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 俺の憩いの場である校舎裏は当然ながら野外であるのだが、意外と突然の雨にも大丈夫な設計だ。この澪標学園には校舎同士を接続する渡り廊下が多く存在しる。この校舎裏に関しても真上を通過する渡り廊下があって、少し壁に寄る事で多少の雨なら防げるのだ。

「まぁ俺のような情報強者は、天気予報を完全にチェックしている訳だがな」

 意味もなく呟いて、持ってきた傘を壁に立てかける。見上げると鉛のような色の空から、バケツを引っくり返したような雨が、アスファルトを激しく叩き付けていた。校舎を出た時の空とは、随分と違った様相を呈してしまったのだが、万が一に備えて傘を持ってきた俺の完全勝利と言えるだろう。

 しかし珍しく今日の昼休みは俺一人だ。こんな生憎の天気なので、一条は来ないのかもしれないな、とそんなことを考えながら腰を下ろし、弁当を食べ始めた時であった。

 バシャッ! という、革靴が水溜まりを踏む音が、俺の耳朶を打つ。おそるおそる視線を横に向けると、そこには全身をびちょびちょに濡らした一条が立っていた。

「……」

 普段であれば眉にかかる程度の前髪が目元にまで垂れ下がり、白いシャツは肌に張り付いている。微妙に肌色が見えているような気がしないでもないが、目下の問題の方に俺の意識は持って行かれた。

「一条……お前、遂にトイレ中に水の入ったバケツを投げ込まれたのか……ッ!?」

 俺の中学時代であれば、仲間外れになった人間への挨拶程度に行われた行事だ。治安の良い澪標学園ではないのかもしれないと思っていたが、認識が甘かったか!

「違うわよ! 教室を出た時点じゃ晴れていたのに、ここに来る途中で大雨にあったのよ!」

「隠さなくても良いだぞ……縣委員長がようやくキレたんだな……」

「ち! が! う!」

 ガシィ! と両肩を握られ、凄い剣幕で否定されてしまった。

「そうか……違うのか……」

「何でちょっと残念そうなのよ、あなた……」

 興が削がれてしまったので、俺は座り込んで肩を落とした。この学園は基本的に無菌室のようなものなので、たまには汚い話も聞きたいのである。

「まぁ、それはそれで災難だったな。だが天気予報を見ておかないお前の落ち度だ、諦めろ」

「うるさいわね。知っているわよ、そんなこと」

 そう言って一条は、俺と同じように壁沿いに素割り込む。それから昼食を取り出そうとポーチに手を掛けた瞬間、「くちゅん!」とくしゃみをした。

「……」

「……」

 口元を両手で覆ったまま固まる一条と、リアクションを取りあぐねて硬直する俺。……何だ、今の甲高い一条つくしらしからぬ声は。

「一条、くしゃみがあざといぞ」

「あざといって何よ!」

 怒りか羞恥か分からないが、頬を真っ赤に染めながら俺に迫る一条だったが、すぐさま鼻と口元を両手で覆って、「くちゅん! くちゅん!」とくしゃみを連発した。

「……」

 ぷるぷると震えながら真っ赤な貌で睨まれても怖くはない。いや、何だか胸がドキドキと鼓動しているので、ひょっとしたら怖いのかもしれない。

「そんな格好でいるから、身体は冷えたのだろう。濡れたままだと、風邪をひいてしまうかもしれないぞ」

「……」

 誤魔化しの為の忠告であったが、一条は鼻をハンカチで抑えながら、そっぽを向いてしまう。しかし肩は冷えているからか震えており、このままだと体調に良くない影響があるのは明らかであった。

 全く、困ったお嬢様だ。やれやれと肩を竦めて、俺は無言でシャツのボタンを外し始めた。

「え!? 何!? 何で突然服脱ぎ始めているの!?」

 どうしてか顔を青くしてドン引いた様子の一条。人の親切に対して何て反応する女だろうか。

「俺は下にTシャツを着ているから、脱いでも問題はない。しかしお前はそうでもないだろう。寒いようだったら貸し出すが」

「い、要らないわよあなたが着ていたワイシャツなんて……て言うか、そんな格好になったら、あなた午後の授業はどうするのよ」

「大丈夫だ、トイレ中に水入りバケツを投げ込まれること危惧して、ワイシャツは予備を置いてある」

 同じ理由で上靴や下着も、全て予備を校舎内のいずれかに隠してある。幸いなことに今のところ出番はないが、嫌われ者の一条とこうして話してしまっている時点で、万が一を想定せねばならない。

「前から思っていたけど、あなたどんな環境でどんな生活してきたのよ……」

「はっはっはっ、奴隷よりは良い生活はしてきたと自負しているよ」

「……あっそ」

 俺のテキトーな受け答えに対し、一条は興味無さそうに会話を切り上げた。俺の過去に対して掘り下げられると辛いだけなので、一条の自己中心的な会話スタイルには助けられた流れである。

「ともかく、あなたの施しなんか要らなへくちゅん!」

 腕を組み、偉そうに宣言した瞬間、盛大に可愛らしくくしゃみをする一条。鼻水も出てしまっており、全く威厳は感じられないが、まぁ威厳は元より存在しないから問題はないだろう。

「見なかったことにしてやる」

「……ッ」

 俺が目を閉じてワイシャツを差し出すと、一条は乱雑に奪い取った。全く……最初からそうしていれば良いものを。

「絶対に、こっち見ないでよ!」

「はいはい」

 ヤケクソ気味に叫んだ一条から視線を外し、頬杖を突きながら曇天の空を見上げる。ざあざあと土砂降りの雨は暫く止みそうにない。

 背後から僅かな衣擦れの男がする。後ろの光景が気にならないと言えば嘘になるのだが、しかし見ようとは思わなかった。……見た場合の報復が怖いからな。

「もう良いわよ」

 そう言われて振り向くと、そこには俺のワイシャツを身に着けた一条の姿はあった。サイズが合っていないらしく、袖をまくり上げている。濡れた黒い長髪は後ろで束ねて、横に流していた。頬は寒さからか蒸気して赤い。

「うへぇ……ちょっと温かいのが気持ち悪いわ……」

 口元を歪め、嫌悪感たっぷりに呟く一条に怒りを覚えないでもなかったが……何だろうな。自分の着ていた服を女子が身に着けている、それだけなのに、何だか気分が高揚して、満足してしまう。だから俺の親切を無碍にするような彼女の発言に対しても、俺は「そりゃ、失礼しました」と言うだけに、留めるのであった。





 雨が続く。遠くではゴロゴロと稲妻が走っており、さながら台風か嵐かといった様相だ。最近では珍しい荒れ模様だったが、考えてみれば梅雨時期であれば当然と言える天気だ。

 昼休みの時間中に雨が降り止むことはなく、豪雨の男に紛れる形でチャイムが鳴り始める。あと十分で次の授業が始まってしまう。

「……さて」

 俺は立ち上がって、持ってきた傘をさす。するとすぐさま一条が寄って来て、当然のように俺の傘の中に入った。

「さっさと教室に戻るわよ」

 目線を上げて睨みつけ、いつもより強めの語気で彼女は言う。

 まぁ傘を持っていなかったから、ここを訪れた時にあの無様な状態だったのだから、一条はこうするしかないのだろう。それはまぁ、当然の帰結と言えるかもしれない。

「あ、あぁ」

 だからこそ俺は首肯して、教室に向けて歩き出す。力強く振り落とされる雨粒に、俺達を守る傘の布地が悲鳴を上げた。

「ねぇ、もうちょっと向こう行きなさいよ」

 肩をぐいぐいと押し付け、一条は俺を傘の中から押し出そうとする。俺の左肩が既にびしょ濡れなのだが、そんなことを気にする余裕はない。彼女の口元が俺の首筋辺りに位置する為、この至近距離で喋られると吐息が当たって何だかくすぐったい。

 俺のワイシャツを着た一条が、俺と同じ傘の中で身を寄せて来る。唇を強く噛み締め、頬を強張らせた。

「な、なぁ、一条……お前も変わったものだな」

「何よ」

 気を紛らわせる為に、俺は表情筋に全エネルギーを注ぎ込みながら、思ったことを脊髄反射で喋り始めた。

「前のお前だったら、問答無用で俺の傘を奪いに来ただろうに」

「……まぁ、そうだけど…………せっか…………ンスなのに、出来る訳ないじゃない」

 何か小声でボソボソと呟く一条だが、雨の音に紛れて全く聞き取れない。俺は腰を屈めて、「悪いが、もう一度言ってくれ」と言おうとしたが、彼女の顔が泣きそうなほど真っ赤になっており、言葉が喉の奥に引っ込んだ。

 同時に沸き上がった感情も飲み込む。

 代わりにヘラヘラと、俺は口元に下劣な笑みを浮かべて言うのだ。



「そういえば、こういう状態を相合傘と呼ぶんだったかな」



「な――ッ!」

 ミシィ! という骨が軋む音が、俺の腹部から鳴り響いた。予想していた痛みとは言え耐え切れず、俺は傘を手放して地面に転がった。

「は、はははッ! まんまと罠にかかったわね、伊坂ッ!」

 豪雨に晒されながら見上げると、そこには俺の傘を奪った一条が、口元に不敵な笑みを浮かべて俺を指さしている。

「貴様ッ! ここまで来て傘を奪うのは卑怯だろう!?」

「この学園は一条家のものなんだから、敷地内ある全ての物の所有権は私の物なのよッ!」

 何かを誤魔化して、切り裂くように叫ぶ一条。あぁそうだ、今はそれで良い。それでこそ一条つくしだ。

「そんなジャイアニズムが通用するか、このボンボン女!」

「うっさいわね、これだから貧乏人は! ちょっと傘借りるくらい良いじゃない!」

「今じゃなければな!」

 俺は水たまりを蹴り飛ばし、傘を奪い返そうと一条に突進する。しかし回避され、すぐさま彼女は「べー」と舌を出して、教室へと向けて走り出した。

 飛び散る水飛沫と、互いの罵詈雑言の嵐。

 この感情は胸に隠したまま、俺達は土砂降りの雨の中を走っていく。いつか澄み渡った青空に虹が掛かることを夢見て、俺と一条は今日も、この曇天の下で罵り合うのだ。

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