛の妹君であるエイル王女殿下を除けばラシック伯爵家の嫡男だったカイぐらいのものだろう。今のカイは宮廷魔導師として大成したし、殿下の寵臣としてそれなりの影響力を握っている。白髪金目の奴をいじめていた連中は、殿下の背後を影のようについていく奴を見かけるたびに冷や汗を垂らしているに違いない。俺もそのうちの一人だ。
殿下はカイ以外に目をかけている側近もいないし、婚約者も決めていない。何をすれば、カイのようにシグルズ殿下に気に入られることができるのか。同年代の貴族子女達はみなその秘訣を知りたがった。
その間、俺はずっとシンフィ殿下への忠誠心と、家を守るという義務感に揺れていた。個人としてはシンフィ殿下の死を悼みながら、家名を背負う者としてはシグルズ殿下に跪かなければいけない。そんな弱い自分が嫌いだった。
きっと、誰も彼もが無意識のうちに察していたんだろう。殿下の不興を買えば、潰されるのは自分だと。だが……一体いつまで、そうやってびくびくしていればいい?
「おーいジェレゴ、この資料を宮廷魔導師の城に持っていってくれよ。同い年の同期がいるだろ、ほら、あいつ宛」
「……カイとは、別に親しくもなんともないですが」
詰所の扉が開いて、先輩騎士が現れる。宮廷魔導師の城にいて、俺と同じ年に仕官した同い年。そんな相手はカイしかいなかった。
「次の出兵の作戦にかかわる大事な資料なんだ。あいつから申請されて、昨日渡す約束だったのを忘れててさ。頼む、この通り!」
先輩からの頼みは断れず、分厚い封筒を受け取る。重い足を引きずるように、詰め所を後にして宮廷魔導師の城へと向かった。
*
「確かに受け取ったよ。王国騎士団第三大隊は、ずいぶん気が長いらしいことも理解した。難しかったのは時計の読み方か? 七曜表の数え方か? それとも、剣戟の音で耳が遠くなって僕の指示が聴こえなくなったのかもしれないな。早急に教師を呼ぶか、医者に頼ることをおすすめするよ」
「も、申し訳ない」
まだ陽は高いというのにカーテンの締め切られたその執務室には、過剰なまでに素肌を隠した魔導師がいた。
彼はティーカップをローテーブルに置いてソファから立ち上がると、不機嫌そうに俺から封筒を奪い取る。俺の分のお茶は期待できないだろう。出されたとしても、手をつける気はないが。
「だが、一日遅れただけでしょう。そもそも、俺は届けに来ただけです。遅くなったのは俺の責任では、」
「その遅れがどれだけ僕の時間を無駄にしたと思う? 一週間後の出兵に備えて、僕には考えなくちゃいけないことがあるんだよ」
封筒を開けながら、カイはソファに座り直した。一人チェスでもしていたのか、ローテーブルの上に出ていたチェス盤を横にそらしてカイは資料を広げ始める。
「ちょこまか動くお前達がどこにいるか把握していないと、僕の魔術が妨げられる。もちろん、お前達の部隊ごと敵兵を焼き払っていいならそうするけど?」
白いフードの下で、不気味な金色の目が昏く光る。俺を見上げるその瞳に、思わず息が詰まった。この男ならそれができる。できてしまう。
「覚えておけよ、ジェレゴ。僕がその気になれば、いつでもお前を氷漬けにできるんだ。ずっと昔、お前とその友達が僕にしたように、お前の顔に大火傷を負わせることもな。それとも全身を燃やされたいか?」
「……」
「僕がそうしないのはただ一つ、お前が騎士としてそれなりに優秀だからだ。お前が戦場で上げている功績は、シグルズ殿下の耳にも届いてる。……殿下の公正なご判断に感謝しろ」
「殿下が、俺を?」
正直に言えば意外だった。俺はただ、周囲に流されるままにシグルズ殿下の近くにいただけだ。取り立てられることはおろか、存在すら認識されていないと思っていたのに。
「どう言い繕ってもお前は蹂躙する側だよ、ジェレゴ・ベルハント。心の中でどれだけ善人ぶろうとも、我が身可愛さで弱者の叫びに目を背ける限りずっとお前は変わらない。戦場で奪った命の重さを嘆いて神に懺悔しても、その足できちんと宮廷に帰ってきてるじゃないか」
そんな俺の心の内を読んだように、カイの目が嗤うように細められた。
「けれど殿下は、それこそお前の忠義だと知っている。お前は今迷っているだろうと、殿下は心を痛めておられた。お前は優しい男だから、正義の天秤が情に揺さぶられていやしないかってね。……お前の苦しみを、殿下はご理解してくださってるよ。それでもなお国のため、民のために戦うお前の勇気を、殿下は高く評価しておいでだ」
「俺は……」
「お前は真面目で、忠誠心に篤い。まるでおとぎ話の中にいる、理想の騎士様だね。大義のためなら、お前はどんな巨悪にも立ち向かえるだろう。……ノルンヘイムには、きっとお前のような剣が必要だ」
俺は迷っていた。俺が仕えるべきはシンフィ殿下であり、シグルズ殿下に仕えるのは亡くなったシンフィ殿下への裏切りなのではないかと。
だが、祖国そのものへの忠誠なら、シンフィ殿下がご存命の折から変わっていない。……ああ、そうか。俺は確かにシグルズ殿下が苦手だ。だが、シグルズ殿下個人ではなく、ノルンヘイムのためならば、俺はまだ正義を胸に戦える。
これまで奪った命のこと。これから奪う命のこと。シグルズ殿下への恐怖とわずかな不信。それでも、俺はそれらすべてを乗り越えてノルンヘイムの騎士でいよう。
そんな胸の内を吐露すると、カイは小さく頷いた。
「ジェレゴ、確かにお前はイズンガルズ側から見れば血も涙もない略奪者だろう。神に唾を吐いた暴君に従う、悪の尖兵だと思われても仕方ない。だけどノルンヘイム側からすれば、お前は慈悲深い賢君と共に戦う英雄の一人なんだ。確かに戦争のせいで多くの命が失われた。それでも、その死は無駄じゃない。新しい時代の幕を開けるための、必要な礎なんだ。流れた血は、必ず正しい形で報われるだろう」
「覚えておこう。……話せてよかった、カイ・ラシック」
* * *
ジェレゴは憑き物が落ちたように晴れやかな顔で執務室を出ていった。資料に目を通しながら、僕は視線を上げずに執務室にひそんでいたもう一人の人物に声をかける。
「こんな感じでよかった?」
「上出来だ。カイ、よくやった。褒めて遣わそう」
「この程度ならいくらでも。それよりシグ、どうして自分で言わないんだよ?」
執務机の下から、ティーカップとソーサーを持ったシグルズが姿を現した。見世物が気に入ったのかずいぶんと満足そうな顔をしている。偶然来ていた彼こそ、ただ面白いからという理由で物陰に隠れ、そのままジェレゴを中に招き入れるよう僕に指示した張本人だ。
本当は、ヘズガルズにいる間の僕が個人的に何をしていたか、チェスをするついでに聞き出そうとしたようだけど……興味の矛先が無事に逸れたようでよかった。シグルズには、「何もなかった」で通してある。僕は使者として外交していただけで、特別報告するようなことはなかったと。
どうせエイルから仔細は聞いているはずだ。シグルズは、僕との押し問答という茶番を楽しみたいだけに過ぎない。だから、僕からは何も言わないことにした。本気で僕の口を割らせたいなら、そう一言本気で命じてくれればいいだけなんだから。
「あの男は私を信頼していない。その私が呼び出して直接讃えるより、他者からの伝聞という形にした方が心に響くだろう? それがお前からならなおさらだ。くくく、あの男はお前への罪悪感をまだ持っているぞ」
「持ってなかったら忠告しないで殺してる。だからって許すつもりもないけど」
ジェレゴは昔、シンフィとルツと一緒になって僕を羽交い絞めにして、僕を陽に焼いて嗤った。たとえ子供のころの記憶でも、僕の心には深く刻まれている。僕のフードとマスクを強引に取って、シグルズにだけ許されるべき姿を晒させた。いたずらで済ませていいわけがない。
「ルツは次の戦場で殺していいんだよな?」
「構わん。ただし、指示通りにな」
「当然。この資料のおかげで、騎士達がどこにどう配置されて進軍するかはすぐにわかるし。問題ないよ」
筋書きはできてる。次の第三大隊の出兵先は、ノルンヘイムの同盟国の一つの領土内だ。ノルンヘイム王国軍は、そこの戦場に援軍を送ることになっている。戦場の近くには村があって、そこが王国軍の補給予定地の一つだった。
農業だけで成り立っている、なんの面白みもない小さな村。だから、ルツが在籍している小隊がその村を守っている時を狙って僕がそこを焼き払う。イズンガルズ兵の仕業に見せかけて。
ノルンヘイムは少し勝ちすぎた。油断は惰性を招き、やがて手痛い敗北を生む。この辺りで国民に危機感を持ってもらい、恐怖と憎悪を与えたいというのがシグルズの考えだ。確かに、多少の刺激があったほうがシグルズの英雄譚が引き立つだろう。「シグルズがいるから大丈夫」ではなく「シグルズがいないと駄目」だと国中に知らしめないと。
ノルンヘイムは確かに勝利を重ねている。でも、それはあくまでもノルンヘイム軍の話だ。同盟国の中には、ずっと負け続けていたり、無闇に物資を提供させられて貧困にあえいでいたり、戦場として国土を荒らされていたりする国も多い。ノルンヘイムに対するやっかみが出てくるのもそろそろだ。
次の出兵先は、まさにそんな不満の溜まった国だった。平和で牧歌的な村が滅んで罪のない村人が大勢死んでしまったと知れば、その怒りの矛先は、下手人のイズンガルズと……火種を持ち込んだ、ノルンヘイムに向くだろう。
「出兵から一ヵ月と経たないうちに、かの国が民意によってノルンヘイムを裏切る。それに金貨一枚を賭けよう。乗るか、カイ」
「乗らないよ。賭けはどうせ君の勝ちなんだから」
国内外の不穏分子はできるだけ早く片付けたほうがいい。そのためならどんなことも大義名分に利用してやろう。たとえ同盟国だって、必要とあれば併呑する。世界の支配者になるのは、シグルズだ。
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