僕の煩悶
* * *
「アラーニェちゃん!」
元王妃の処刑から二週間ほど経ったある日のことだ。アラーニェを王宮で飼育する準備が整ったらしく、エイルがアラーニェを迎えに来た。僕に預けてからも、エイルはアラーニェの様子をたびたび見に来ていたけど、やっぱり傍に置いておくのが一番落ち着くんだろう。
父さんと母さんは、王女が伴さえつけずに息子の部屋に入り浸っていることにはじめは驚いていが、屋敷の中での自分の様子は他言無用とエイルが圧力をかけてからは見て見ぬふりをしてくれるようになった。本当は名家の娘が家族以外の男と二人きりになるのはいけないことなんだけど、それは早くてもデビュタント以降の話だ。エイルはまだ子供なので大丈夫だろう。
なにより、二人きりになる相手が僕だし。そのあたりのことをエイルに説明したところで、「カイ相手に、何を警戒すればいいのでしょう?」ときょとんとして言い放ちそうだ。……今はまだ、それが許される。だけど、今のエイルには王弟に粉をかけられていた問題があるから。だからきっと、これが最後だ。僕達が幼馴染でいられるのは。
王女と貴族の子息、その線引きぐらいは僕だってできる。僕が側近として控えるのはあくまでもシグルズであってエイルじゃない。アラーニェを返すことになった今、エイルとこれ以上個人的に親しくする理由はどこにもなかった。
「ありがとう存じます、カイ。わたくしの代わりにアラーニェちゃんのお世話をしてくれて」
「……別に」
ぶっきらぼうに答えてそっぽを向くけど、横目でアラーニェを見るのは止められない。こんな日が来るのはわかっていたし、アラーニェの本当の飼い主はエイルだ。でも……少し、寂しくなるな。もうアラーニェと一緒にいることも、エイルをこの部屋に入れることもなくなるんだから。
「でも、これが最後のお別れになるわけではないでしょう? 今度はカイがアラーニェちゃんに会いに来てくれればいいんですもの」
「これからはそう軽々しく会えなくなると思うけど。僕も魔術だけじゃなくて、次期当主としての勉強があるし……君だって、そろそろ王女としての自覚を持てとか言われる頃合いだろ」
「カイの口からそんな貴族らしい言葉が出るなんて……明日のお天気は雨で決まりですわね」
「僕のことを何だと思ってるんだよ?」
思わずエイルを睨んでしまう。見ないようにしてたのに。でも、エイルは気にした素振りもなかった。
「認めるのは悔しいですが、確かにその通りです。わたくしが自由に出歩けるのは子供まで。ですがわたくしが命じたことに、誰が何の異を唱えられましょう。だってわたくしは、お兄様の妹でしてよ?」
わたくしが好きに遊びまわれないのなら、カイから来てもらえばいいだけのことです。わたくしがカイに、アラーニェちゃんに会いに来なさいと一言命じたら。それを取り下げられるのは、お父様かお兄様だけ。ですから、何も問題ありません――――自信たっぷりに告げるその姿に、シグルズの影が重なる。
ああ、やっぱり彼女は、シグルズの妹だ。僕が初めて美しいと思った二人、どこまでも悪に堕ちていく狂った兄妹、その片割れだ。
「アラーニェちゃんに寂しい思いをさせるわけにはいきませんもの。お兄様もきっと賛成してくださいます。たとえカイにだって嫌とは言わせませんわ」
「……そういうことじゃないんだけど」
今の僕は、自分の部屋にいるので夏らしい装いをしている。顔の下半分をすっかり覆ってしまうマスクもないので、嫌悪に歪んだ顔がよく見えてしまうだろう。……好敵手に苦々しげな表情を見られるのは癪だ。
エイルは本当に理解していないんだろうか。そのわがままが通じるのが、子供だからこそだって。
僕はもう十四になった。社交嫌いなだけで、それ自体はできる年齢だ。エイルだってすぐに大きくなる。あっという間に社交界デビューして、結婚適齢期になって、どこかの男に嫁いでいく。それがシグルズの益になる縁談なら、この子はたとえ世界の反対側だろうと喜んで嫁いでいくだろう。その時に、かつて僕と親しくしすぎていたという事実は大きな枷になる。シグルズの足を引っ張るわけにはいかない。
僕の主観では生意気なチビにすぎないエイルも、客観的に見れば十分可愛い部類に入るはずだ。
菫色のさらさらでつややかな髪と、陶磁器のような白い肌。纏う馨しい香りはまるで媚薬だ。華奢な体躯は触れたら壊れてしまいそうなほど儚げで、長いまつげに縁どられた青色の物憂げな瞳は笑わせてみたくなる。その瞳に映してもらうためなら、多くの男が身持ちを崩すだろう。甘そうな桜色の唇からこぼれるおねだりがどんな理不尽なものだったとしても、その無邪気な声を退けられるのは少数派に違いない。……これは、あくまでもこいつを客観視したときの話だ。決して僕個人の意見ではない。
妖艶と狂気の具現がシグルズ・ヴィンタケーケン・ハルメニア・ノルンヘイムだとするなら、可憐と邪悪の具現がエイル・エーデルヴァイス・ハルメニア・ノルンヘイムといったところか。どちらも纏う雰囲気こそ違えど顔立ちは似ていて、同時に強い毒を秘めている。その毒に蕩けて溺れるか、それとも耐えきれずに死んでしまうかは相手次第だ。
幼女趣味の王弟に狙われるぐらいだから、あと数年もすればエイルは無数の求婚者に取り囲まれるに決まっている。もしかしたら、つぼみのうちからひそかに目をつけている男ももういるかもしれない。エイルという駒が持つ価値を、僕のせいで下げてしまうのは本意ではなかった。
「ゴーレムを貸してやるから、早くアラーニェを連れて帰れよ。僕は研究で忙しいんだ」
下賜された実験場は遠いけど、風の魔術のおかげで物理的な距離を無視して飛べる。そのおかげで炎の魔術も皆伝のめどが立ったので、僕の研究分野は地の魔術に移行していた。
ゴーレムはまだ試作品の段階を出ないような小型の奴らだけど、アラーニェの硝子の檻を運ぶぐらいなら耐久実験にも使えてちょうどいい。応接間で待っているはずのエイルの侍女達じゃ、アラーニェを見ただけで悲鳴を上げそうだし。
「ちょっと、急になんなんですの? まだ少ししか……もうっ!」
馬鹿なことを言い始めたエイルを、これ以上長居させるわけにはいかない。創造したゴーレム達に命じて檻を部屋の外に持ち出そうとすると、エイルは不満そうな顔をしながらも渋々出ていってくれた。
これでいい。これで僕らの接点は、王宮でたまにすれ違う程度のものになる。仮にエイルの前に出ることになったとしても、そこには必ずシグルズがいる。
これで、“これまで”と“これから”を切り離せた。僕らは、子供の頃の思い出の中では綺麗な幼馴染のままでいられるんだ。
*
エイルと会わないまま季節は過ぎる。エイルの社交界デビューの日は、冬の残り香を運ぶような風の吹く肌寒い春の日だった。今日は、エイルの十二歳の誕生日だ。
アラーニェを返したあの日以来、エイルから何度か私的な茶会への招待状が届いたけれど、僕はそれをすべて無視した。一方でシグルズからの誘いは必ず受諾した。シグルズは何も言わなかったし、訊かなかった。僕がエイルを遠ざける理由を察していたからだろう。
狩猟だとかチェスだとかといったシグルズ主催の場に、エイルが同席することはなかった。シグルズがエイルを呼んでいないか、参加したがるエイルをシグルズが止めたんだろう。社交の仕方は男女で異なるし、兄妹のための茶会に部外者の僕が参加していた今までが特例だっただけだから。
邪神の寵児で寵姫の子とはいえ、いまや王家の血を引くのはシグルズとエイルしかいない。二人はもはや軽く扱える存在ではなかった。エイルの近況は僕のもとまで届かないけど、きっと貴族令嬢達とうまくやっているだろう。……シグルズの妃にふさわしい令嬢の見極め、という意味も含めて。
王太子シグルズの周りには、多くの貴族の子弟が集うようになった。あのジェレゴやルツもだ。ジェレゴは僕を見るたび気まずそうにするけど、ルツは僕のことを完全に無視してシグルズにすり寄っているのが気に入らない。シグルズが何も言わないから、僕もさせたいようにさせてるけど。
多くの貴族がシグルズに一目置くようになった。今のうちから娘を親しくさせたいと、舞踏会で娘を紹介しにくる大人も多い。どの子もまんざらでもなさそうな顔をして、シグルズからダンスに誘われるのを待っている。シグルズは完璧な貴公子の仮面を被ってそれに応じていた。
今のところ、シグルズの眼鏡に適う令嬢はいないようだ。けれど仮に気に入った子ができたとしても、シグルズはすぐにその子を壊して治してまた壊してしまうだろう。そしてその子は離れていくんだ。僕とエイル以外にシグルズの重すぎる苦痛を受け入れられる存在を、僕は知らない。
僕は少し、ほんの少しだけ以前よりも社交界に顔を出すようになった。顔を出すと言っても、シグルズに来るよう言われた催しか、ラシック家が主催のものだけだ。それでも大きな進歩と言える。最低限、貴族の当主が覚えておくべき腹芸の仕方は学べるわけだし。
相変わらずシグルズ以外の友人はできなかったけど、必要だとも思えない。貴族同士のつながりなんて、騙し騙され、足を引っ張り合うだけのものだ。そもそも、魔術の才と王太子の学友という立場以上に、宮廷を渡り合ううえで強力なカードはない。それだけあれば十分だ。
父さんと母さんが僕に期待しているのは、貴族としてのラシック家を守ることではない。宮廷魔導師としてのラシック家を存続させることだ。貴族としてのラシック家の体面を保つのは弟達の仕事。だからやっぱり僕の身分は、伯爵家の次期当主でありながらも魔術の研究に没頭して許されるという面倒であり自由なもののままだ。
……そんな僕でも、エイルと会えるのは十四歳が限界だった。その時ならまだ、エイルは十一歳だったから。だからアラーニェを返す時機としては、やっぱりあの時が一番ふさわしかったんだろう。
エイルの誕生日かつ社交界デビューの夜会の招待状は、当然のようにラシック家に届いた。招待状の差出人の名は国王だ。ここ一ヵ月ほどエイルからの招待状は途絶えていたせいか、なんだか変な感じがした。エイルが主役の夜会なのに。これからは、この感覚に慣れていかなきゃいけないんだろうけど。
さすがに夜が遅いということで下の弟は留守番だけど、十二歳になったばかりの上の弟は参加することになった。自分の衣装を新調し、ついでに僕らの衣装を仕立てるのに、母さんは何週間も前から大忙しだ。さすがは王族主催の舞踏会といったところだろう。
本当は母さんも上の弟だけ連れて行きたかったようだけど、次期当主である僕をないがしろにしては外聞が悪い。なにより招待状が届いた数日後、僕宛にシグルズから必ず来るよう達しが届いていた。シグルズの命令がある以上僕には断れないし、仮に断ろうものなら父さんに無理やり引きずり出されるに決まっていた。
エイルのいる場に赴くのは少し憂鬱だけど、公的な場だと思えばなんてことはない。この髪と目じゃ周囲に埋没するのは難しいだろう。でも、どうせエイルがいるのは大広間の中央だ。壁際にいれば、エイルに会うこともないだろう。
エイルに挨拶するんだと無邪気にはしゃぐ上の弟を尻目に馬車に揺られる。大広間に入ってすぐに僕は家族と別れ、壁際の立ち位置を確保しに向かう。僕は魔術担当、弟達は社交担当。その役割分担のおかげか、父さんにも母さんにも何も言われなかった。
ほどなくして、遠くからわぁっと盛り上がる声が聞こえる。国王にエスコートされたエイルが入場したんだろう。
エイルと国王がファーストダンスを踊って、舞踏会が始まって、みんなあちこちでくるくる踊り出す。壁際に立つ僕は適度に果実水を飲んだり料理をつまんだりしながら、どこか違う世界のことのようにきらびやかな大広間を眺めていた。僕も今、彼らと同じ空間にいるはずだけど……あまりにも遠い。
別にいいけど。もし僕が彼らと同じ世界に立っていたら、社交だとか駆け引きだとか、そういう面倒なことをしなければならないんだし。一人でいたほうがずっといい。
二曲目がはじまる。二曲目の相手は、シグルズ以外にありえないだろう。三曲目と四曲目もシグルズかな。だけど三曲目以降は、さすがに貴族の子弟が名乗りを上げるかもしれない。上の弟もその中にいたりして。
エイルはシグルズと引き続き踊りたがるだろうけど……シグルズなら、面白いからという理由でエイルの相手を子弟に任せそうだ。そうされたら、エイルも従うほかない。どれだけ嫌でもエイルは次のパートナーをシグルズ以外から選ばざるを得なくなる。嫌そうな顔のエイルが――――
「何を一人で笑っていますの? 楽しいことでもあったかしら?」
「ッ、エイル!?」
ふわりとまとめられた菫色の長い髪。純粋さの象徴のような白いドレス。あどけなさを損なわない程度にうっすらと施された化粧。盛装に身を包んだエイルがそこにいた。本性さえ知らなければ、天使が舞い降りたとすら思ったかもしれない。
「すぐに見つかってよかったです。その髪と目のおかげですわね。さぁ、早くなさって。三曲目が始まってしまいます」
「……は?」
普段僕が身につけているような、ただの日除けのための手袋とは違う、繊細なレースの白い長手袋。それに覆われたエイルの細い右腕が、僕の前に差し出されている。
一瞬、その意味がわからなかった。だって僕は誰かをダンスに誘ったことがない。僕に誘われるのを待っている誰かがいたこともない。
「その間抜け面はなんですか。一曲目のお相手はお父様、二曲目のお相手はお兄様。でしたら三曲目のお相手は貴方しかいないでしょう? わたくし、わざわざ貴方をあの人混みの中から探していましたのよ? それなのに、誘いに来ないとは一体どういうことですか」
エイルが言う「あの人混み」とやらは、こっちを見ている少年達のことだろう。きっとエイルにダンスを申し込んで、すげなく断られた連中だ。案の定クヌートもいる。そこにルツがいるのはいい気味だったけど……だからって、なんでわざわざ僕のところに。
「何をなさっているのです? まさか、これ以上レディに恥をかかせる気ではありませんわよね?」
「いやでも、僕は、」
「貴方がずっとわたくしを無視していたことについては、あとでじっくり聞かせていただきます。……わたくし、貴方のことは大嫌いですけど、認めてはいますのよ。だって貴方は、お兄様の素晴らしさを共有できる唯一の方ですもの」
……ああ、そうか。エイルにとっては、“それ”が全部なんだ。
色恋沙汰でも外聞の良し悪しでもなく、ただシグルズ中心の考え方。僕自身が、そして周りが何を言っても、僕がシグルズに忠誠を誓っている限り、エイルの中の僕は自分の身内なんだ。
エイル式の人の見分け方は四種類。シグルズか、シグルズの味方か、シグルズの敵か、それ以外か。前二つはどうあってもエイルの中では善いもので、敵はもちろん悪いもの、それ以外はただの有象無象。だから、彼女の優先順位は決まっている。
僕がシグルズに仕える以上、エイルは貴族の子息を幼馴染という枠から外さない。たとえ僕が王女を拒んでも。
僕は、その名を置き去りにしたのに。王族の娘と伯爵家の嫡男、その一線を越えてしまわないために。どちらか一方でも主従以上の想いを抱いていると、間違っても周囲に思われてしまわれないように。だってそれは、醜い僕が美しいエイルを穢すようなものだから。
エイルが僕を受け入れてくれたのは、シグルズあってのものだ。エイルのその純粋すぎて歪みきった神聖な信仰に、僕ごときが水を差すわけにはいかない。
「ったく、仕方ないな……」
エイルの視線の先にいるのはシグルズだけだ。僕はたまたま、エイルの隣にいただけで。見ているものがたまたま同じだったから、いつの間にかその位置に並び立っていたに過ぎない。
だけど、良くも悪くもエイルの中にはシグルズしかいない。だからエイルにとっての僕という存在は、今までもこれからも変わらなかった。シグルズの寵愛を競い合う好敵手で、シグルズの覇道に付き従う同志で、シグルズの与えてくれる苦痛の理解者。それが、他人の共感を得られない関係性だとしても。
それなら――――僕は一体、これからどうすればいい?
「私と一曲踊っていただけませんか、王女殿下」
「ええ、喜んで」
声は震えていないだろうか。つまらなそうな顔はできているだろうか。
跪いてその手を取ると、エイルは勝ち誇ったように笑った。シグルズと、よく似た顔で。
* * *




