わたくしの地均
ヘズガルズの王太子妃となったわたくしを、ヘズガルズの民は若干の緊張と共に受け入れました。
イズンガルズからの刺客がノルンヘイム王を殺めたことで、ヘズガルズはイズンガルズとの決別を迫られています。あの刺客は、本当はお兄様の手によるものでしたけれど……発表された“真実”では、ヘズガルズを利用したイズンガルズ側の凶行ということになっています。
勝手に敵国の王女を花嫁にしたことでイズンガルズの不興を買い、姻戚となった国の王の暗殺の片棒を担いだことでノルンヘイムに睨まれて。結果ヘズガルズは国として正式にノルンヘイム側につくことに決めました。
ですが、まだ国内は一枚岩とは言えないのでしょう。
王侯貴族には、イズンガルズ派の者も多いはずです。そういった者達は、イズンガルズの意に反してノルンヘイムの王女を王太子妃に迎えたことはもちろん、ノルンヘイムにつかざるを得なくなった国の現状を快く思っていないはずでした。
その辺りのことを、ルファル王子はきちんと理解なさっているのかしら。……いいえ、相好を崩したままわたくしに甘ったるい言葉を吐いて、べたべたと馴れ馴れしく触れてくるこの方に、期待するだけ無駄でしょう。
それとも、扱いやすくてよかったと思うべきかしら。この様子なら、わたくしを守る盾としては使えないでしょうけど……王子に代わって実権を握るのはたやすそうです。
長旅を終えてヘズガルズの王宮の案内を受け、有力貴族達と顔合わせをして。式はすでにノルンヘイムで執り行いましたが、ヘズガルズでも披露のためのパーティーが催されるそうです。それらの予定を聞きながら、ヘズガルズで迎える最初の夜がやってきました。
ネグリジェに着替えて夫婦の寝室で待っていると、ルファル王子がやってきました。睦言を交わしながら、わたくしはサイドテーブルの傍に置いた香に手を伸ばします。……いい香り。
ルファル王子に身を任せるままに寝台の上に倒れ込んで。そして、するりと彼の腕から逃れます。ルファル王子は気づいたそぶりもなく、夢見るような眼差しで虚空に向かって愛を囁いています。きっと今の彼は、本当に夢を見ているのでしょう。
カイからもらった香は、幻覚を見せる香でした。その香を嗅いでいる間、ルファル王子は幻想の中のわたくしと睦み合っているのです。これで夫婦の営みができていないことが周囲に知れ渡ることなく、昼の間だけでも仲睦まじい夫婦を演じることができます。カイにしては気の利いたものをくれました。
わたくしは窓際に腰掛けて、ルファル王子が果てて眠るのを待っているだけでいいのです。あまりの効き目の強さから少しの毒性があるとのことですが、アラーニェちゃんに長年慣らされているわたくしには効きません。カイはそれをふまえて香を調合したようでした。
……アラーニェちゃん、元気にしているかしら。わたくしがノルンヘイムを離れている間は、アラーニェちゃんのことも、スルトのことも、カイに一任していますけど……いいえ、きっとカイなら大丈夫ですね。
カイといえば、結婚式の少し前につけられた咬み傷がまだ残ってしまっています。式の時は化粧でごまかしていましたけれど。これ、いつ消えるのかしら?
「わたくしに傷をつけていいのはお兄様だけなのに。言いつけられなかった幸運を噛みしめなさいな」
うっすらと残った痕がよく見えるように、指輪を外して窓に手をかざしてみます。夜空に浮かぶ綺麗な月はまるでカイの瞳のようで、思わずそれに向かって語りかけていました。
「噛み癖、結局治りませんでしたわね。ふふ、まさかわたくしにまで噛みつくだなんて」
ちょっとした気まぐれで、カイに噛まれたところを咥えてみました。痛いので、歯は強く立てません。カイったら、他の子にも噛みついているのかしら。
これだから、白髪金目は人の血を吸う魔物だなんて言われてしまうのです。誤解を解く気はカイにはないのでしょうか。物語の中では、カイが血を愛飲しているような描写はなかったはずですけれど。
……あら、どうやらルファル王子は気が済んだようです。蕩けたような、間抜けなお顔。
何もないところを抱きしめながら、熱っぽい吐息でわたくしの名前を呼んでいらっしゃいます。気持ち悪い……とは、思ってはいけませんね。今は香で代用していますが、いつかはわたくしがきちんと――――受け止める必要は、果たしてあるのでしょうか。
ああ、いけない。きちんと偽装をしませんと。
あらかじめ用意しておいたナイフを手に取り、王子の足の裏にそっと傷をつけます。滴った血はシーツをわずかに赤く染めました。
王子は妄想に夢中なので、気づいたそぶりはありません。これでわたくし達の“初夜”は無事に終わりました。偽装のために自分の肌を傷つけたりなどしませんわ。わたくし、痛いことは嫌ですもの。
これでやっと眠れると思ったのもつかの間、王子はまた瞳に獣欲を宿して欲望のままに動き出します。……これ、毎晩続くのかしら。憂鬱です。わたくしだけの寝室の手配も進めないといけませんね。
*
結局王子が眠りについたのは明け方でした。獣のような王子の横で眠るわけにもいきません。王子が眠るまで起きていたせいで眠くて眠くて仕方なくて、ついわたくしも寝坊してしまいましたが、臣下達はそれを極めて好意的に解釈したようでした。ヘズガルズでつけられた使用人達も、ノルンヘイムから連れてきた使用人達も、そしてわたくしのご機嫌取りに来た貴族達も、みなわたくしを気遣っています。
王子は昨夜のことが夢だとまったく気づいていないようです。夫婦の契りを交わしたせいか、彼はいっそうわたくしに対して遠慮なく触ってくるようになりました。
ですからわたくしも、それに合わせて演技をします。もうルファル王子なしでは生きていけないと、周囲に宣伝するように。
夜ごとルファル王子は妄想に耽り、わたくしは月を見上げていました。獣のような声から心をふさぎ、ノルンヘイムの地に想いを馳せ。お昼寝用だと言いくるめて私室に寝台を置かせることには成功しましたが、新婚から夫婦で寝室を共にしていないと外聞が悪いので、夜はどうしても夫婦の寝室で過ごすほかないのです。
生身で王子と肌を交わすことの抵抗は、いつまでも残っています。眠りについた王子の横で寝るのが精いっぱいなのに、あの獣欲をぶつけられるだなんておぞましいこと。カイのくれた香がなければ、今頃どうなっていたことか。
カイには感謝しないといけませんね。この香は慣れるまでの時間を稼ぐ一時しのぎではなく、わたくしの拠りどころになっていますもの。
懐妊のためにもいつか使ってはいけなくなる日が来るのでしょうが……今は、考えないようにいたしましょう。
「いやはや、一時はどうなることかと思ったが……。あのように可憐な姫ならば、王子が夢中になるのも仕方ないな」
「まったくだ。トクラー侯のはらわたはさぞ煮えくり返っているだろうが、ノルンヘイム王家が相手では勝ち目もない」
「しかしトクラー侯のご令嬢の振る舞いは目に余るのではないか? 王太子妃殿下がいくら寛容だといっても、限度というものがあるだろう」
パーティーで、どこかの貴族達がそう囁いています。誰もわたくしの意図には気づいていないようでした。
トクラー候。ヘズガルズに来た時に、一度だけ挨拶をした方です。どうやらルファル王子とわたくしの縁談は、ルファル王子が勝手に決めたもののようでした――――一目惚れという、裏も何もない至極単純な理由で。
「これはこれは王太子妃殿下。ご機嫌麗しゅう」
「御機嫌よう、マルシア様」
意地の悪そうな笑みを浮かべてわたくしに挨拶をしてきたこの令嬢こそ、トクラー侯の一人娘にしてルファル王子の元婚約者だった方でした。いつぞやの夜会でわたくしに一目惚れしたルファル王子は、自身の婚約を破棄したうえでわたくしに求婚してきたのです。
それを聞いた時はさすがのわたくしも驚いてしまいました。だってこのトクラー侯爵、親イズンガルズ派の筆頭貴族なんですもの。政略的な意味でも、心情的な意味でも、わたくしのことが憎くて憎くて仕方ない人がいるなんて。わたくしにとってこれほど幸運なことはありません。お兄様は、そこまで見越してこの縁談をお受けになったのでしょうか?
このマルシア、目論見通り細やかな嫌がらせをしてくれます。わたくしがヘズガルズに嫁いでから一ヵ月が経とうとしていますが、その間ずっとわたくしに付きまとってくるのです。
動物の死骸を送りつけたり、わたくしにだけお茶会の招待状を送らなかったり、わたくしに誤った情報を伝えたうえで催しに招待して笑いものにしようとしたり、本当にまめな方。ですがお義母様にされた嫌がらせに比べれば可愛らしいものばかりで、その点だけは期待外れですけれど。
マルシアに何かをされても、わたくしはあえて何もしませんでした。マルシアの好きなようにいじめられています。そしてそのたびに、健気に立ち上がるのです。怒りに震えるルファル王子をなだめ、「わたくしは大丈夫です、いたらぬわたくしを誰かが諫めてくださったのです」とそっと涙をぬぐえば、誰も彼もがわたくしに憐憫の目を向け、庇護の傘の下に入れてくれますから。
気づかないのは哀れで愚かなマルシアただ一人だけ。少しずつ、少しずつ宮廷での居場所がなくなっていることも――――やってもいない嫌がらせまでもが、自分のせいにされていることも。
マルシアの悪意など、わたくしにはお見通しです。お義母様からもっとたくさん嫌なことをされましたもの。
ですからわたくしはマルシアに乗り、利用しているのです。マルシアの可愛い嫌がらせがより過激なものになるように。
動物の死骸? 自然死した獣を一匹置いて何になるというのです。
狩人に頼んで多く集めた獣の死体をずたずたに引き裂き、血や臓物を撒き散らしましたとも。「人間のやることではない」と、護衛の騎士達からも好評でした。
わたくしだけ除け者にしたい? 届かないのがトクラー家からの招待状だけでは意味がないでしょう。
侍女を使って「トクラー家からの圧力で、王太子妃は徹底的に無視しないといけない」と他家の令嬢達の間に噂を流してあげたのです、感謝してくださいな。
浮いた時間は権威のある年かさのご婦人がたとの社交に当てさせていただきました。「若い娘達は礼儀をわきまえていない」と、皆様たいそうご立腹のようでしたけど。
お兄様からこれまでいただいた甘美な苦痛の記憶を頼りに包帯を巻き、まだ治っていない怪我の痛みを想像して。これ見よがしに包帯を王子の目から隠そうとして、それを見咎められる。そんな三文芝居も続けました。
だって憤る王子に縋り、「表沙汰になれば国家間の問題にまで発展してしまうかもしれません」「わたくし一人が耐えればいいのです、これ以上ヘズガルズとノルンヘイムの間に亀裂を生まないでくださいな」と涙ながらに訴えるだけで、重臣達はわたくしを思慮深い姫君だと称えてくれるんですもの。
そして親イズンガルズ派の軽率さだけが浮き彫りになり、彼らへの不信が募っていきます。取り巻きに囲まれているばかりのマルシアのアリバイなんて、誰も信じません。
人というのは、たとえ共通の敵や目的があってもまず身内の中で争う生き物です。責任を押し付け合って勝手に消耗し、やがてもっとも力のある指導者を見出すのです。新たな指導者としてふさわしい者こそがわたくしでした。
他国、それも大国からやってきた王女を軽く扱っていい道理などありません。今、親ノルンヘイム派に鞍替えした貴族を中心に、ヘズガルズの宮廷には新しい風が吹こうとしていました。
わたくしが反抗しないのをいいことに、今日もマルシアは好き勝手に鬱憤をぶつける言葉を吐いていきました。彼女が王子に好意を抱いていたのか、今となっては定かではありませんが……ようは、自分が得るはずだった王太子妃という地位と称賛を横から奪われたのが気に食わないのでしょう。これまではなんでも自分の思い通りにできたのですから、初めてのことでなおさら怒りが収まらないのかもしれません。
トクラー侯爵家はヘズガルズで最も勢力のある貴族家です。そのせいでマルシアも調子に乗っているのでしょう。ですが、たかが一国家の貴族一門ごときがお兄様の君臨するノルンヘイムの王家と張り合おうなど思い上がりも甚だしい。その勘違いを正し、現実を教えてあげるのも支配者の側に立つ者の務めです。
機は熟しました。どれもささやかな、可愛らしい嫌がらせばかりだとしても、マルシアの罪状は十分です。“侯爵令嬢マルシアは王太子妃を蛇蝎のごとく嫌っている”と、宮廷人に思わせることには成功しましたもの。
宮廷で権勢をふるった大貴族が、気に食わない国からやってきた王太子妃をなんとしてでも宮廷から追い出そうとしている――――お膳立ては十分です。実際、トクラー侯爵はそのつもりでしょうし。わたくしが祖国に泣きつけないよう、意図的に祖国との連絡手段を絶たせているのも知っています。
……裏で手を回してお兄様あてのお手紙を握り潰すだなんて、決して許されないことです。
さあ、下準備は終わりました。そろそろお掃除を始めましょう。
*
「ファム、今日の口紅はこれがいいわ。それから上唇に、この艶出しを塗ってちょうだい。少しでいいから」
「かしこまりました」
ファムに指示を出し、身支度を整えます。今日はトクラー侯爵邸で晩餐会の予定です。親イズンガルズ派貴族とはいえ正式な催しの場に王家への招待状を出さないのは外聞が悪いことですから、わたくしもルファル王子と連名で招待されていました。
トクラー邸で空虚な歓迎の言葉をもらい、乾杯の時間になります。ワイングラスを傾けて。喉元を過ぎていくぴりりとした刺激は、お兄様のことを思えばむしろ心地よくもありました。
だって今日は、親イズンガルズ派をヘズガルズの宮廷から一掃できる日――――ノルンヘイムがヘズガルズを手中に収めるための第一歩となる、記念すべき日なんですもの。
「……ッ」
咳込み、胸を押さえます。飲んでしまった異物を吐き出す風を装って、紙ナプキンを使って艶出しをぬぐい取りました。
口の端からぽたぽたと滴る赤い液体のほとんどはワインですが、がしゃんとグラスを落として苦悶の声を上げながら喉を掻きむしれば、ほら。晩餐の席で、たちまち悲鳴が響きます。
艶出しに混ぜた、水に溶けやすい毒。上唇に塗られたそれがワインに溶けたのです。毒の効かないわたくしには、少し変わった味のワインでしかありません。いざとなれは、自分で自分に治癒の秘跡を使うこともできますし。
苦しみから逃れようとする時ののたうち方は、お兄様に教わりました。お兄様は、いつでもわたくしと共に在るのです!
場は騒然としていました。ルファル王子がわたくしに縋りついています。トクラー侯爵の顔は見ものでした。彼はいつかわたくしのことを暗殺しようと思っていたのかもしれませんが、そのわたくしが勝手に苦しみ喘いでいるんですもの。マルシアも困惑しているようでした。
その日の晩餐会はたちどころに中止となりました。わたくしの分のグラスは割れてしまいましたし、注がれていたワインもテーブルクロスのしみになっています。詳しい検査をすることはできません。
ですがわたくしの体内からは、致死性の毒物が微量ながらも検出されています。わたくしは幸運にも摂取した毒物が少なかったことで生きながらえたものの、トクラー侯爵家がわたくしを暗殺しようとした――――ヘズガルズの司法院は、そう結論づけました。
トクラー家には前科があります。一人娘マルシアが王太子妃に対して行っていた苛烈な嫌がらせは目に余るものばかり。今さら無実を主張しても、聞く耳を持つ者などいませんでした。
「王太子妃殿下、ご機嫌麗しゅう」
「ええ、御機嫌よう」
王太子妃の暗殺を企てたトクラー家は取り潰しです。本家の人間はもちろん主要な分家筋の人間もみな処刑されました。親イズンガルズ派の権威は地に落ち、宮廷はすっかり風通しがよくなりました。
事の顛末がノルンヘイムに伝わってお兄様の怒りを買うことになってはたまらないと、宮廷人の誰もがわたくしにすり寄ってきます。告げ口なんていたしませんのに、臆病な方々ですこと。だってこの程度の国を手に入れるのに、お兄様のお手を煩わせるわけにはいきませんもの。




