ひたすらに、リピート。
孫とは自分の子供とは違い、無条件にかわいいものだという。実際孫を持ってみて、しつけや教育の責任を負わなくていい傍観的な立場にいるおかげで、単純に愛しいと思うことだけに徹していられるからこその心境だと分かった。54歳で、私はおばあちゃんになった。
こんな風に深く考えを及ばせる癖は、昔からのものではない。主婦業と母親業を宿命のようにこなすだけの平凡な主婦だった私は、孫の誕生する一年前、53の歳に生まれて初めての手術をした。それまでは自分がよもや、病気にかかるなどとは予想もしない程度に健康に過ごせていたが、健康診断で要検査の判定がつき、再検査を行って。その後はあれよあれよという間に手術の運びとなり、入院日程が組まれ手術日が決まった。癌の病名告知とはこれほどに簡単に行われるものなのだな、と、当事者である私がまるで傍観者のような心境で、状況を俯瞰していたような気がする。あの日の私はきっと、傍目にはどうしようもないほどぼんやりとした中年女であっただろうと、今考えるとちょっとおかしくさえあるくらいだ。
手術自体は執刀医の先生が行い、私はただ麻酔で眠っていたのだから、術後見舞いに訪れてくれた方が口々に言う「大変だったね」と言うねぎらいの言葉は、私が受けるより先生に対してのものではないかと思ったものだ。たいした学もなく社会経験だって乏しい世間知らずのおばさんである私は、その不思議な違和感を体系立てて説明できる力量など持っていないから、あいまいな笑顔で頷くくらいしかなかったけれど。
私がしたのは、体の一部を切り、取り去るという覚悟だけ。心理上の抵抗と美容上の変化への危惧がなかったとは言い切れないが、このまま放置した場合の命の期限を提示されたうえでの選択なのだから、答えは決まっている。決められたレールを走るような確実さで手術に向かうだけだった。もっとドラマチックかと思ったのに、我ながら拍子抜けするような穏やかさですべてが進んだ。
上げ膳据え膳で何もすることがない入院生活は、今まで日常に追われる慌ただしさに気づくことのなかったいろいろに、改めて思いを巡らせるいい機会にはなった。することもなく一日中眺めるテレビで得た、政治や経済や社会情勢の話は私にはやっぱり難しかったから、心底まで理解できなくてよくわからないけれど、みんなちょっぴり自分勝手が過ぎるためにギクシャクしているだけのように思えた。少しづつ譲り合ったら、問題はほとんどが解決するように思えるけれど。世間知らずのおばさんの考えることだからずれているのかもしれないし実は大きく的はずれかも知れないが、自分なりの考えを持てるようになった。
幸いなことに、抗癌剤治療は髪が抜ける副作用を伴うものではなかった。胸の変形も下着で補正すれば服の上からは違和感がない。1ヵ月あまりの入院の後、私は退院した。二人の子供達は就職や結婚を機にそれぞれに巣立っていたから、夫と二人分の炊事洗濯等はわずかなもので退院後すぐから問題なく行えたし、腕の動きの改善のリハビリにも一人で通えた。通院の都度先生は、調べた検査項目が正常値に収まっていることを毎回過剰すぎるほどに喜んでくれる。なんでも私の癌は、初期に見つけた割には体のあちこちに散らばりを見せる活発な癌なんだそうだ。
「昔からこんな風にぼんやりとした性格の私の細胞からできた癌が活発だなんて言われても、にわかに信じられない気がするのですがねえ」そんな心の内を思わず声に出して呟いたら、先生は心からおかしそうに笑いこけ、
「幸い、早いうちに見つけられたのだから、大丈夫です。もし癌が次に悪さをするようなことがあれば、また一緒に退治しましょう。小川さんのその明るさがあれば、次もきっと乗り越えられる」と力強い握手をくれた。特に気の利いたことを言ったつもりもなかったのに、なんだか不思議ね。
先生の見立て通りに、活発な癌はたった2年間の沈黙さえ守れなかった。1年と10カ月で、肺に病変が見つかる。手術を含めた今後の治療方針の説明は、以前と同じに丁寧だった。2度目の手術はせず、投薬での治療を私は望んだ。治療方法を自分でも調べ、比較して決めた。ただぼんやりと流されていた1度目の手術決定時とは違った。就学前の子供はたとえ身内でも、病棟にお見舞いに来てはいけないという規則がある。たとえ入院期間中だけといっても、孫と接する時間が削られるのは嫌だと思ったから私はがんばった。
孫の成長を見たい、できるだけ長く、見届けたい。今は軟語しか話さず、這い回るだけのこの子が、立ち、やがては走る姿を見たい。この子はどんな声でおしゃべりするのか、何に興味を持つのか。目に入れても痛くないとはよく言ったものだ。生まれたばかりの小さな子供が、まさに私の生きがいとなった。
投薬での治療は新しい方法で、効き目には個人差があるらしいが、私の癌細胞は縮小した。だが、縮小した癌がまた大きくなった時、同じ薬は使えないという。そして、癌が再び勢いを巻き返す目安が1年から2年だとも聞いた。なぜ未来に起こることをこんな風にはっきり言いきれるのか不思議だが、先生の見立てはこれまでずっと、正確だ。
一度目の手術前、先生は言っていた。「小川さんの歳なら、2回か3回くらいなら手術に耐えられる」と。ならば2回目か3回目の再発の後に、私は力尽きるということでしょう?例えれば、3枚あったの手持ちのうちの2枚目までのカードは使い果たし、今は手元には3枚目のカードただ一枚を残すだけって状況だ。治療を施された体は今回も律儀に回復を果たしてはいるけれど、それでも砂時計の砂が目減りするようにじわじわと体力が衰えていることを、私は自覚している。次の再発があれば、私のできることはまたさらに減るだろう。今まで当たり前に過ごした日常も狭められる。けれど今はまだ大丈夫、まだ時間は残っている。
癌という病は人類の英知を集めても完治をさせることができないほどに治療が困難な病気らしいが、たちまちに命を奪われることがないから、残り時間をどう生きるのか予定がたてられるところがいい。
残りの人生の希望。孫に私の存在を覚えていてほしいと願う。幼児の記憶に、多くは望むべくもない。私にできることなんてたかが知れているけれど、数年という期間の中で何ができるか熟慮した。やっとひねり出した答えは、何か一つでも、私の与えたことを身につけ心の栄養にして、成長の糧にしてほしいという願い。蒔いた種が芽吹き花を咲かせるまでを私は見届けられないけれど、絵本を読む私の声を、本はおもしろいという感覚を、膝に座った体勢で伝わる尻からのほのかな体温を、覚えていてほしいのだ。
いずれいなくなる私の面影は幼い彼の中で次第におぼろになっても、私の残した痕跡が孫の体の片隅に生き続けてくれることを望み、私は図書館の絵本コーナーに向かう。天気と体調のいい日にゆっくり歩いて片道10分、空調の利いた館内で休憩をし、また10分をかけて帰るのはいい運動にもなる。
近所に嫁いだ娘は週に2~3度、病後の私を気遣い日中散歩がてらに我が家を訪れ、家事を手伝い昼食を食べ、孫を昼寝させ、夕方に帰る。私は昼寝に至るまでの孫に、絵本を読み聞かせる。これなら具合の良し悪しにかかわらず、今の私にも必ずできる。
幼い子供にとっては、次々と新しいストーリーを与えられることよりも、知っている物語を繰り返し繰り返し読み聞かせてもらう方がうれしいことだと知った。すでに知っているストーリーの、一番の盛り上がりを期待し、自分の予想が叶ったことに喜びを覚え歓声を上げるのだという。孫の様子を観察していても、なるほどその通りと感じる。平日昼の時間帯に、再放送の人気ドラマが何度も繰り返して放映されるのと同じことかもしれない。飽きもせず毎回ハラハラしながらストーリーを追う生活を、私はこれまで長い間ずっと続けてきたから、その心境もよく分かる。だが娘は「またこの本?」とあからさまな呆れ顔をするし、図書館の職員さんたちも繰り返し何度も同じ本を借り続ける私に微妙に含みを持たせた目つきを交わしている。哀れみなのか蔑みなのか、ただの嘲りなのかは私には分からない。でも、何か学を修めたわけでもめざましい特技があるわけでもない私には、本を読んであげる以外に、孫にしてあげられることを、他に思いつかない。
ページをめくる度聞ける、いつもの嬉しそうな声をただ聞きたいがために、私は同じ本を何度でも借りる。母として現役で子育てをしていた時には忙しくて、こんな風に毎日読んであげることができなかったと、ふと思い至った。娘にその贖罪を。孫には、せめての私の存在を記憶に刻むため。可能な限り、読み聞かせを私は繰り返すだろう。特に目立った能力もない私が、愛しい娘とその子である孫に対してできるささやかなプレゼントは、多分に私の自己満足を含む絵本の読み聞かせ。声が枯れるまで、命が尽きるまで、きっと私は本を読むのを繰り返す。
久々に戻ってまいりました。
一歩下がった控えめな専業主婦のイメージで、自己主張をしない気弱さを文中ににじませたつもりですが、反映されているでしょうか。世間離れしたちょっとズレた感性なら、リアルの私に通じるものがあるんですけれど。