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わたくしの信仰

 悪に焦がれ、悪に魅せられ、悪に心奪われたなら、自身もまた悪になる――――などと回りくどく申し上げましたが、つまりわたくしはあのお方のことを心から敬愛していて、あのお方のためなら何でもできるということです。


 それこそが魂に刻まれたわたくしの業。このわたくし、エイル・エーデルヴァイス・ハルメニアの存在意義。わたくしがわたくしである限り、いかなる時もあのお方のお傍に侍りましょう。この指先から魂の一欠片まで、わたくしのすべてはあのお方のためにあるのです。

 物心ついた時から、わたくしはその使命と共に在りました。というのも、わたくしにはとある記憶があるのです。

 神託……あるいは、前世の記憶とでも申しましょうか。この世界にあるはずのない物に囲まれて育ち、この世界の未来を紐解いていた記憶。けれど、周囲のことについてはよく覚えておりません。その時のわたくしが、一体どのような人間であったのかすらも。心に強く残っているのは、紐解いた未来の結末と、未来を紐解きながら思っていたことだけです。


 このような記憶を有しているのはわたくし一人だけであり、その事実を口外してはならないと、幼いながらにそんな確信めいたものを抱きました。ですからわたくしは、視てしまった未来を変えるため以外の理由であの記憶を不用意にひけらかしてはならないと己を律することにしたのです。

 わたくしが視た、おぞましい未来の物語。それは書物とも演劇とも違う、よくわからない箱の中で展開していきました。

 そのなかでもはっきり覚えているのは、あのお方についてです。あのお方の尊大な態度、血に染まって引き立つ妖艶な美貌、闇と狂気を象徴する残忍な瞳、中性的で色香に満ちたたたずまい、人を人とも思わぬ傲慢さ、目的のためならば手段を選ばない冷徹さ、徹底して信念を貫く姿勢、奏でる繊細で哀しい旋律。それらすべてに、わたくしの心はいともたやすく射抜かれました。


 ですからわたくしは、あのお方に跪くことだけを夢見て、あのお方にすべてを捧げようと決めたのです。決して触れられない、あのお方への想い。わたくしが抱いたそれは、恋ではありませんでした。言うなればそう、信仰です。

 けれどあのお方は、物語において倒されるべき悪でした。あのお方の所業を思えばそれも当然のことでしょう。わたくしが視た未来における中心人物は、あのお方ではなく。悪逆の限りを尽くしたあのお方は、主人公とも呼ぶべき彼/彼女(あのものら)にあえなく敗れ……あるいは、より強い“悪”によって贄とされてしまうのです。


 物語がどんな風に分岐したとしても、あのお方は必ず途中で命を落としてしまいます。あのお方は、主人公や最後の敵を輝かせる踏み台に過ぎません。

 どんな形であれ、あのお方の願いは叶わないまま物語は幕を閉じるのです。最後に果たされるのは主人公の望みだけ。大団円の結末に、悪であったあのお方の幸福はありませんでした。

 我が神とも呼ぶべきあのお方が、志半ばで敵対者に踏み躙られる。それがどうしても耐え難く。わたくしの視点は主人公と共にありながら、あのお方のことばかりを考えていました。


 ――――だから、でしょうか。あの物語の舞台となった世界に、わたくしが招待されたのは。


 この世界があの物語と繋がっていることは、いつのころからか自覚していました。だってわたくしのお兄様の名前が、あのお方とまったく同じで……幼いながらにもそのお顔立ちや立ち居振る舞いに、あのお方の片鱗がありましたもの。その他の者達についても、物語におぼろげながら登場していた方や、存在を強く印象づけられていた方が見受けられました。


 あの物語は、今から二十年後の世界が舞台です。けれどあの物語に、“わたくし”はおりませんでした。あのお方に妹などはおりません。

 あの物語には“わたくし”の名も存在もなく、けれど物語の開始以前に死んでいるという事実もないのです。あのお方の生存と勝利の希望を探して、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も物語をやり直しましたから、それについては断言できます。


 それでは、このわたくしは何者か。その事実に気づいてから、わたくしはわたくしの生の意味を考え続けました。そしてある日、答えに辿り着いたのです――――定められた未来に存在しない自分(わたくし)ならば、あの未来を変えられる。何の希望もなかったあのお方の末路に、新たな可能性を与えられる。

 ですからわたくしは、あのお方と共に()きましょう。この命が果てるまで、我が身のすべてを捧げます。いずれ麗しき暴君となる、最愛のお兄様へ。


*


 お部屋で可愛いペットのアラーニェちゃんと戯れていると、遠くからヴァイオリンの音が聞こえてきました。お兄様の演奏です。

 ああ、うっとりするほど素晴らしい音色。お兄様の紡ぐ旋律をもっと間近で聴きたいと、わたくしはアラーニェちゃんを硝子の籠に戻します。わたくしがアラーニェちゃんを飼っているのは、わたくしとお兄様と、そしてカイだけの秘密です。侍女達に見つからないよう、アラーニェちゃんの籠はしっかり隠してからお兄様のお部屋へ向かいました。


 そーっとドアを開けます。案の定、そこにいるのはお兄様でした。

 華奢で美しいそのお方。さらさらのまっすぐな長い髪も相まって、少女と言っても通じそうです。前髪で右目を覆った中性的な美貌はどこか儚げで、繊細な硝子細工のようにも見えます。


 憂いに満ちた横顔でヴァイオリンを弾くお兄様は、まるで天使を描いた宗教画のようでした。お兄様は、天使というより神ですが。

 お兄様が奏でる音だけが支配する空間に、わたくしという異物が混じる。それでも演奏には寸分の狂いも生まれません。わたくしは息をひそめて、美しいヴァイオリンの音色に耳を傾けました。


「なんだエイル、来ていたのか」

「はい!」


 演奏が終わると同時に、手が痛くなるほどの勢いで拍手をすると、お兄様が顔を上げてわたくしを一瞥しました。

 昏い双眸に、わたくしだけが映っている――――その至福を噛みしめながら、強く頷きます。お兄様はふっと口元を緩めました。


「お兄様、お兄様、エイルはもっとお兄様のヴァイオリンを聴きとうございます」

「わかったわかった」


 なんてお優しいお兄様でしょう! この愚妹のわがままを聞いてくださるなんて!

 わたくしのためだけの……と言うと、少し語弊はありますが。だってもう一人、お兄様にはこの演奏を聴かせたい相手がいるはずなのです。だってお兄様は、お母様のことがお好きですもの。

 その感情はとても尊いもの。ことお兄様に関してはどうしても嫉妬深くなってしまうわたくしですが……わたくしにとっても、お母様はお母様です。それゆえお母様を大切に想うお兄様のお気持ちは理解できますし、お母様を愛するお兄様こそわたくしの大好きなお兄様なのです。

 それでもこの場にいるのはわたくしとお兄様だけ。だからこの音を噛みしめるのもわたくしだけ。その事実がとても寂しくて、その反面嬉しくもありました。……独り占めを喜ぶなんて、わたくしはきっと悪い娘です。お母様と一緒にお兄様の演奏を聴けたなら、何も考えず素直に楽しめたのでしょうか?


 ですが、わたくしはこの時間が好きなのです。だってお兄様が紡ぐ音色に包まれている時だけは、外界と切り離された気がします。この世界に、お兄様とわたくししかいないように思えるのです。

 ああ――――それは、なんて素敵なことでしょう。お兄様を苦しめるあの“悪”も、お兄様にたてつく“主人公”も、お兄様を嗤う有象無象もいないのですから。

 そんな、しあわせなしあわせな夢想。それを邪魔するいらない音が響きます。扉がノックされる音です。そのせいで、お兄様は演奏を中断せざるを得なくなりました。

 

「シグルズ様。恐れ入りますが、ヴァイオリンのお時間はそれまでになさってくださいませ」


 現れたのは侍女でした。なんて、なんて無礼な者なのでしょう。お兄様に指図するなんて。


「まだ半刻しか弾いていないぞ。そもそも今は自由時間だろう。座学の時間は二刻後だったはずだ」

「王妃殿下よりご苦情が。宮殿にまで音色が届き、非常に不愉快だと」


 当然のことながら、お兄様は不満げに告げます。けれど侍女は顔を伏せたまま、淡々と答えました。……ああ、あの女の差し金でしたか。道理で侍女にしては出過ぎたことを言いだしたと思いました。

 あの女らしい陰湿な真似です。あの女は、再三に渡るお父様の制止を受けてもなお諦めず、この離宮の予算を減らそうとしたり嫌なものを送りつけてきたり、使用人を使ってわたくし達を盗人にしたてあげようとしたり、反対にわたくし達の物を盗らせたり、顔を合わせようものならちくちくちくちく嫌味を言ってくるなど嫌がらせをしてくるのです。おかげでわたくし達、だいぶたくましくなりました。

 泣いていても、何かが変わるわけではありませんもの。自分達の身は、自分達で守らないと。お父様はわたくし達を庇ってくださいますが……立場の弱いわたくし達に入れ込みすぎて、そこを政敵につけこまれたら困ります。お父様はわたくし達の唯一の後ろ盾。頼る時機は見極めなければ。


「そうか。……悪いなエイル、演奏会はこれまでだ」

「はい、お兄様。明日ヴァイオリンを弾かれるときは、弾かれる前にエイルをお呼びくださいな。エイルはお兄様の演奏を、全部全部聴いていたいのですから」

「ははっ、お前の耳を試しているのさ。わざわざ呼ばずとも、この音さえ聴けばお前はどこにいたって私のもとに駆けつけるだろう?」

「当然でございます、お兄様」

 

 お兄様はわたくしの頭を撫でてくださいました。お兄様はわたくしの忠誠を受け取っていてくださいます。忠義を理解していただけるのはとても嬉しいことです。

 これではエイルはますます貴方様に心酔してしまうではないですか。日に日に増していくお兄様へのこの想い、一体どうやって表せばよいのでしょう……!


「さて。王妃に耳障りだと言われれば、何か他のことをして時間を潰すしかないな。カイも呼ぶとするか。エイルは何がしたい?」

「お兄様と一緒ならばなんでも楽しいですわ」

()い奴よ。ではそうだな、隠れ鬼でもするか」


 お兄様は侍女にカイを呼ぶよう告げました。カイというのはお兄様のお友達で、物語にも登場していた少年です。カイ・ラシックは若くして宮廷魔導師長に選ばれた天才かつ、お兄様の腹心でした。時機は違えど、彼もまたお兄様と同じく物語の途中で果てる悪役ですが。


 物語の中での彼は二十九歳でしたが、現在の年はわたくしの三つ上の九歳です。カイとわたくしは、お兄様への忠義と寵愛を競う好敵手といったところでしょう。そういった意味ではカイのことは嫌いですが、お兄様の信を得ているという一点ではカイのことを評価しております。同時に、物語の中においてカイだけが一度もお兄様を見捨てることがありませんでしたから、わたくしもカイのことは認めておりました。

 お兄様の味方というのは、とても貴重な存在です。物語において、お兄様の本当の味方といえるのはカイだけでした。誰も彼もがお兄様を裏切りましたもの。けれど現実においてはわたくしもいます。お兄様の理解者たるわたくしとカイで、いずれ暴君となるお兄様の治世を守り抜くのです。その果てに、お兄様の願いは叶えられるはずなのですから。


「も……申し訳ございません。カイ様は、現在シンフィ殿下のもとにおりまして……」

「……ふん。兄上のところか。つまらんな」


 侍女は歯切れ悪く告げました。ですがカイが自分からシンフィ王子のところに行くとは思えません。カイはお兄様に心酔していますし、なによりシンフィ王子のことが嫌いなのです。もっとも、カイが嫌っていない人物など宮廷中を探しても片手で足りるほどだと思いますが。カイはとても偏屈ですから。

 きっと、カイとお兄様の仲がいいことを嫌がったあの女が手を回したのでしょう。現宮廷魔導師長であるラシック伯爵は、権力も才覚もある方です。その子息であるカイは、いずれ伯の地盤を引き継ぐことに加え、伯より強い魔力と魔術の才を持つと目されています。そんなカイは、お兄様ではなくシンフィ王子と親しいほうがいい……あの女の考えそうなことです。虫唾が走ります。

 きっとあの女は、中立のラシック伯爵がカイを通してお兄様派に傾くのを阻止したいのでしょうね。もしもラシック伯爵家がお兄様の後援につくのであれば、シンフィ王子の立場が危うくなりかねませんから。……シンフィ王子がそれをご自覚なさっているかはわかりませんが。


「残念だが二人で遊ぶか。最初の鬼は私でいいぞ。そら、二十数える間に隠れるがいい。この宮殿の中であればどこでもいいからな」

「かしこまりました、お兄様!」


 とはいえカイがいないのであれば、わたくしが引き続きお兄様を独占するだけです。今日お兄様にたくさん遊んでもらったことを、後日カイに自慢してやりましょう。カイの悔しがる顔が目に浮かびます。

 そしてわたくしは、お勉強の時間が来るまでお兄様とめいっぱい遊んでいただきました。お兄様は鬼役がお上手ですが、わたくしも隠れるのは得意だと自負しています。楽しい楽しい時間を過ごすことができました。


「シグルズ様もエイル様もお可哀想に。果たしていつまで無邪気な子供でいられるのやら」


 ……わたくし達を見てそんな風にひそひそ囁く使用人達がいなければ、きっともっと楽しく遊べたのでしょうけど。


「エイル様、本日のお勉強の時間でございます」

「……はぁい」


 わたくしの家庭教師がわたくしを迎えに来ます。お兄様もお勉強をしに、お兄様の家庭教師のところに向かわれるのでしょう。あまりの名残惜しさに、反対の方向に行ってしまうお兄様の背中をちらちら見ながら歩いていたのがいけなかったのでしょうか。何かにぶつかってしまいました。


「きゃっ!」

「エイル!?」


 それは花瓶を乗せた小さなテーブルでした。細い脚に支えられたそれは揺れ、飾られた花束の重さもあってかあっけなく床に落ちてしまいます。花瓶はがしゃんと割れて、水浸しになった床の上に花が散りました。


「大事ないか、エイル」

「はい。わたくしはなんともありません」


 お兄様は駆け足でわたくしのところに来てくださいました。跪き、しりもちをついたわたくしに手を貸してくれます。


「そうか、よかった」


 お兄様の手が、わたくしの頭を優しく撫でてくれます。お兄様は安心したように微笑みました。


「――お前を傷つけていいのは、私だけだからな」


 花瓶の破片に、お兄様の手が伸びて。ひときわ大きなその破片が、わたくしの頬をぷつりと裂きます。伝った紅は、まるで赤い糸のようでした。

 ああ、ああ、お兄様がわたくしを見てくださっている! お兄様の瞳に映ることこそ、至高の喜びでございます!

 わたくしは、痛いことは好きではありません。けれどひとつだけ、例外があります。お兄様がつけてくださった傷、お兄様が手ずから教えてくださる痛み。それだけは、わたくしを至福へ導いてくれるのです。


「――お兄様に与えられるものであれば、なんであろうと嬉しいですわ」

「ふ。やはりお前は愛い奴だ」


 破片を放り投げたお兄様は、指先でわたくしの傷をなぞります。抉るように、刻むように。甘い吐息がくすぐったくて、心地いいです。

 痛みは消えてなくなりました。傷跡も、もう残ってはいないでしょう。お兄様には、癒しの力がおありですから。

 人を傷つけ、血を見ることを何より愛するお兄様が持つ、治癒の能力。これでお兄様は、無限に欲望を満たすことができるのです。……それは正確にはお兄様のお力ではないのですが、それを我が物のように振るえるのはお兄様の才あってのものです。


「それではな。勉学に励むのだぞ」

「仰せのままに、お兄様!」


 お兄様はわたくしの髪にキスしてくださって、ひらひら手を振り立ち去りました。

 優しい優しい、頭のおかしいお兄様――――わたくしは、そんなお兄様が大好きなのです。

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