私の悦楽
* * *
「母上、母上、ご覧になってください。星がとても綺麗です」
天を指さし、その人の手を引っ張る。振り返って視界に収めたその人の顔には、もやがかかっていた。
「 」
その人が何かを言った、気がした。けれど言葉は聞こえない。
その人がどんな声で話し、どんな顔で笑い、どんな風に頭を撫でてくれたのか――――私は知っているはずなのに、確かにこの目で見たことがあるはずなのに、思い出せない。
不意に、その人の顔を覆うもやが血飛沫に変わった。その人と繋いでいた手が自然とほどかれる。世界が広がる。その人と私しかいなかった空間に色がつき、他の住人が生まれる。
その人の隣には、呆けた顔の妹がいた。幼い妹は、きょとんと上を見上げている。そしてその人の頭上には、死神が。
「――ッ!」
目が覚めた。嫌な汗で全身がじっとりと濡れている。夢、か……。
外はまだ暗かった。時刻は深夜の三時。……いや、王都の東が明るいな。ペルレ宮殿の方角だ。耳をすませば、少し外が騒がしくなっているのがわかった。早速カイがうまくやったのだろう。命じたのは今日の昼だが、その迅速な仕事ぶりは好いものだ。
たまにあの日の夢を見る。周囲の暗さと恐怖のために母上を殺した者のことがよく見えていなかったせいか、夢の中での暗殺者は鬼だの死神だの悪魔だの、あるいは自分自身だのと様々だったが。
私にとって母上は、絶対的な存在だったのだと思う。記憶の中の母上は肖像画に描かれる母上に上書きされ、実体を持った“母上”という輪郭はもはやおぼろげになっていたが……その中で一つだけ、覚えていることがあった。母上が与えてくださった、痛みだ。
痛みとはすなわち生きている証。生への執着、死への恐怖、身に迫る危険。それを覚えて身をよじり、悲鳴をあげる。それこそが、人がもっとも人らしくある瞬間だ。痛みを感じられなくなった時、人は死んでしまう。
エイルはもう覚えていないだろうが……母上は、私とエイルに痛みのなんたるかを教えてくれた。慈愛に満ちた眼差しで、痛みの中にある快楽はよいことだと語った。だから、それを教えられる人になりなさい、と。その言葉だけは、今も私の胸に残っている。
それなのに、母上はもうどんな痛みも感じない姿になってしまった。そんなことは認められない。だから私が生き返らせる。そして私の手で、母上に痛みを知ってもらうのだ。そうすれば、母上は私の成長をわかってくれる。褒めてもらえる。忘れてしまった温度を、笑みを、言葉を与えてくれる。その日を夢見るだけで何でもできる気がした。
それに、痛みは人を測る尺度にもなる。どれだけの痛みを与えても逃げないか。耐えることができるか。それを確かめる術だ。
私はとても臆病な人間だった。本当に私を裏切りはしないか、本当に私を愛しているか。それを知りたいからこそ、壊して治してまた壊す。変わらず私を見てくれる者がいることに安堵して、その者達のことは懐に入れて慈しんで、しかしその者達が他に目移りすることが許せない――――エイルとカイは、私の物だ。
それでも、私は強く在らねばならない。弱いままでは、この手は何も掴めない。王を僭称しようとも、無能であれば民は決してついてこない。ゆえに私が与える痛みは三つ。苦痛と苦痛、そして苦痛だ。エイルとカイには愛の温かさを、民には生の喜びを、そして敵には死の安らぎを教えよう。
他者に痛みを与えられる者は、痛みごと他者を背負える者だけだ。人の生死を司り、生かすも殺すも指先一つ。脈動する命の重さを知る者だけが、その高みに到達できる。それこそ、母上の教えの意味なのだろう。だからこそ、私は痛みと苦しみを持ってこの地を統べる覇者となってみせる。それこそ私の存在意義だ。
「お兄様、お兄様。起きていらっしゃいますか?」
「おお、エイルか」
こっそり扉が開いて、可愛い妹が現れる。エイルがうまく人の目を盗んだのか、エイルであったからこそ使用人が通したのか。どちらでもいい。闇から現れるのが、あの目障りな王妃の刺客でさえなければ。
「なんだかお外が騒がしいのです……」
「カイだろうな。今頃ペルレ宮殿はよく焼けているのだろう。ここからでは見えないのが残念だが……そうだな、西の尖塔に行けば望めるかもしれぬぞ」
「本当ですか!? では見に行きましょう、お兄様!」
「ああ、急がなくてはな。せっかくの見世物だ、見逃してはつまらぬ」
夏ということで寒くはないが、寝間着のまま私室の外をうろつくのもよくないだろう。エイルにならって寝間着の上に薄い羽織をかけ、手を繋いで尖塔に向かう。ざわめきは王宮内にも伝播していたおかげで、私達も見咎められることなく野次馬に融け込むことができた。
「うむ、いい眺めだ」
思った通り、高い塔の上からは、ペルレ宮殿全体を包む業火が見える。勢いの強さは遠目からでもわかった。消火には難航しているようだ。火が消えるころには、宮殿など跡形もなくなっていることだろう。
あの規模の宮殿が失われるのは惜しいが、それならまた建てればいいだけのことだ。同じ調度品を揃えるのは苦労しそうだが。
「貧民街が燃えたなら、もっと広くて綺麗な炎の海が見えるでしょうか?」
「そうだろうな。貧民街を燃やす時は、あらかじめ私達に声をかけてからにするよう伝えておくとするか」
もともと王宮は、城下を一望できるような小高い丘の上に建てられている。次回カイが燃やすのは、城下町の一角を占める貧民街だ。距離で言えばペルレ宮殿よりも近い。さぞ盛大な催しになるだろう。なにせ、燃え落ちるペルレ宮殿だけでもこれほど美しいのだから。まるで芸術作品のようだ。
炎の爆ぜる音はここまで届かない。無音の美を鑑賞するのもいいが、あの猛る紅蓮の炎には曲をつけたくなってくる。こんなことならヴァイオリンを持ってくればよかった。次は忘れないようにしておかねば。
*
塔から戻ると、すでにカイが来ていた。人目に触れるような愚、カイなら犯していないだろう。
「死体の数が多すぎて何人死んだかは数えてないけど、王弟が死んだのはちゃんと確認した。間違いがあっちゃいけないから、最初に王弟を燃やしたんだ。ちゃんと消し炭になるまで見届けたから大丈夫」
いつもの陽を避けるための白いローブではなく、闇に融けるような黒いローブを纏ったカイの報告は、私を満足させるものだった。
「まあ。一体どうやって宮殿に忍び込んだんですの?」
「風の魔術で風と一緒になって、開いてた窓からこっそりと。暑くて寝苦しい夜だから、窓の一つや二つ開いてると思ったんだ。で、同じようにして王宮にも侵入った。あんまり使うと怪しまれるけど、少なくともペルレにいる奴は誰も生かして帰す気はなかったし。王宮だってこの騒ぎだ、風ぐらい気にされないだろ」
不意に突風が吹いた。カイが笑っている。しかしそこには何もない。あるべきはずの、カイの右半身が。風はそこから吹いている。
ほどなくして風がやむと、何事もなかったかのように右半身が現れた。「結構魔力と集中力を使うんだ。想像力も」と笑うカイは、どこか得意げだ。侵入経路も含め、自分の実力を示したということだろう。
「ついでに細工もしてきたし、いくつか書類も取ってきた。……シグ、密約の手紙は読み終わったらちゃんと燃やすのをお勧めするよ」
渡された書類の束は多少すすけているが、問題なく読み取れる。……ふむ。脅迫材料ぐらいには使えそうだな。王弟がこの手紙を手元に置いておいたのは、いざという時の保険のためなのだろう。
内容は、王妃と叔父上の裏取引を示すものだった。叔父上はエイルと婚約して王太子となり、王妃は叔父上に私を放逐させてエイルを軟禁してもらう。そういう取り決めを、あの二人はしていたらしい。ふざけたことを。
私は王族に迎え入れられはしたが、私の生母はあくまでも寵姫で、おまけにまだ子供だ。継承権は父上の同母弟たる叔父上のほうが高い。その叔父上が唯一の王女であるエイルを手に入れてしまえば、叔父上は正式に王太子に叙されてしまう。その立場は、私が成人するまでのつなぎなどという曖昧なもので終わらないだろう。
叔父上はいまだ独身の身だ。金遣いが荒いことや、権威をかさに着る俗物であることはよく耳にするのに女の噂はとんと聞かないのが少し不思議だったが……何のことはない、隠していたというだけか。幼女趣味など公言はできまい。
「お兄様、お兄様?」
「ん? ……ああ、しわがついてしまったな。貴重な証拠だというのに」
無意識のうちに手紙を握りつぶしてしまった。破ってしまわないよう、慎重に伸ばす。
「カイ、よくやった。褒美を取らそう。次も期待しているぞ」
「こ、この程度できて当然だし……!」
叔父上は死に、王妃を排除する手はずも整った。私が唯一絶対の王の継承者となるまで、あと一歩だ。
*
武芸の鍛錬は好きだ。まがいものの武器は死を呼ばないが、苦痛からは逃れられない。
どこにどの程度の力をぶつければ、人は効果的に痛みを知るのか。どの程度の迅さまでなら、眼前に迫る恐怖を認識できるのか。相手の反応で、あるいは自分の身をもって。堂々とそれを、確かめられる機会はそうそうない。医学も、人体の構造を知るうえではかなり役立つが……エイルが持つ癒しの秘術を習得した私に、医術そのものは必要なかった。秘術に頼らない治療法は、いざという時の備えにはなるが。
「よく励んでいるな、シグルズ」
「父上!」
模造剣を弾き飛ばして、がら空きになった胴にこちらの模造剣を叩きつける。相手をしていた騎士は膝をついた。その直後のことだ。父上に声をかけられたのは。
「騎士団長からも聞いているぞ。もはや大抵の騎士では、そなたの相手は務まらないそうだな」
「買い被りでございます。それがまことであるなら、次からは手加減無用と団長に頼まねばなりません」
跪いて父上の顔を仰ぐ。母上を愛しておきながら、みすみす母上を死なせた父上。王と人の狭間に立たされ、王にも人にもなりきれなかった半端者。王として妃を愛し、人として寵姫を愛したこの男は今、どちらの眼差しで私を見ているのだろうか。
「買い被りなものか。稽古の様子を見ていたが、凄まじい剣筋だったぞ。先が楽しみだ」
私は、こと腕力や武力において己が他者より優れていると思ったことはない。私はただ、知っているだけだ。苦痛がどれほどの混乱を与えるか、苦痛にしがみつこうとする者がどうあがくか、苦痛に惑う者がどんな動きをするのかを。
人は生と死の頂に立つ王こそ恐れ、ゆえに私はそれを手繰る。そうでなければならない。私は、そう在らねばならない。もしも私が強く見えるのならば、それは放った圧によるものだろう。
「して父上、どうしてこちらに? 政務はよいのですか? 先週の叔父上の件で、お忙しくされているとばかり……」
「ああ、そなたに用事があってな。そなたの様子を見るついでに、余が直々に迎えに来たのだ。……内々に話したいことがある。ついてまいれ」
「畏れ多いことでございます。身を清めてまいりますので、しばしお待ちを」
騎士達に断りを入れて鍛錬場を離れる。
提出する証拠にも、振るう弁にも事欠かない。愚かしくも愛しき我が父上に、私を認めていただこうではないか。
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