わたくしの月影
陽の下では生きられない繊細な肌に触れ、月のような黄金の瞳をじっと見つめます。皎い髪は月光を浴びてきらきらと輝いていました。
「わたくし以外にお兄様の寵愛を受ける者なんて嫌いです。あのリーヴァとかいうお人形のことも大嫌い。……けれど、貴方もリーヴァも、そしてもちろんわたくしも、お兄様に選ばれています。そのわたくし達を貶めることは、たとえ自身のことであってもこのわたくしが赦しません。だってそれは、わたくし達を選びたもうたお兄様への侮辱ですもの」
カイとは幼い時からずっと一緒にいました。わたくし達は共にお兄様に仕える同志で、お兄様の覇道に付き従う戦友で、お兄様の寵愛を奪い合う好敵手で――――一番長く時間を共有した、幼馴染です。
「カイ。まさか貴方は、自分を醜いと……穢れていると思っているの? 貴方はこんなにもきれいで、特別なのに?」
カイと結婚する気はありません。ファムにカイの名を出されても却下したことも、お兄様のおっしゃる通りルファル王子に嫁いだことも、間違っているとは思いません。何故なら今のわたくしは一国の王女。ただ好ましいからという理由だけで、結婚する相手を決めてはいけないからです。
カイから求婚の手紙が届くこともありませんでした。カイもきっと、王女としてのわたくしの意志を尊重したのでしょう。自分では、国のため、お兄様のためになる結婚相手になれないから、と。
「恥を忍んで認めましょう。ノルンヘイムが王女エイル・エーデルヴァイス・ハルメニア・ノルンヘイムではなく、ただのエイル・エーデルヴァイスとして。わたくしが崇拝しているのはお兄様お一人ですが――恋慕しているのはカイ・ラシック、貴方です」
カイほどわたくしと理想を共有できる相手はいません。カイのように、お兄様の狂信者たるわたくしを許容してくれる男性もいないでしょう。
わたくしにとって、カイは恋愛対象になりえない存在であるはずでした。幼いころはそうだったのです。だって、お兄様だけを追い求めていればよかったんですもの。
けれど結婚適齢期を迎え、たくさんの男性に求婚されるようになりました。ルファル王子と婚約し、男性が持つ情欲に触れました。そして、それを向けられても許せるのは、それを受け止めてあげてもいいと思えるのは、わたくしとずっと並び立っていたカイだけだったことを、その時はじめて知ったのです。
王女の結婚相手はカイ以外でなければならず、けれど私人としてのわたくしが愛することができるのはカイしかいない。やっぱり、わたくしはお父様の娘のようです。
きっとかつてのお父様も、似たような悩みを抱えたのでしょう。それならわたくしも、いつかお父様のように狂ってしまうのかしら。それとも、もう狂ってしまっているのかしら?
「どうして……! どうして今になってそんなことを言うんだよ、エイルぅ……!」
「今だからこそ、ですわ。今のわたくしはヘズガルズの王太子妃。いずれわたくしはこの国の王妃になり、国母と呼ばれることになるでしょう。ですがそのためには、貴方の協力が必要なのです」
ルファル王子亡きあとも、わたくしがヘズガルズで実権を握るために。
ヘズガルズの現王朝は、ルファル王子の代で途絶えさせてしまいましょう。だってわたくしは、カイ以外とは熱を交わせないんですもの。
「そうか。君は、愛情さえも道具にするんだな。それがシグのためになるなら、君は平気でそんな嘘だってつけるんだ。……ああ、そうだ、全部全部嘘に決まってる。でも――その嘘に、乗ってやるよ」
僕は君と違って弱いから。そういうことにしないと、僕は自分を律せないんだ――――皓い牙を覗かせて、カイは自嘲気味に笑いました。
*
「んっ……」
満ち足りた倦怠感に包まれながら横たわっていると、手首に小さな痛みが走りました。寄り添って寝ていたカイが、キスをしながら噛みついたせいです。
ぷつりと切れた素肌から、じんわりと血がにじんでいました。わたくしと繋いだ手を引いて、カイは恍惚とした表情でそれを舐めとりました。
「エイルの血……別に甘くもなければ美味しくもないな。苦くて鉄臭い、ただの血液だ」
「当然でしょう。わたくしをなんだと思ってらっしゃるの?」
わかりきったことを呟き、それでもカイはまたすぐに傷跡に舌を這わせて血を啜ります。くすぐったいです。
「おやめなさい、カイ。わたくしに傷をつけていいのはお兄様だけですわ。これではお兄様に叱られてしまいます」
「それは困るな……」
カイは残念そうにしながらも手を放してくれました。ですがこの咬み痕、しばらく残ってしまうでしょう。
痕がついたのはここだけではありません。肌を重ねている間、カイは声を抑えたかったのか、それとも別の理由があったのか、ずっとわたくしを強く抱きしめて肩や首筋に噛みついていたのです。声なんて、わざわざ殺さなくても部屋の外には響かないのに。
あまり強い力ではなかったので、無意識のうちにやっていたのだとは思います。ですが、なにぶんカイの歯は牙のように鋭いので、たとえ甘噛みでもわたくしの肢体はあちこち歯型で真っ赤になってしまっていました。しばらくの間は、この痕を人に見咎められないように気をつけないと。
「寝台は、帰る前に魔術で整えてくださいまし。魔術を使えば身も清められますわよね?」
「もちろん。……でも、もう少しだけこのままがいい」
「きゃっ」
切ない吐息が耳朶を震わせた次の瞬間、カイはわたくしを抱き寄せました。カイの心臓の音がよく聴こえます。青白い肌は少し汗ばんでいて、熱もまだ引いていないようでした。
壊れ物を扱うようにわたくしに触れるカイは、少しだけ震えているようです。それでも、しっかりとわたくしを抱き止めていました。
「僕はすべてを我が王に捧げた。その忠誠には、嘘も揺らぎも一切ない。シグに殺せと言われれば誰だって殺すし、死ねと言われれば自害する。……シグのためになるのなら、僕はきっと君でさえ手にかけるだろう。それは君も同じはずだ」
「ええ、そうですわね。万に一つもありえない可能性ですけれど、お兄様が貴方の最期を定めたのなら、わたくしはそれをきちんと見届けますわ」
「いいか、今から言うのは全部嘘だ。貞操観念って言葉すら知らない君に、ちょっとでも罪悪感を持ってもらいたくて言うだけだからな」
そう前置きし、愛しげに目を細めたカイはわたくしの頭を撫でて頭頂に優しいキスを降らせました。
「それでも僕は君を愛してるよ、エイル。これが君の見せたまぼろしで、僕は自分で用意した魔術にかかっていただけだったとしても構わない。……僕の腕の中に君がいる、それだけでもう死んでしまってもいいぐらいに幸せなんだ」
見上げると、カイは蕩けたような微笑を浮かべていました。月のような瞳は潤み、いっそう輝いて見えます。いつからカイはこんなに泣き虫になってしまったのかしら。でも、悪い気はしませんね。
「エイル、君はとてもきれいだ。僕なんかじゃその輝きは奪えない。僕のせいで君を穢してしまうかもしれないなんて、そんなの僕の思い上がりだった。……僕を赦してくれて、ありがとう」
わたくしを抱きしめる力が強くなります。壊さないように、けれど離さないというように。ややあって、カイは皮肉げに口角を吊り上げました。
「僕がどんなに自分勝手で醜いか、これで君もわかっただろう? たぶらかす相手に僕を選んだのは間違いだったな」
「カイったら、同じことを何度も言わせないでくださいまし」
目を閉じて、聴こえてくる鼓動を頼りにしながらカイの左胸に吸いつくようなキスをします。さんざん痕をつけられてしまったんですもの、これはわたくしからのささやかな仕返しです。
「わたくしに嫌われたら死んでしまう、と泣き出してしまったこと、お兄様に言いつけてあげようかしら」
「……泣いてないし、僕はそこまで言ってない」
「カイ、貴方は自分で思っているより嘘をつくのが下手でしてよ。それで騙せているのは自分一人だけですわ。……貴方、きっとずっと昔からわたくしのことが好きだったのでしょう? それ以上わたくしを愛してしまわないように、いつも自分を律してらっしゃったのね。いじらしいこと」
「うるさい。楽しそうに笑うな。そんなの君の勘違いだ。いいか、これで勝ったと思うなよ」
カイが何か言い繕っていますが、そんなものは負け犬の遠吠えです。カイのくせに口答えなんて許しません。唇で言葉を奪い、それをわからせてあげました。
カイの首に腕を回して身体を預けます。細くて不健康そうで、まっしろなカイ。それでもカイの腕の中は、ヘズガルズに来てから一番心の休まる場所でした。
夜が明けるまでまだ時間があるはずです。空に月が浮かんでいるうちは、もう少しだけこのままで。
*
それから使者団が帰国するまで、わたくしは毎夜ルファル王子との寝室を抜け出してカイと肌を重ねました。
昼の間、ノルンヘイムからの使者の一人として振る舞うカイは、夜の様子などおくびにも出しません。社交の場にもろくに出てこず、たとえ出たとしてもほとんど誰とも喋らずに俯いているかよそ見をしているのです。きっとそれがお兄様やわたくしがいない時の、カイの自然体なのでしょう。最初にカイがわたくしを避けはじめた幼い日のことを思い出し、なんだか少し懐かしくなりました。
白いローブとマスクで身を隠し、フードの隙間から金色に光る瞳だけを覗かせている陰気な魔導師。カイのことを、ヘズガルズの宮廷人は不気味がれども重要視はしていないようでした。まさか彼こそが王太子妃の愛人であるなど、誰一人として思っていないでしょう。
他の使者達はもちろん、ファムをはじめとしたノルンヘイムから連れてきた使用人達も、わたくしとカイが幼馴染であることをわざわざ言いふらしはしなかったようです。いたずらに焚きつけようとする者がいないのはいいことですね。これもカイの自制の結果と、わたくしの演技力の賜物かしら。
カイ達を見送った翌日の昼下がり、侍女だけを連れて庭園でお茶を飲んでいると、一人の老爺が恭しく歩み寄ってきました。宰相ローフォール伯爵です。
「いかがでしたか、王太子妃殿下。久方ぶりに故国の方々とお会いになられて、御身の疲れも癒せましたでしょうか?」
「ええ、宰相。おかげでしばらくは郷愁の念に悩まされずにすみそうです。ヘズガルズはとてもいい国ですけれど、どうしても生まれ育った故郷のことは懐かしく思えてしまいますもの」
「それは重畳。妃殿下には何不自由なくお過ごしいただきたいと、廷臣一同願っておりますので」
「ありがとう。貴方のような忠臣がいてくれるなら、ヘズガルズは安泰ですわ。どうかこれからもわたくしを支えてくださいましね」
宰相にしかわからないようお腹を撫でて、そっと微笑みます。すでにこのお胎には新たな命が宿ろうとしていると、確信めいたものがありました。




