わたくしの不満
優雅な昼下がりには、お兄様の奏でるヴァイオリンの旋律こそ似合います。
今日はわたくし(とカイ)のためだけの演奏会です。誰にだって邪魔はさせません。王族か、あるいは王族に特別に招かれた者だけが足を踏み入れることを赦される秘密の中庭は、お兄様のヴァイオリンの音色で満たされていました。
ヴァイオリンに真摯に向き合うお兄様の美しさ、そしてその甘く蕩けていく調べの素晴らしさといったら!
はらはらとこぼれる涙をぬぐうこともできず、わたくしはただ至高の演奏に耳を傾けていました。玲瓏たる響きに魂はすっかり虜となっています。もっとも、わたくしは元からお兄様の虜ですが。
「お兄様、今日も素敵な演奏でした!」
「僕には芸術はよくわからないけど……でも、シグのヴァイオリンはやっぱりすごい、と思う」
「当然だろう?」
曲が終わり、わたくし達が口々にお兄様を称えると、お兄様は優しい微笑を浮かべて頷いてくださります。
ああ、ああ、至高の存在たるお兄様をわたくしごときが言い表そうなどおこがましいにもほどがありますが、お兄様を前に言葉すら失う程度では福音書をしたためてお兄様の素晴らしさを伝えることができません……!
筆舌に尽くしがたいことがこれほどもどかしいだなんて……。人の世とは、なんとままならないものなのでしょう。
わたくしが自分の無力さに打ちひしがれている間に、お兄様は手ずからヴァイオリンを片付け、東屋にお入りになられました。カイがテーブルに軽食を並べます。
カイに後れを取ってはならないと、わたくしもお兄様のティーカップにお茶を注ぎました。カイの分? 欲しければ後で自分で用意するでしょう。
「それにしても……ずいぶん久しぶりに感じるな、こうして三人で集まるというのは」
感慨深げな表情でティーカップに伸ばしたお兄様の指先が、わたくしの手に偶然触れます。
けれどその幸運を噛みしめる前に、嫌な事実を指摘されてしまってわたくしは思わず顔をしかめました。
「まったくです。おかげでたくさんお兄様を独り占めすることができましたが、カイごときに軽く扱われるのは不愉快でしたっ」
「はは、そう言ってくれるな、エイル。カイは照れていただけなのだ。エイルがあまりにも可愛らしすぎてな」
「ちょっと待ってくれ。僕はそんなこと、一言も言ってないんだけど?」
「まあ。それなら仕方ないですわね」
「納得するな!」
カイが突然わたくしを避け始めた理由は、お兄様に訊いても教えてくださらなかったのですが……お兄様が頭を撫でてくださったので、すべてがどうでもよくなりました。
――――なんて、本当はわたくしも理解はしているのですけれど。ファムをはじめとした使用人から、口を酸っぱくして言われていましたし。「ラシック伯爵家の嫡男との交流は、節度を守ったものにするように」と。
ですがそれは、お兄様原理主義のわたくしに対する侮辱です。お兄様原理主義のカイに対する誤解です。わたくしとカイの関係は、あくまでもお兄様を中心にして成り立つものでしかありません。わたくしには、王女としてラシック伯爵家をひいきするつもりもなければ、お兄様の側近としてではないただのカイを重用するつもりもないのです。カイのことなど、恋愛対象として見てもいませんし。
それなのに、周囲のつまらない邪推のせいでわたくし達の関係が勝手に定義され、カイ自身もそうならないよう忖度することを選んだというのが、わたくしには許せないのです。お兄様の寵愛を独り占めできるのはとても喜ばしいことですが、カイがいなければ張り合いがないんですもの。
カイごときに気を回されなくたって、わたくしはきちんと領分を保てます。カイに心配されるほど落ちぶれてはいません。
お兄様が進む覇道の伴をする身としては、騒ぐ外野のことなどいちいち気にしていられないでしょう。だってそのようなものに、何の意味もありませんもの。
わたくしとカイが指標にすべきはお兄様だけ。有象無象ごときにお兄様が揺らぐことなどありえません。つまりわたくし達はお兄様のお声を、そのお姿のみを信じればいいのです。もしも有象無象が飛ばす野次のせいでお兄様の声が遮られるならば、その無礼者共を根こそぎ粛清すればいいだけでしょう。
わたくしとカイの仲について勝手な憶測が流れるのは面白くありませんが、そんなものは叩き潰せば済むことです。もしもそのおぞましい勘違いが巡り巡ってお兄様の不利益につながるというのなら、そうなる前にもみ消してしまいましょう。
臆病なカイにその選択肢はなかったのかもしれませんが、わたくしにはそれができました。だってわたくしはお兄様の妹、この国の唯一の王女ですもの。
「僕はもう知らないからな。今さら僕への陰口が増えたところでどうでもいいけど、自分の身は自分で守れよ」
カイがじろりとわたくしを睨んできます。わたくしが何を考えているのか、お見通しだということでしょう。わたくしが答えるより早く、それに笑って応えたのはお兄様でした。
「案ずるな。無理を通すのが私の、そしてエイルのやり方だ」
「その通りです。カイに心配されるまでもありませんわ!」
「そもそもこれはエイルが望んだことなのだ。それに私が水を差すとでも?」
「絶対面白がってただけだろ、シグ」
……あら? 何か誤解があるような気がしないでもありません。わたくしが望んだのは、有象無象ごときにおびやかされることのない時間のことなのですが。
お兄様の崇拝者ともあろう者が世間体に左右されるのが許せなかっただけで、わたくし自身カイに会いたかったなどということはありません、決して。
「はぁ……。ほんと、君達を見てると、自分が悩んでたことが馬鹿らしくなってくるよ」
日陰で身を縮ませるカイは、そうぼやいてクッキーをつまみました。何に悩んでいたかは知りませんが、どうせくだらないことでしょう。
「カイ、お前は私の一の側近だ。そしてエイルは私にとってかけがえのない妹。お前達は私を支えてくれる両翼であり、たとえ片方だけでももがれてしまうのは好ましくない。私はお前達とともに、新たな世界を見たいのだ」
「お兄様……!!!!!」
お兄様、お兄様、そのようなことをおっしゃられてしまっては、エイルは昂ってしまいます!
「お兄様、お兄様! それでしたら、わたくし達以上に重用する駒など要りませんわよね!? だってわたくし達は、いつだってお兄様のことを第一に考えて、結果を出してみせますもの!」
「シグが望むなら、僕らは何だってできるよ」
食い気味に尋ねるわたくしとは対照的に静かな様子ではありましたが、カイもきっぱり断言します。お兄様はくつくつと笑いました。
「そうだな。お前達は最高の手駒だ。お前達以上に優秀な者はそういないだろう」
それは才能のある者としてですか? それともお兄様がお与えになる苦痛を理解できる者という意味ですか?
いいえ、いいえ。そのどちらでも構いません。だって結果は何も変わりはしないんですもの! わたくしは、わたくし達は、お兄様に認められているのです!
「でしたらお兄様、エイルはここにお願いしとうございます――聖鐘教を、排斥なさってくださいませ」
導きの三神などという不確かなもの、お兄様の国には不要です。民が崇めるべきはお兄様お一人でいいのですから。
聖書などというくだらないもの、お兄様の威光の前では無意味です。民が信じるべきはお兄様のお言葉だけなのですから。
天使などという曖昧なもの、お兄様による支配には使えません。民を導くはお兄様がお与えになる苦痛だけなのですから。
終末論などという罪深いもの、お兄様の御世で口にするのも畏れ多い。お兄様は未来永劫に渡って、この地に君臨する御方なのですから。
ですから、ですから、どうか、どうか。聖なる教えを謳って民を惑わし、神の御使いを名乗って国を乱し、敬虔な信徒を気取って王威を嗤う者どもに、裁きを与えてくださいまし。
「確かにエイルの言うことも一理あるな。王と三神、支配者は何人もいらない。……でも、聖鐘教はノルンヘイムだけじゃなくて、周辺諸国の国教として確固たる地位を築いてる。それを弾圧しようとしたら、各国から非難されるぞ?」
「だからこそ、です。よぅく考えてくださいまし。わたくし達のような紫色を身体に宿す者が嫌われるのは、邪神様の寵愛者と言われているからでしょう? これは聖鐘教の教えです。……同様に、陽光に嫌われる白髪金目も。聖鐘教がそう定めたから、紫を持つ者も、白髪金目の者も迫害されてしまうのです」
「……ッ」
「ふむ」
カイは小さく息を飲んで目をそらしました。一方のお兄様は目を細め、わたくしの言葉を興味深げに聞いてくださっています。
「このような差別が許されていいのでしょうか? お兄様、わたくしは王族として、紫を身に宿す者として、そして白髪金目を友に持つ者として、この理不尽な世に一石を投じたいのです。今ここに信仰の自由を認め、迫害の歴史に終止符を打ちませんこと?」
「それができるのは私達だけだな。民を導く立場にある者でなければ、宗教という巨大な権力に立ち向かうのは難しい。王族でありながら紫の瞳を持つ私と、紫の髪を持つエイル。私達が迫害という不条理に抗うのであれば、忌み嫌われた者達の旗印となるだろう」
身体のどこかに紫色を持つ者は、生まれつき邪神に愛された者です。それを証明するように、わたくし達は何か常人とは違う力――――加護を得ています。
たとえばわたくしならば治癒の力。たとえばカイなら人の本質を見抜く力。たとえばお兄様なら、加護の完璧な模倣をする力。お兄様がお使いになる癒しの秘跡は、本来はわたくしに与えられた加護なのです。
白い髪と金の瞳を持つ者は、生まれつき太陽に嫌われた者です。それを証明するように、カイは日焼けのたびに人の何百倍もの苦しみを味わいます。
太陽というのは、すなわち楽園の鐘のことでした。聖典において楽園の鐘は太陽の形をしているとされており、楽園の鐘が鳴るというのは日が昇るという意味なのです。
ですからこの楽園の鐘に照らされた世界において、太陽の恵みを受けられない者というのは、まぎれもない異端の証明でした。
ですが、それはあくまでも聖鐘教が勝手に喧伝しているだけに過ぎません。
生まれ持った体質や外見が珍しいからと言って、それをあげつらうのが正しいことなのでしょうか?
わたくしはそうは思えないのです。それを証明するためにも、聖鐘教には敗者になっていただかないと。
「国内を均し、民の憂いを除くのもまた王たる者の務め。次に糺すべきは横暴かつ傲慢な聖鐘教だ。いずれノルンヘイムに君臨する者として、誤った教えを説く聖鐘教をこれ以上捨て置くわけにはいかん」
さて、これでスルトがお兄様に近づく可能性を一つ潰せるうえに、加護の力を持つ者や排斥され続けてきた白髪金目をお兄様への崇拝者にできますね。お兄様の慈悲深さは、恵まれない者達にとって救いの手となるでしょう。




