わたくしの婚約
「はぁ……」
「王女殿下、ご無理はなさらず」
無数の手紙を前にしてため息をつくと、紅茶を淹れていた侍女のファムが心配そうに声をかけてきました。気分転換をしようと、わたくしは手紙の山を押しのけて大きく伸びをします。少々はしたないですが、私室なので問題はないでしょう。どうせ周りには侍女しかいませんし。
この手紙の差出人は、全員わたくしに求婚してきた方々でした。わたくしももう十六歳ということで、婚約は避けては通れない道なのです。
とはいえ、本当は目を通すのも面倒でした。だって、そんなことをしている時間があったらお兄様のもとに行っていますもの。ですが、ここに届けられた分はすべてお兄様が選んでくださったものなので、無下にするわけにもいきません。他の手紙はわたくしの目に触れるまでもなく処分されたらしいですが、楽しげに笑うお兄様いわく「これでもだいぶ絞ったぞ?」だそうで、本来ならどれだけの手紙が来ていたのかを考えるだけでぞっとしました。
ここ数日は、朝からずぅっと手紙を読んでその返事を書いています。けれど求婚の手紙は連日届けられるので、いくらこなしても終わりません。そろそろ腕が限界でした。
返事のほとんどは、お断りのためのものです。だってどの方も、変わり映えのしない文句でわたくしの美貌を褒め称えるだけなんですもの。お兄様の妹たるわたくしが美しいのは当然です。そんなわかりきった賛辞は必要ありません。もう少し頭を使ってほしいものです。
この手紙の差出人達は、誰を選んでもお兄様の利益になります。お兄様は、そういった方だけをお選びになったはずですもの。家柄、財産、そして権力。それらを持ち合わせる家に王女が嫁ぐことで、必ずお兄様のお役に立つことができます。それでも、決められた候補者達の中で少しぐらいわたくしの理想を通したいと思うのが、わたくしの密かな乙女心でした。
「どこかに、わたくしと同じぐらいお兄様を尊敬していてお兄様から信頼も厚くお兄様のためならすべてを擲ててお兄様のお役に立つことこそを至高とする殿方はいらっしゃらないのかしら……」
そんな方がいたら、すぐにでもお嫁に行きますのに。
ああ……お兄様が戦争をはじめようとなさっているのに、わたくしは何をしているのでしょう。こんな不毛な作業、すぐに終わらせるべきだとはわかっているのですが……どうしても、えり好みをしてしまうのです。だって、一生を添い遂げる相手になるかもしれない方なんですもの。
「お、恐れながら殿下、そのような殿方は……ああ、いえ、お一人だけいらっしゃるかもしれませんが……」
「なんですって!? ファム、心当たりがあるというの!?」
「殿下もよくご存知の方ですよ。ラシック家のカイ、」
「論外ですわ」
期待して損をしてしまいました。ファムの言葉を途中で切り、紅茶に手を伸ばします。確かにカイはわたくしが好敵手と認める程度にはお兄様に忠誠を誓っていますし、宮廷魔導師として確固たる地位を築きつつお兄様の第一の側近として振る舞っています。ですがカイは、あくまでもカイなのです。わたくしとカイが縁付いたからといって、宮廷内の情勢やお兄様の地盤が劇的に変わるわけではありません。
ラシック家は、かつて中立派と呼ばれていました。ですが、王族の中でも王弟や元王妃といったような国王と対立しかねない―お兄様とは明確に対立していましたが―立場の勢力がいなくなった今はそこまで中庸の立場にこだわることもなく、当然のように王家に従っています。嫡男であるカイが正式にお兄様の側近に取り立てられてからは、その色もより強くなっていました。
ですので、王家とラシック家が結びついたところで両家の関係と宮廷の勢力図に新しい風が吹いたり、お兄様の後ろ盾がより盤石になるということはないのです。だってカイが裏切るなんて……あるいは家族の離反を見過ごすなんて、ありえませんもの。
わたくしが結婚相手に求める理想は二通りあります。一つ目は、前述の通りお兄様の崇拝者であること。これこそわたくしの乙女心の現れです。そして二つ目は、手中に収めれば確実にお兄様が喜んでくださる方であること。こちらは王女として、お兄様の妹としての考えです。
とはいえ、一つ目の理想に出会える望みはほとんどないでしょう。最低でもカイぐらいの忠誠心を持っていなければ認めませんもの。上辺だけではなく、お兄様がお兄様であるからこそ愛し、絶対の服従を誓った方でないと。
ですから、二つ目の理想を追うべくこのようにして時間を費やすほかありませんでした。求婚者の誰を選んでも結果は同じですので、その中から少しでも見どころのありそうな方を探しているのです。
少しの間休憩をしていると、一人の侍女がお兄様の訪れを告げてくれました。まさかお兄様が来てくださるだなんて。急いで身支度を整え、お兄様をお迎えします。もちろん侍女達はすべて下がらせ、人払いを済ませてからです。手紙の山を見て、お兄様はにやりと笑いました。
「エイル、ずいぶん難航しているようだな?」
「だってお兄様、わたくしにも理想がありますもの。わたくしに選ばせるから悪いのですよ? この中から誰を選んでもいいとなれば、わたくしだってたくさんたくさん考えてしまいます」
「そうか、そうか。それはすまないことをした。それならエイル、この縁談を受けるがいい。私が決めたのだ、異論などはないだろう?」
「本当ですか!?」
お兄様直々のご指示ともなれば、わたくしが唱える理想など塵芥も同然です。拒めるわけがありません。
「仰せのままに、お兄様。お兄様から離れるのは寂しいですが、お兄様のためならばエイルはどこへなりともお嫁にいきますわ。一体どなたとの縁談なのです?」
「相手はヘズガルズの第一王子、ルファルだ。どこぞの夜会でお前を目にしたらしく、いたくご執心のようだったぞ」
「ヘズガルズ……イズンガルズ寄りの中立国ですか」
ヘズガルズは、物語においてはほとんど登場しない国の名前です。ですがそれは、あくまでも物語の舞台がノルンヘイムとイズンガルズだったからでした。やれヘズガルズからの援軍がどうの、ヘズガルズとの同盟がどうのと、イズンガルズ側の味方として名前だけならばたびたび登場します。
それに、現実においては確かに存在する国家ですから、国の名前と情報はきちんと知識としてわたくしの中にあります。お勉強しましたもの。ルファル王子ともどこかでお会いしたことがあるはずです。……あまり印象には残っていませんが。
ノルンヘイムがイズンガルズおよびその傘下の国々に宣戦布告した今、イズンガルズの友好国がノルンヘイムの王女に求婚するだなんて。狙いは一体何でしょう。和平のために両国の橋渡しをしたいのかしら、ノルンヘイムに鞍替えしたいのかしら、それとも……イズンガルズから要請を受けてノルンヘイムの懐柔をしようとしているのかしら?
「それではお兄様、わたくしはその方と結婚してヘズガルズを内側から手中に収めればよいのですね?」
「さすが我が妹だ、話が早くて助かる。ヘズガルズがイズンガルズから何を吹き込まれたか知らんが、お前ならその企みも必ずやくじけるだろう」
お兄様はわたくしを優しく撫でてくださいました。嬉しくて嬉しくて、今すぐ行動に出たい衝動に駆られてしまいます。
「仰せのままに、お兄様。ヘズガルズはわたくしが陥落としてみせますわ」
ヘズガルズは、南との貿易拠点となる商業国です。ここを押さえることができれば、必ずノルンヘイムの力になるでしょう。
「すぐにでも婚約発表のための夜会を催そう。式の日取りも決めねばな」
「あら、よろしいのですか? 戦時下なのですから、簡略化したもので構わないのですが」
「何を言う。たった一人の大切な妹の婚礼なのだぞ? それに、こんな時期だからこそ派手にやらねばなぁ。ヘズガルズはすでに我が国の傘下に下ったと、諸国に広く示さねば」
「まあ! それもそうですわね、お兄様」
楽しそうに、楽しそうにお兄様はわたくしの首を絞めたり放したりなさっていました。お兄様が楽しそうで、わたくしもとっても幸せです。
*
「結婚するんだってな。えーと……おめでとう」
わたくしの結婚相手が決まったせいか、王宮は華やかなお祝いの雰囲気に包まれています。ぴりぴりした情勢の中で王女の婚礼という明るい報せが来たともなれば、民が浮き足立つのも当然のことと言えましょう。
イズンガルズとの戦争は、開戦したばかりでした。ノルンヘイムからの宣戦布告に対し、イズンガルズ本国はともかくその傘下の小国が態度を決めかねており、イズンガルズからの返答がずるずると伸びていたのです。どうやら、イズンガルズ側の国々の中でも開戦派と和平派がわかれているようでした。そこをつつけば、一気に瓦解するかもしれません。
「ぜんっぜん気持ちがこもっていないですわ、カイ! こんな時ぐらい、その陰気なお顔はやめてくださいな」
「うるさい。もともとこんな顔なんだよ」
今日はルファル王子とのお茶会の日です。婚約が決まって以来、王子は祖国を離れてノルンヘイムに滞在していました。年明けの祝いもノルンヘイムで行う予定だとか。
お兄様がおっしゃっていた通り、ルファル王子は―たとえそれがどんな意図であれ―わたくしを手に入れることに躍起になっているようです。王子は頻繁に贈り物を届けてくださいますし、今日のようにお会いする場を設けることもありました。わたくしには一つ、慣れないこともあるのですが……それもまた、そのうち解消されるでしょう。
庭園でルファル王子が待っているので、わたくしも庭園に行かなければいけません。ですが偶然回廊でカイに会ったので、つい話しかけてしまいました。カイは宮廷魔導師として前線に出ることになっているので、最近はあまり王宮に……というより、わたくしと会えるところにいないのです。
カイは、お兄様が出陣なさる時は必ず付き従っていますし、お兄様が王宮にいる時でも夜の戦場をさまよいながらの遊撃作戦に参加しています。王宮にいる時ですら、その打ち合わせやら何やらで忙しくしているようでした。ですが、カイに軍役が務まっているのかしら……。その性格と白髪金目の弱点のせいか、平時のカイは宮廷魔導師達にすらなじめずいつも一人でふらふらしていたので、わたくしも心配です。
久しぶりに見るカイはどこか落ち着かない様子で周囲をきょろきょろと見ていました。わたくしの婚約が決まったのは半月ほど前のことなのですが、それまでカイからはさしたる音沙汰もありませんでした。
カイのことですからどこかで野垂れ死んでいるということは考えていませんでしたが、ようやく会えたというのに心ここに在らずと言った様子では、まるでわたくしを軽んじているようで気に入りません。
「ねえカイ、」
「これから王子とお茶会なんだろ。僕に構ってないでさっさと行けよ」
「ちょっと!」
カイは突き放すようにそう言って、さっさと歩いて行ってしまいました。……この感じは、覚えがあります。わたくしが十一、二歳ぐらいだった時、カイが不自然にわたくしから距離を取ろうとした時と同じです。わたくしの結婚が決まった今、カイはあのころとは違って本当にわたくしとの間に線引きをしようとしているのでしょう。
「つまらないですわ……」
カイのくせに、わたくしを避けるだなんて生意気です。あとでお兄様に……言いつけは、しませんけれど……。
*
「エイル様!」
「お招きありがとうございます、ルファル様」
わたくしに気づき、席についていたルファル王子はぱぁっと顔を輝かせて立ち上がります。わたくしより二つ年上だと聞いていますが、何度見ても少し子供っぽい方です。
「お会いできて光栄です。今日も春の菫のように可憐な貴女に」
「まあ、お上手ですこと」
ルファル王子は慣れたように膝をつき、わたくしの手を取って手の甲に口づけをします。はたから見れば何かの舞台のように絵になる姿なのかもしれませんが、恋愛小説のように鼓動が高鳴ったり心が弾んだりすることはありませんでした。
それからは、王子と一緒に、お茶を飲んだり他愛ないことを話したりして過ごします。愛想よく、王子を立てることだけに注力して。わたくしは可憐でか弱くて、愛する貴方に守ってもらわなければ生きていけないのです――――そういった印象を、植え付けて。
王子はわたくしを疑うことなく見ていました。自分が守らなければいけないと、自分は愛されていると、そういった自信に満ちた目で。
「おや、エイル様。失礼、これでは本当に貴女が風にさらわれる妖精になってしまう」
気障な言い回しとともに、身を乗り出したルファル王子が伸ばした手がわたくしの髪に触れます。掬い取ったのは、北風に舞ってきた花びらでした。
「ありがとうございます。ふふ、大丈夫ですよ、ルファル様。わたくしはどこにも行きません。いつまでも貴方の傍におりますわ」
鳥肌が立つのも、こわばるのも、心の中だけのことです。わたくしはお兄様の妹、ノルンヘイム唯一の王女です。本心はきちんと鍵をかけて、胸の奥だけにとどめることができるのです。だって、触られるたびに背筋がぞわぞわしていることを悟られてしまえば、この男を手玉に取ることができませんもの。
ルファル王子に対して、まだわたくしが慣れていないこと。それは、近寄られるたびに嫌な気持ちになることでした。馴れ馴れしく手を握られたり、髪を触られたり、キスをされたり。そんなこと、これまでお兄様やお父様、それからカイぐらいにしか許していなかったのです。
お兄様とお父様は、わたくしに対して家族以上の愛を持っていません。カイは昔から知っている幼馴染みですし、わたくしが何も言わずとも節度を守っています。それ以外の男性とは、ダンスを踊る時の接触は仕方ないとしてもきちんと一線は守らせていました。
叔父様は、大事に至る前にカイが手を下しましたから……ルファル王子が初めてなのです。甘い仮面の下にひそむ明確な劣情と支配欲を向けてきて、なおかつそれを拒めない相手というのは。
「本当に……本当に、可愛い人だ……」
侍女達が顔を赤らめながら目を背けているのがわかります。
熱っぽい吐息も、顎に添えられた指も、わたくしにとっては嫌悪の象徴です。それでもお兄様がこの方を選んだんですもの。ルファル王子はわたくしにとって御しやすく、陥落させやすく、それによって得られる旨味も大きいはずです。この貪るような接吻も、今は受け入れなければならないのでしょう。