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水泳授業

 水泳の授業と言うのは運動が苦手な俺にとって忌避すべきものであるのだが、しかし茹だるような猛暑を誇る日本の夏に於いて、涼しい水の中に入って得ることが出来る爽快感は否定できないものであった。

 クロールや平泳ぎに背泳ぎなど、主な泳ぎ方を学んだ後に与えられる自由時間、俺はプールの水面に浮かびながらゴーグル越しに空を見上げていた。

 刺すような太陽の光と熱、そして流れる白い雲。遠くに聞こえる蝉の鳴き声とクラスメイト達の楽しそうな声。普段であれば不快の極みである喧騒も、不思議と許容できる。俺もそういった風情を受け入れる度量くらいは持ち合わせているのだ。

 特にこの澪標学園、在籍する学生の数に対してプールの数が少ない為か、授業は男女合同で行われる。性別に対して分け隔てなく接するコミュニケーション能力高めの連中にとって、水着姿のまま戯れることが出来る理想の空間であろう。存分に楽しむが良い。俺は水面をアメンボのように漂うだけだ。

 ほら、今も遠くで、誰かが楽しそうに喋って――



「一条さんッ! 何度! 言ったら! 分かるの!? 授業に出てよッ!」


「……そっちこそ何度も言わせないで。体調不良よ」


「もう二週間以上も体調不良続いてるんだけど!?」


「女なんだから、そういうこともあるでしょ」


「だったらもうちょっと体調不良っぽい態度くらいとってよ! アナタが露骨にずる休みする所為で、本当に体調が悪い子まで休みづらいでしょ!」



 ――ほら、楽しそうにしているじゃないか。女子同士の華やかな会話に割り込むなど無粋の極み、野暮と言うもの。俺は何も聞こえてないという体で、無重力の水中に体重を預け、天を仰ぐ。すると誰かが、俺の肩をぽんぽんと叩いた。

「……」

 その手の主が誰なのか分かったので無視するが、しかし何度も叩かれ続けては気付かぬふりも出来ず、仕方なくプールの床に足を付けてゴーグルを外す。

「いや、伊坂っちよ。何を他人事のようにふわふわ水面を漂ってんの」

 手の主は、思った通りの龍ヶ崎であった。水泳キャップでトレードマークである金髪が隠れてしまって、顔を見ても一瞬誰だか分からなかった。

「?」

「つぶらな瞳で小首を傾げんな! ちょ、あれマジで止めて! ヤベーって! せっかくの楽しい雰囲気がブチ壊し!」

 いつもの揶揄(からか)う様子ではなく、本気で切羽詰まった様子の龍ヶ崎。まぁ確かに、せっかく水着の女子を間近で見ることが出来る機会を潰されるのは辛いのかもしれない。

「はぁ……気持ちは分からないでもないが、もはや一条と縣委員長の喧嘩は体育授業の風物詩だろう? そして俺の何のメリットが?」

「そう言うなって! 頼む、この通り!」

 ガシッと両肩を掴み、命でも差し出すような表情で迫って来る龍ヶ崎。この男、脱ぐと筋肉が結構あるようで、ここまで接近されるとかなりの圧迫感だ。

「明日の宿題はちゃんと自分でやってくるから!」

「繰り返すけど、それに俺の何のメリットが?」

 ――などと益体の無い会話をしていても、結局は龍ヶ崎の意見に圧されてしまうことは理解していたので、仕方なく了承して、俺はプールから上がる。そして熱せられた鉄板の如きアスファルトを踏み締め、俺は姦しく騒ぐ体操服姿の一条と、水着姿の委員長の元へと脚を進めた。二人は未だに堂々巡りのような言い争いを繰り返している。

「――悪いが、そこまでにしてやってくれないか、委員長」

 俺が意を決して二人の間に割って入る。スクール水着姿の委員長を、こうして間近で見るのは新鮮だ。一条と違い委員長の発育は大変よろしいらしく、身体のラインが出てしまう水着姿を見る限り、その身体の凹凸は随分とはっきりと分かってしまうのだがまぁ要するに思ったより胸大きいなというそれだけだ。金剛石が如き精神を有するこの伊坂京久が動揺などするはずもない。

「なに、伊坂。随分と内股だけど」

「気にすることではない。それよりも、一条を虐めるのは止めてくれないか?」

 精神は金剛石でも身体は発泡スチロール並の強度であったのだが、それはさておき、俺は塀然とした表情で話を続ける。

「虐め? ワタシは当然のことを言っているだけなんだけど?」

「ふむ……当然のこと、か。確かに委員長の言うことは正しい。しかし、しかしだ、委員長。お前は大事なことを失念している。大勢の人間にとって当然のことでも、一部の者にとっては困難なことも多々ある。一条にとって、水泳とはそういうものなんだ」

「は、はぁ!? 何言ってんの、あなた!」

 背後で一条の抗議の言葉が聞こえた気がしたが、俺は完全に無視し、怪訝そうに眉を顰める委員長にその答えを告げた。――息を肺に吸いこんで、敢えてプールにいる全ての生徒に聞こえるよう、大声で叫ぶ。



「何故ならッ!! 一条は泳げないのだからッ!!」



「何言ってんのよ伊坂ぁああああ――――ッッッ!!!!」

 俺の絶叫に被さるように金切り声を上げながら、一条は背後から俺の首を握り締めて来た。ギリギリと頸動脈と気管が締め上げられ、俺は意識が飛びそうなほどの痛みに襲われる。あと喉仏は止めて、本気で止めて。

「泳げるに決まってるじゃない! 勝手に人をカナヅチにしないでよッ! むしろ大得意よ!」

 俺が公然と宣言したことにより、周囲はざわつきに包まれる。一条はクラスで孤立していたが、それでも一人でやっていけるだけの能力と地位があった。水泳の授業が始まって一度もプールに入らない彼女であったが、当然ながら泳ぎも相応に出来るのだと、皆が考えていたからであろう。

「え、マジ?」「伊坂さん、泳げないの……?」「あんな人を見下したこと言っておいて、それはちょっと……」「それはそれで、ギャップ萌えって奴か?」

 ひそひそ、ざわざわ、プールの水面よりも、人々の噂話は揺れ動く。その度に一条の頬は真っ赤になり、俺の首を絞める力も強くなる。

「は、ははは、は、恥ずかしがるなよ、一条! まぁ小学中学と水泳をやってきた俺は、五十メートル自由形なら二十七秒は行けるけど、泳ぐことなんて人生には何の役にも立たない技能だ、負い目を感じるなんて微塵も無いぞはははは!」

 痛みと酸欠で意識が虚ろになりながらも、俺は堂々と大声で一条を煽り続ける。ちなみにその記録は中二の頃で、五十メートル自由形で二十六秒なら、全国大会に行けるか行けないかという数字であり、まぁあのまま部活を続けていたら、そういった未来もあったのだろうなぁと中学時代をほんのわずかに懐かしむ。

 泳いでいる暇なんてないくらい、俺達の中学生活は荒れていったので、そういった〝もしも〟は有り得ない仮定なのだが。

「――自由形で二十七秒? へぇ」

 ふわ、と不意に身体が軽くなり、俺は灼熱のアスファルトの上に崩れ落ちた。遂に死んでしまったのかと思ったが、どうやら一条が俺の喉から手を放しただけなようだ。

 けほ、けほと咳をしながら見上げると、腰に手を当てた一条が、口元に嫌な笑みを浮かべながら俺を見下ろしている。

「へぇー、そう……随分と水泳が得意みたいね、伊坂」

「……まぁ、そうだな。全盛期の頃と比べれば、タイムは落ちているかもしれないが、それでも得意な分野だぞ?」

「そう……伊坂、ちょっと待ってなさい」

「……?」

 くるっと身を翻し、一条はプールサイドから出て行く。方角的には女子更衣室だろうか。

「えっと、伊坂……これもアナタの作戦ってこと?」

 嵐のように一条が去って行った後、縣委員長は困惑気味に寄って来た。座っている俺に視線を合わせる為か、膝を折ってしゃがみ込む彼女の胸元に視線が行きそうになるので勘弁してほしかった。

「……いや? 一条が可哀想だったから、助けてやっただけなのだが……何故か怒って出て行ってしまった」

「アナタ流石にそれは……はぁ、まぁもうそれで良いや」

 委員長は呆れたように溜息を吐いて、水泳キャップとゴーグルを頭から外した。トレードマークの広いおでこが、夏の日差しに照らされる。

「それで、一条さんはこれからどうする気なのかな?」

「そりゃ、まぁ……どうだろうなぁ」

 悩む振りをする俺であったが、答えなど単純明快だ。あの負けず嫌いが、あそこまで煽られて黙っていられるはずもない。

 幾許した後、プールサイドの一人の女生徒が現れた。小柄な体躯に、引き締まった腕と脚。憮然とした表情のまま速足でこちらに向かってくる少女は、紛れもない一条つくしである。……授業に出る気がないのに水着を持っているということは、購買かどこかで調達してきたのだろうか。

 一条は俺の顔を見た後、ニヤリと口元に笑みを浮かべ、自信満々な表情で指を差す。

「――伊坂、わたしと水泳で勝負しなさい」

 ここに、前代未聞の水泳バトルの幕が上がった。



「ぜぇ……ぜぇ……お、おかしい、だろ……」

 息を切らした俺はコースロープを脇で挟むようにして、疲弊した身体を預けていた。肺は酸素を取り込もうと鳴動し、手足は末端に至るまで悲鳴を上げている。

 クラスの全生徒の前で行われた俺と一条の水泳バトル。縣委員長の公正な計測の元に行われた五十メートル自由形の競泳は、一条つくしの圧倒的なスピードの前に為すすべもなく敗れ去った俺である。俺も二十七,六秒とブランクがあったにしては良い結果だったはずなのだが、それを軽々と飛び越える一条の、二十五,七秒という記録に蹂躙されてしまった。

 あいつ、あんなに泳ぐの得意だったのか……? 確か高校生女子の日本記録が二十四,二秒とかだった覚えがあるんだが……全国出場どころか全国で普通に優勝狙えるんじゃないか? 運動神経が良いことは校舎裏で俺と散々戦ってきたことから知っていたが、ここまでとは思わなかった。

「おっつー、伊坂っち」

「……何だ、龍ヶ崎。冷やかしにきたのか」

 上から降って来た声に見上げると、そこには飛び込台に座った龍ヶ崎の姿がある。

「いや、被害妄想半端ねぇな、おい。つーか伊坂っちも速くてびっくりしたわ。やるじゃん」

「まぁ、小学生の頃からやっているからな……しかし負けた時点で何とも言えんだろう」

「はは! そんな落ち込むなって! まぁ相手が悪いわ。一条家は幼少の頃から一流の講師の元で英才教育されるそうだからな。あいつは水泳を小さい頃からやってたんだろうにゃー」

「随分と詳しいな」

「忍者だからな。にんにん! 水遁の術!」

 俺が追求すると、龍ヶ崎は誤魔化したように笑ってプールに飛び込み、楽しそうに談笑しているクラスの仲良しグループの中へと戻って行った。まぁあちらも平穏が取り戻せたようで何よりである。

「……はぁ」

 生温かい息を吐き出して、俺はプールサイドでぎゃあぎゃあを喧しい一団に視線を向ける。そこには「だから! 水泳部なんかに入らないって言ってるじゃない! あんましつこいとお爺様に言って退学にしてもらうわよ!」「いいや、諦めないぞ! 一条さん、是非とも我等と共にトビウオを目指しましょう!」と、一条が水泳部員達に囲まれて、熱烈なラブコールを受けていた。

「……」

 まぁ何と言うか、あいつをプールに出させることが目標だったのだが、思いもしなかった要素が絡まったために、想像以上の結果を生み出してしまった。その副作用として俺が非常に無様を晒してしまったのも、致し方の無いことだろう――そんなことを考えながら俺は先程と変わらぬよう、皆の楽しそうな喧騒を聞きながら、充実した疲労感に身を任せ、ぷかぷかと水面を浮かぶのであった。





 授業が終わり、休み時間にまで及んだ水泳部からの熱心な勧誘を振り切って、昼休み。一条つくしはいつものように校舎裏へと訪れていた。水泳部の刺客から逃げ回っていた為に時間が遅くなり、伊坂京久は先に校舎裏へと来て食事をとっていたようである。

「器用なことが出来るわね」

 腕を組み、つくしは呆れたような声を漏らす。先に校舎裏へと来ていた京久は弁当を食べ終え、空の弁当箱を持ったままアスファルトへと背中を預けて、寝息を立てていた。水泳の後の疲労感、そして校舎の影と吹き抜ける風が心地良く、つい寝てしまうのも頷ける快適な環境である。

「はぁ……せっかくさっきの水泳勝負のこと、からかってやろうと思ったになぁ」

 スカートを抑えながらしゃがみ込み、つくしは京久の寝顔を見つめる。ボサボサとした黒髪と、どこか幼さの残る顔。柔らかなそうなその頬を、つくしは「えい」と指で突いた。

「もう、せっかくわたしが来てあげたっていうのに、なに呑気に寝てるのよ」

 責めるような言葉であるが、しかし口調にそういった要素は感じられない。むしろ口元は緩み、その言葉は柔らかかった。

「ふん。伊坂もこうしていたら可愛いものなのにねぇ。喋ったら何であんなにムカつくのかしら」

 ぐりぐりと頬を指の腹で押し、京久の顔がわずかに歪むのを見て、つくしは微笑む。わずかに漂うカルキの匂いと湿った空気。それを校舎裏に吹き抜けていく風がさらっていく。

「……」

 彼が完全に寝ていることを確認した後、つくしはきょろきょろと辺りを見渡した。誰の姿も近くにないことを確認し、「こほん」とわざとらしく咳払いをする。

「伊坂……いつも、ありがとね」

 それは、下手をすれば鳴り響くセミの鳴き声に掻き消されてしまいそうな、か細い言葉。しかし誰に届ける訳でもないのだから、それで十分だった。

「あなたはいつも、わたしの背中を押してくれるのね。本当に不器用で、素直じゃないわ」

 そこまで言って、つくしはお互い様か、と心の中で嘯いた。

 不器用で素直じゃなくて……一人が好きな癖に、独りは怖くて。

 あぁ、いつか伝えられるだろうか。

 こんなねじ曲がった、捻くれ者の想いを。

 彼から貰ったものを、ちゃんと返せるだろうか。

 分からない。だから今はまだ、この感情にラベルを付けたりせず、胸の奥にしまい込む。いつか届く、その時まで。

「……んー……?」

 ふと見ると、京久が目を覚ましたようで、眠け眼をごしごしと掻いている。そして目の前にしゃがみ込んでいたつくしと目が合った瞬間、「お、おお!?」と叫んで勢いよく転倒した。

「……ぷ、は、ははは!」

 その様子がおかしくて、つくしは堪え切れず腹を抱えて笑い出した。京久は状況が分からず数秒ほど呆然とするが、すぐさま脳味噌を回転させ立ち上がった。

「な、何だ、一条! 眼を開けたらお前の顔があってびっくりしたわ!」

「ぷぷぷ! 自信満々だった癖に、女子より泳ぐのが遅かった負け犬の顔を観察していたのよ!」

「うぉ、おおお! 今回ばかりはストレートな屈辱ッ!」

 頭を掻きむしり目を見開き、絶叫する京久の姿を見上げて、つくしはいつものように、下卑た笑みを浮かべて嘲笑う。

「く……ッ、だ、だったら次は背泳ぎで勝負だ。隠していたが、俺の本業は自由形ではなく背泳ぎでな」

「はいはい。バタフライでも平泳ぎでも、何ならメドレーでも構わないわよ。その度に負け犬の可愛らしい顔が視られるんだから……何度だって掛かってきなさい」

 つくしはけらけらと、心の底から笑う。

 生まれて初めて、自分の隣に座って……ずっと座り続けてくれる人に、誰にも見せたことのない笑顔を送る。



 青空に浮かぶ白い雲。茹だるような暑さと、汗の臭い。鼓膜を揺らす蝉の鳴き声と、友人とも恋人とも言えない……だけど、かけがえのない人の声。



 季節は巡って、二人の距離も少しだけ密度を増していく。

だけど重ならず、擦れ違ったまま、一条つくしと伊坂京久の青春は、まだしばらくは続くのだろう。


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