聖女の使命
* * *
わたしがその男を初めて見たのは、十四、十五歳ころの時だ。
原因不明の大火事で焼き尽くされた貧民街、その区画の復興と再建が滞りなく進む中であの男――――王子シグルズは、何度か貧民街の跡地に直接足を運んでいた。
当時のわたしはそこで復興を進める作業員のための炊き出しを行っていたため、数えるほどではあるがシグルズの姿を見る機会があった。一目見た瞬間から、悲しく哀れな男だと思った。少年の姿をしたその獣は、人の心など持ち合わせていないと本能で察した。そんな存在が、国の頂点に立っていいわけがない。
わたしには特別な力も才も何もない。ただ神に祈るだけのしがない娘だ。それでも、あの昏い目をした王子を野放しにしてはいけないと思った。
もっとも、そう思ったというだけで、明確な行動に移せたわけではない。他の修道女達がわたしのことを不敬だと咎め、勝手に直談判などに出かけられないよう厳しく監視下に置いたからだ。まったくもって解せないことではあるが、彼女達にはあの王子こそが迷える獣であると見抜けなかったらしい。逆に、わたしのほうが手に負えない暴れ馬だとなじられる始末だった。確かに度を越した振る舞いをする貴族を街で見かけるたびに直訴していたが、わたしはわたしの正しいと思ったことをしているだけだ。その行いのせいで罰されようと構わない。正義を愛するわたしの心が、本当の意味で悪に屈することなどないのだから。
事情が変わったのは、王子が聖鐘教を淘汰するおふれを出したからだ。慌てふためく修道女達はもう、わたしのことなど見ていなかった。わたしは即座に修道院を抜け出し、王宮に向かった。
「シグルズ王子、あなたの性根はお見通しよ。あなたが民に示した救済は、決して民にとって救いにはなりえないわ」
「ほう? お前は他の者達のように、聖鐘教の廃止を撤回するよう言わんのか」
直訴の場には、わたしと同じように国王陛下や王子への拝謁を求める者達がいた。けれど、誰もがわたしとは見ているものが違うようだ。
「わたしは神に祈るだけ。たとえ聖鐘教がなくても、神の導きは潰えないわ。聖鐘教なんて、しょせん人が勝手に集まって神の教えを定義しているだけの集団ですもの」
「そうか、ならば一人で勝手に祈っているといい」
「ええ、わたしは神に祈り続けたわ。あなたが改心するように、と。そして神は、わたしに進むべき道を与えてくださった。そう、わたしという存在があなたを包み、導けばいいのだと!」
「……なに?」
わたしは天啓を信じる。この王子のいびつさに気づいているのがわたしだけだと言うのなら、わたしが立ち上がらなければいけない。きっと神はそれを望んでいる。
「わたしは、あなたの悪徳も暴逆も赦しましょう。そのうえで、愛も知らない獣のようなあなたの心を必ず変えてみせるわ」
「ふふ、面白い女だ。どうやらお前は己の中に神を見出し、己を神と信じて疑っていないらしい。内なる心の声を神の声と呼び、神の名のもとに自らの思想を周囲に振りかざすとは傲慢な」
「わたしはわたしが正しいと思うことをしているだけよ。詭弁で民を操ることで支配者になったつもりでいるあなたとは違う」
王子は、聖鐘教を排することですべての民を差別から救うと言った。けれどそれには、元聖鐘教信者が含まれていない。
王子は、聞こえのいいことだけを言って被差別民を焚きつけた。なるほど確かに志は立派だ。けれど王子の言葉には、愛がない。人の心がない。きっとこの王子は、民のことなどよくて愛玩動物程度にしか見ていないのだろう。
「あなたは迫害される人達に、上から目線の救いをもたらそうとした。けれどそれは国民のためではなくて、自分自身のためでしょう? あなたは、あなた以外の存在が支配者として君臨するのが許せないだけなんだから」
「天上におわす神が人を救ったことがあるか? 口先だけでなしえる大義などはない。己という名の神を盲信するお前は、お前の感情一つで好きに私を非難するのだろう。だが、その行為に何の意味がある。お前は欺瞞を振りかざし、救いを求める民の邪魔をして悦に入っているだけだ」
「そうでしょうね、みんなあなたにたぶらかされて目をくらませてしまっているもの。けれどわたしは、わたしだけは、あなたに騙されたりしない。あなた自身も知らないような、あなたの底に眠る可能性を必ず目覚めさせて――あなたに、愛を教えてあげる」
「……」
わたしは絶対に諦めない。だってそれができるのは、わたしだけなのだから。
「女、名は何という?」
「わたしはリーヴァ。リーヴァ・インステインよ」
「なるほど。ではリーヴァ、お前は不遜にも王子たる私を導くと言ったな。お前の言によれば、私は正道から外れた人でなしだという。ならば証明してみせよ、お前が信じる神とやらの言葉の正しさを」
困惑している他の人達をよそに、王子は愉しそうに笑った。
*
それから幾度か季節が巡ったが、わたしの決意に揺らぎはない。
あの日以来、シグルズはわたしをどこかの屋敷の一室にずっと監禁している。あの男は自分からわたしを懐に招き入れたのだ、このチャンスは決して逃がすわけにはいかない。
最初は何もなかったこの部屋だが、わたしが住めるようにとシグルズは少しずつ整えていた。わたしに与えられたこの部屋には、浴室も台所もある。食材をはじめとする必要な物は、シグルズが来るたびに持ってきてくれるので、シグルズがいない間でもわたしは何事もなく生きていけていた。
わたしにとってこの部屋は、シグルズから与えられた私室であり、シグルズ専用の告解部屋だ。ここでわたしはシグルズに正しい教えを説き、シグルズが抱える虚ろな衝動を受け止める。いつかシグルズが変わってくれる日を信じて、わたしは正義を胸に戦っていた。
「今日も思いやりのある行動ができているのね。いいことだわ」
「お前は本当に、見ていて飽きないなぁ」
寝台に腰掛けたわたしの髪をシグルズは丁寧に梳いてくれる。わたしの説教のかいあって、彼にも優しさが身についているのだ。嬉しくなって微笑むと、シグルズはうっとりとしたように呟いた。
シグルズはわたしの世話をかいがいしく焼いてくれる。わたしが今着ているドレスもシグルズが用意したものだ。
入れ代わり立ち代わり使用人がついた時期もあったが、みんなすぐにいなくなってしまうし、そもそも自分のことは自分でできるので使用人を雇うのは断っていた。するといつの間にかこの部屋に使用人が来ることはなくなり、たまに来るシグルズ自身が手ずからわたしの世話をするようになったのだ。子供扱いされるのは癪だが、これも彼の情操教育のためなので甘んじて受け入れていた。
それに、シグルズがここにいる間は、国民を苦しめるような政策をあれこれと打ち出せないはずだ。シグルズ不在の王宮では、まっとうな価値観を持つ官僚達が正しく国を動かしてくれているだろう。シグルズが秘める悪意が国全体に向けられるのを阻止するためなら、わたしはいくらでもシグルズをここに留めてみせる。
「私が囲っていなかったら、お前のような馬鹿はすぐどこぞの貴族に盾突いた咎で処刑されていただろうよ。惨めに無様に、何の爪痕も残せずな。羽虫のようにあっさりと潰され、打ち捨てられるのが精々か」
「口が悪いわ、シグルズ」
女性に向かってその口の利き方はよくない。次は紳士的な振る舞いを学ばせるべきだろうか。
「しかし事実だ。そうだろう? 頭の足りないお前を慈しめるのは、私しかいない」
そう言いながら、シグルズは手を止める。ほどなくして、背中に冷たい痛みが走った。きっと、いつの間にか取り出したナイフでわたしの背中を刺したのだろう。ああ、もう!
「物は大切にしなさい! ドレスが破れてしまうでしょう! たとえ命ないものであれ、粗末に扱ってはいけないわ! 人に刃物を向けるのも駄目!」
「はははははっ! つくづくお前は変わった女だなぁ! 私がどれだけお前に痛みを与えても、お前は悦ばないが怖がりもしない。リーヴァ、お前は何をしたら膝をつく? お前はいつ、私を王と認めるのだ?」
わたしを突き飛ばして寝台の上に横たえさせたシグルズは、丁寧に丁寧にわたしの身体に傷をつけていく。ドレスはもう着られないぐらいびりびりに破かれてしまった。もったいない。
「怖くなんてないわ。あなたは、わたしと同じ人間ですもの。今は獣でも、必ずあなたは人になれる。……いい、シグルズ。人を苦しめることだけが、人を従わせる方法じゃない。痛めつけなくても、愛することはできるのよ」
「ならば教えてくれリーヴァ。お前が謳う、人の愛し方とやらをな」
馬乗りになったシグルズは愛おしそうに目を細め、わたしの喉にキスをする。治癒の力を使われたのか、痛みはたちまち引いていった。……今日の成果は、一歩進んで二歩下がったと言ったところだろう。
「人形遊びの途中にごめんね、シグ」
「なんだ? 政務は片付けてきたぞ。火急の用件でもできたか?」
どれほど時間が経っただろう。ノックの音がした。シグルズはわたしに毛布を被せて来客を出迎える。やってきたのは、シグルズの狂気を助長させている二人、その片割れである魔導師だ。この二人がいるせいで、シグルズは獣の道から引き返せないのだろう。
「次の出兵について、軍部が相談したいことがあるんだって。それから宰相が、そろそろヘズガルズに使者を送りたいからその会議をするってさ。……君が今王宮にいないってばれると厄介なんだ、早く帰ろう」
昏い瞳の魔導師はわたしを一瞥することもなく、手にしていた書類をめくりながらシグルズに話しかけた。そういえば、最近もう一人の片割れである王女の姿を見ていない。以前は、来るたびにわたしを射殺しそうな目で見ていたものだが。
「仕方あるまい。リーヴァ、次はもっと長居できるようにするからな」
「ええ、そうしてちょうだい。あなたを王宮にいさせていたら、国が乱れてしまうもの」
シグルズはにやりと笑い、魔導師と一緒に部屋を出ていく。鍵のかかる音がした。
寒いので、クローゼットから新しい服を取り出す。さて、次にシグルズが来たときは、どうやって人の道を示そう。考えていると、再びノックの音がした。
この部屋に入るのは三人。シグルズか、魔導師と王女だ。けれどシグルズならノックなんてしない。するとしたら魔導師か王女で、魔導師は今しがたシグルズと一緒に出ていった。忘れ物は見当たらないし、魔導師は基本的にわたしをいないものとして扱っている。わたし個人に用事があるとは思えない。となると王女だろうか。逡巡するうちにドアが開いた。現れたのは、使用人の仕着せを着た少女だ。
「やあやあどうも、コンニチハ。……あれあれあれ? 前に見た時より、少しばかり姿が変わっていないかい? 思ったよりも、時間が経ってしまったか。人の時間は短いね」
屋敷の使用人だろうか。シグルズの命令によってこの部屋には決して近づかず、この部屋以外の場所を管理する使用人達。だが、それならどうしてここに来たのだろう。
そもそも、部屋には鍵がかかっていたはずだ。今この部屋にある鍵は、魔術で作らせた特別なものだと聞いている。開けられるのはシグルズか王女、そして製作者である魔導師だけだといつぞやシグルズが言っていた。ただの使用人が入ってくることができるものなのだろうか。
「まあいいや。ハジメマシテ、囚われのお姫様。これまで痛かったろう、苦しかったろう? だけどもう大丈夫、ボクがキミを助けてあげる」
「あなたは誰?」
「ボク? ボクはそうだね、天使様だよ。キミのために、神様がボクを遣わしたんだ」
「嘘ね。神はそのようなことをなさってはいないわ。だってわたしはまだ、自分の使命を達成できていないんだもの」
「……ン? ンンンンン?」
「使命を果たすまで、わたしはここを一歩も動かないわ。お引き取りを、天使を騙る誰かさん」
「エート、キミは王子様のお気に入りになったんだよね? でもキミは、王子様に監禁されてるんじゃなかったの? 王子様が憎いとか、復讐したいとか、そういう感情はキミにはないの?」
「どうして? この状況は、わたしにとっては願ったり叶ったりのものなのよ? そもそもシグルズは、まだ人間になれていないわ。獣の行いを恨んだり憎んだりすることはあるかもしれないけど……それは同じ人間に対して向けるものとは違うでしょう? だからこそ、わたしはシグルズを赦しているの」
「……あれ? あれあれ? あれあれあれ? 思っていたのとなんだか違う。どうしよう、これじゃあ利用できないぞ?」
使用人の少女は困ったようにぐるぐるとその場で回り始めた。もしかするとこの子は、何か可哀想な子なのではないか。彼女のこともわたしが導き救ってあげるべきなのかもしれない。
「人間は、理解できないな……」
その言葉を最後に、少女は煙のように消えてしまった。……一体、なんだったんだろうか。
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