わたくしの優越
「なんだそれ。エイルばっかりずるいじゃないか」
遊びにやってきたカイに昨日の隠れ鬼のことを話すと、カイは手袋越しに親指の爪をがりっと噛みました。あらあら、髪の毛まで一緒に噛んでしまっているではありませんか。カイの髪は、せいぜい後ろ髪が首筋を覆えるだけの長さしかないのですが、顔の左側の横の毛だけは肩につきそうなぐらい伸ばしているのです。
普段は指先まで隠している、ゆったりとした長いローブの袖が自然とずり落ちて、手袋に覆われた細い手首のラインも珍しく垣間見えています。カイの歯は鋭くてまるで牙のようですから、手袋ごと爪を噛みちぎってしまわないか少し心配になりました。
「治したほうがよくってよ、その悪癖」
「余計なお世話」
身を乗り出してカイの髪を耳にかけながら注意すると、カイはそう吐き捨てました。腹立たしいですが、それだけカイも苦々しく思っているのでしょう。悔しがるカイの姿は見ていて爽快です! カイを見ながら頬張る勝利のケーキはいっそう美味でした。
「僕も、そっちに行きたかった……」
「ふふ。妹特権でしてよ?」
「……親友特権。妹特権があるなら親友特権がないと不公平だ」
不機嫌そうな顔がいっそう歪みます。もっとも、カイはいつでも不機嫌そうな暗い顔をしていますが。いつもはフードやマスクで隠れていてよく見えないだけなのです。
「なあシグ、僕達親友だろ?」
「もちろん最初はお前も呼ぼうとしたさ。お前が兄上のところにいたのが悪いのだ」
長いまつげに覆われたお兄様の切れ長の瞳が、不快そうに歪みます。カイは目をそらしましたが、よく回る舌はすぐに弁明を述べはじめました。
「僕だって行きたくて行ったんじゃない。王妃が来いって言うから仕方なく行ったんだ。そうじゃなきゃ、あんな馬鹿王子の相手なんかするもんか。……あんな奴嫌いだ。いつも僕を笑い者にする」
カイは生まれつき、白い髪と金の瞳を持っています。それに、カイの髪には一房だけ紫が混じっているのです。もちろん染色ではありません。
白髪金目で生まれる子は、人ならざる者の血を引く子とされています。陽に弱く、無防備に素肌を陽光へ晒そうものなら肌が焼け爛れてしまうからです。
だからカイは、白いローブやマスク、手袋などで常に素肌を覆っています。遠目から見たら腕のあるてるてる坊主です。白髪に混じる一房の紫ですら、普段はフードに隠れていてよく見えませんから、真っ白なカイを彩るのは、ローブの裏地の黒と、金色の瞳ぐらいのものでしょう。
おまけに白髪金目の歯は鋭い牙のようで、人に噛みついたり血を吸ったりすると信じられていました。物語のカイが吸血行為をしていたような記憶はないので、吸血については迷信だと思います。ですが、少なくともカイには噛み癖があるので誤解は続くでしょう。早く直せばいいのに。
そのうえ人の身体に宿る紫は、邪神の寵愛の証と言われていました。その言葉を証明するように、紫の色を持って生まれた者は何か一つ不思議な力を使えるのです。
カイの力は確か、人のオーラのようなものが視える、というものだった気がします。人を見る目、本質を見抜く力に優れているということなのでしょう。わたくしは……前世の記憶も寵愛のおかげだと考えるのなら、何故か二つの力を賜っているのですが。
そのような出自だからこそ、カイは周囲になじむことができないのです。カイは将来を期待されている反面、影でこっそり邪神の取り替え子と呼ばれていることをわたくしは知っていました。
「あいつが王子で僕が伯爵の息子じゃなかったら、絶対氷漬けにしてたのに……」
「そうか。なら次は、無理にでも呼び寄せるとしよう」
「……! ああ!」
カイはぱぁっと顔を輝かせました。わかりやすい方。カイがこんな顔をするのは、わたくしの知る限りお兄様絡みの時だけです。
わたくし達兄妹と似たような境遇の方。それゆえお兄様はカイに目をかけ、カイもお兄様を盲信しているのでしょう。だってお兄様の瞳は、それはそれは美しい紫なのですから。わたくしの髪も紫ですし。
「兄上からまた何かされたのか?」
「……外でフードを取ってみろって。断ったら無理に取ろうとしてきた。なんとか逃げてきたけど、ほんと最悪」
「ほう」
前述の通り、カイは屋内だろうと屋外だろうと、夏だろうと冬だろうと、昼間であれば必ず厚着で素肌を隠しています。
今このサロンはカイに配慮してすべてのカーテンを締め切り、まだおやつの時間であるにもかかわらず照明をつけていましたが、カイの厚着は変わりません。今日は三人で過ごすおやつの時間ですから、フードとマスクだけは取っていますが。
「ならば、そうだな。カイ、今すぐ素肌を陽に晒せ。ああ、上半身だけでいいぞ」
そんなカイに向けて、お兄様はティーカップを手にしたままあっさりとそうお命じになられて。
「そんなことでいいわけ?」
カイも、その命令を平然と受け入れました。当然のことです。だってお兄様のご命令ですもの。
カイがローブとシャツを脱いでいる間に、わたくしは席を立ってカーテンを開けます。いいお天気です。日光浴にはちょうどいい日差しではないでしょうか。
「……ッ! ぅあ……あ、あ……ああああぁ……!」
「あらあら……」
ふと後ろを見れば、痛みに悶えるカイがいました。窓から差し込む陽の光に自ら身体を投げ出し、苦悶の声を上げています。透き通るような白い肌にはたちまち火傷が広がっていきました。ぼこぼこと膨れ上がる水ぶくれは、まるで血に濡れているようにてかてかしていました。
この気持ちのいいお日様を浴びられないなんて、お可哀想な方。でも、真っ白な肌の上で咲くように広がる赤は確かに美しいです。悔しいけれど、カイがお兄様のお気に入りになるのも頷けました。
カイがのけぞったり崩れ落ちてのたうち回ったりしています。そのせいで、患部は顔や胸、お腹だけにとどまりません。腕も背中も真っ赤です。お兄様ほどではないにせよ整っていた顔は、見るかげもなく崩れていきます。まるで赤い果実を潰しているかのようです。
皮膚が焼け爛れるカイを、お兄様は満足そうな目で見下ろしていました。……前言撤回ですわ。カイったら、なんてうらやましい方なのかしら。わたくしも、お兄様にそのような目で見ていただきたいのに。
「もういい。エイル、カーテンを閉めろ」
「かしこまりました、お兄様」
這いつくばったままのカイに、お兄様が歩み寄ります。その慈愛に満ちた微笑は、今はカイにだけ向けられたものです。
……むぅ。カイに意趣返しをされてしまいました。だってカイときたら、あんなにも得意げに笑ってわたくしを一瞥するんですもの。笑みを描く口許は、たとえ顔が爛れていてもわかります。
お兄様はカイに手をかざしました。御手から放たれる淡い光はカイを包んでいきます。今しがたカイが負った火傷は、たちまち癒えていきました。
「最悪。僕の体質を知っててやらせるとか、やっぱりシグは最低だ……」
カイは恍惚とした表情でそう呟きながら、再び服を着込んで席に戻ります。カイが日中に自ら素肌を晒すのは、きっとこれからもこれまでもお兄様のご命令以外ではありえないでしょう。
金の瞳は蕩けたようにお兄様だけを見つめていました。カイは痛めつけられることが大好きな、真性の変態さんなのです。お兄様限定で、ですが。
……あら? この言い方だと、まるでわたくしも変態さんみたいですね。わたくしは違います。わたくしはただ、お兄様が与えてくださる最上の苦痛を噛みしめているだけですもの。
「いい見世物だったぞ、カイ」
お兄様はくつくつと笑っています。シンフィ王子にできないことをいともたやすく実現してしまえるのが楽しいからでしょう。
カイがどこにいたって、カイの心はお兄様だけのものなのです。もちろん、わたくしの心もですが。お兄様に褒めていただいて、カイは嬉しそうにしていました。……いいな、いいな。
「お兄様、お兄様、エイルも何かしとうございます」
「ん? そうだな、こちらへ来るがいい」
お兄様はぽんぽんとご自分の膝を叩いてみせました。まさかそのお膝の上に、エイルを乗せてくださるのですか!?
「かしこまりました!」
椅子から飛び降りたわたくしを、お兄様は微笑みながら抱き上げてくれます。思った通り、お膝の上に座らせていただきました。ふふ、カイの嫉妬の視線が――――
「あ”っ……」
向けられた銀色の先端を認識した瞬間に、視界が狭くなって。
痛い、痛い、痛いですわお兄様。右目からあふれるのは涙でしょうか、それとも血?
「エイルの目は、甘いなぁ」
「ほっ……ほんと、れぅか……い”ぃ、さまぁ……? ょがっ……らぁ……」
テーブルクロスを汚してしまわないように、右目を覆って。血に塗れた手を、お兄様に伸ばします。赤い手形がお兄様の頬につきました。お兄様の喉が、こくんと動きます。ああお兄様、エイルの一部が、お兄様の血肉となれるのですね……!
フォークを舐め、お兄様はわたくしの頭を撫でてくれました。やはりお兄様は、返り血に染まっている時がいっとう美しいです。それに、わたくしを睨むカイの目ときたら! やっぱりわたくしが、お兄様に一番一番愛されているのです!
「カイ、兄上のところで何を見た?」
「変わり映えしない権力闘争」
抉り取ったわたくしの右目を再生させながら、お兄様は今日の本題に入ります。わたくしの視力はすぐに回復して、痛みもなくなりました。ふきんで手についた血を丁寧にぬぐいます。もちろんお兄様の頬も。すぐに綺麗になりました。
「あの馬鹿王子はやっぱりだめだね。王妃がどれだけ手を回しても、肝心の神輿があれじゃあさ。馬鹿王子につくのは、黴臭い伝統を守ることしか頭にない老害か、傀儡にしたがる佞臣ぐらいでしょ」
「上々だ。そうでなければ困るのだがな」
シンフィ王子。わたくしのもう一人の兄で、この国の王位継承候補者の一人です。けれどわたくしは知っています。いずれこの国の王冠を戴くことになるのは、シンフィ王子ではなくお兄様だと。
兄と言っても、シンフィ王子とわたくし達兄妹は母親が違います。シンフィ王子は王妃の子で、わたくし達は寵姫の子。王族として扱われることのないまま、成人と同時に爵位を与えられて臣籍に降下する身です。
わたくし達のお母様はすでにお隠れになっていましたから、その意味でもわたくし達の立場は非常に不安定でした。そんなわたくし達が早々に身分を失うことなく、王宮と敷地を同じくする離宮の一つ――――かつてお父様がお母様に与えなさった宮殿に引き続き住むことを許されているのは、幼いお兄様がお母様の生き写しであることに加え、お父様がわたくし達を愛している……はずだからです。
物語において、お兄様のお母様はお兄様が三歳の時に何者かに暗殺されてしまいます。現実では、わたくしが一歳の時の出来事でした。ですからわたくしは、わたくしの母としてのその方を覚えていません。お母様を描いた肖像画やわたくし達兄妹を映す鏡を見て、ようやくその面影に触れることができるのです。
お母様はとても美しい方でした。お兄様の母なのですから当然です。畏れ多くもこのわたくしも、お兄様に似ています。ですからわたくしも美しいのでしょう。
そしてやはりお兄様の母だというべきか、お母様も少し狂った方だったようです。お母様が、どのように狂っていたのか……そこまではわたくしも知りえません。けれどお父様は、そんなお母様こそを寵愛したようです。それゆえ寵姫は、王妃から目の仇にされていました。
その負の感情は、お母様亡きあと子供であるわたくし達に向けられています。けれどわたくし達には治癒の力があります。たくさんたくさんお兄様に愛されているおかげか、わたくしは人より少しばかり頑丈なようですので、大事に至ったことはありません。それにわたくし、ペットのアラーニェちゃんのおかげかどんな毒も効きませんし。
あの女がわたくし達……というより、正確にはお兄様を毛嫌いするのは、もう一つ理由がありました。それは、王位の継承についてです。
順当に言えば、継承権第一位は王弟殿下であり、第二位はあの女の実子である第一王子シンフィです。いずれ臣籍に下るわたくし達に、継承権などありません。ですが――――シンフィ王子の身に何かあれば、彼に代わってお兄様が台頭するのは目に見えていました。だってお兄様は優秀で、そのうえ父王の最愛の女性の子なのですから。
それが憶測などではないことは、わたくしの視た物語が教えてくれています。シンフィ王子は少年時代に没し、代わりにお兄様こそこの国の唯一の王子となるのです。そしてお兄様は王となり、短い栄華の末に果てる。それが血を好み、圧政を敷いた暴君の末路です。
もっとも、そのようなことはさせませんが。お兄様の治世は、末永いものであるべきなのです。“悪”や“主人公”の邪魔さえなければ、そうなるはずだったのですから。
「お前達もわかっていよう? 王座は、誰にふさわしいか」
「それはもちろん君さ、シグ」
「ええ、ええ! 王となるべきはお兄様ですわ!」
厳粛な問いに、わたくし達は間髪入れずに答えます。
そう、そうなのです。シンフィ王子は無能の極み。甘やかされた凡愚には、国の頂点など分不相応というものです。あの愚か者と半分とはいえ同じ血が流れていると思うとぞっとします。
王弟殿下だって、私腹を肥やすことばかりに熱心な方なのです。王位の継承が叶う者が、全員どこかに瑕疵があるならば――――愛するお兄様こそを王にしたいと思うのは、当然でしょう?
「邪魔者を始末する方法なら僕らがいくらでも考える。君はただ、命じてくれればそれでいい」
熱に浮かされたような目で、カイはお兄様を見ていました。今のわたくしも、きっと同じ目をしているのでしょうね。
「私が王となるのは自明の理だが、その前に道は均しておかねばな。……この国の玉冠など手段に過ぎん。真に目指すはその先よ」
仰せのままに、お兄様。露払いならばお任せを。
聖鐘教の排除、隣国の陥落と皇女の籠絡、終焉の獣の討伐、政敵の追放、そして王位の継承。すべきことは多いですが、一つずつ片付けていけば問題ありません。
わたくしが視た物語において、シンフィ王子が亡くなったのは十三歳の時だと言われています。すなわち今年中です。あの異母兄から、王宮を奪える日が来るのは。わたくしはお兄様が動き出す時を、指折り数えて待つことにいたしましょう。