新学期/桜舞う
「へへ……オレ達、やっぱり運命の赤い糸で結ばれてんのかな……最初、お前が三組になった時は一体どうなるかと思ったけどよ……」
新学期早々、一日でクラス替えさせられた俺が二年一組へ訪れると、思った通り面倒なのに絡まれた。俺が登校するタイミングを見計らっていたようで、彼は俺の席の前に立って、軽薄な笑みを浮かべて言う。
「今年も一年、宿題の写しをよろぴく☆」
「そうだな☆」
グッと親指を立てる龍ヶ崎に向けて、俺は笑顔で親指を下に向けるのであった。
○
「お昼になって早々、どこに行くの?」
四時間目が終わってすぐに弁当片手に教室を出て行こうとしたところ、今度は思ってもみない人物に捕捉された。振り返った先に立っているのは、広いデコが目印の女生徒。
「縣委員ちょ……いや、今は委員長では無かったのか」
「ふふん。昨日のクラス会議で、今年も委員長に任命されたよ」
どこか満足そうに腕を組み、彼女は鼻息荒く宣言する。やりたいものなのだろうか、クラスの委員長って。
「そうなのか、それはおめでとう。……それで、何か俺に用か? 俺がどこで弁当を食べていても、お前には関係のない話だろう」
縣も変わった人物だなと思ったが、特に興味も無いので深入りせず、話の本題を語れと促す。俺は早く昼食にしたいのだ。
「まぁ関係はないけど、ちょっと不思議に思っただけ。ほら、あそこの集団と一緒に食べたら良いじゃん。龍ヶ崎もいるし」
委員長の指さす先には、クラスの男子達が机を寄せ集めて、ゲラゲラ笑いながら昼食を食べている。運動部の連中でも、煩い奴等が集合した公害の類であった。
「遠慮しておく。あの連中と一緒にいたら、鼓膜と弁当が腐りそうだ」
俺の憮然とした応答に、縣委員長は「はぁ……」と深い溜息を吐いて肩を落とした。
「一条さんもそうだけど……伊坂もそうとう面倒な奴だなぁ……もうちょっとクラスメイトと仲良く出来ないの?」
「はっはっはっ、出来ないのだ。俺に友達がいないのは、そういう訳だよ、委員長」
作り笑いで応えて「では、そういうことで」と踵を返す――その刹那、背後で縣委員長はボソリと呟いた。
『……じゃあ一条さんとは、どうして一緒なのかな』
「…………」
息を飲み、ほんの一瞬、俺の脚が止まる。しかしその問いに答えることはなく、俺は委員長を無視していつもの場所へと向かうのであった。
○
今年の春は例年と比べると涼しく、この澪標学園の中にも未だに桜が何本も咲いていた。温かな春風に誘われて、ひらひらと桜の花びらが辺りを舞い踊っている。
いつもの校舎裏に到着すると、これまたいつも通り、一条が座ってサンドイッチを食していた。衣替えによって冬服から夏服に変わって、白いシャツが校舎の影から浮いて見える。ただの白シャツなのに、随分と清楚な雰囲気だ。よっぽど良い洗剤を使っているのだろう。
そんな彼女の隣に座って弁当を開けたところで、一条が「ん?」と俺の顔を一瞥し、不思議そうな声を上げた。それから「……はぁ、やれやれ」と呆れたように肩を竦める。
「おい。顔を見るなり何だ、その反応は」
「……気付いてないの? しょうがないわねぇ」
俺の言葉を鼻で笑って、一条は食べ掛けのサンドイッチをプラスチック包装の上に置いた。それからずいっと上半身をこちらに向ける。
「え」
ふわり、と長い黒髪が揺れる。近づけられた一条の顔を、俺は初めて間近で見ることになった。柔らかそうな肌、俺をじっと見つめる黒目がちな瞳。微かな衣擦れの音に驚き、俺は体重を背後に預けて上半身を仰け反らせる。
「あ、ちょっと、動かないでよ」
苛立った声を上げながら、一条は小さな左手で肩を抑える。逃げ場がない――俺は今から何をされるんだ!? 身が竦むのは恐怖の筈だ。ドキドキと心臓が鼓動を刻むのも恐怖の筈なのだ。
それなのに反撃も逃亡も出来ず、ただ拳をぎゅっと握り締める俺の元へと右手を差し伸ばし、俺の額に触れて――何かを剥がした。
「花びら、付いていたわよ」
一条はくすりと笑って、俺の額に付着していたと言う桜の花弁を、ひらひらと揺らす。
「ぷぷ……ださッ」
俺のことを横目に見ながらせせら笑う彼女の姿に対しては、まぁ怒りという感情を以って応えるべきなのだが、先に俺の内心には羞恥が渦巻いてそれどころではない。俺は一体全体、何を期待してしまったのか。頬が熱い……俺の顔はおそらく、耳まで真っ赤なのだろう。
「……え、何その反応」
俺のリアクションに対して、一条も予想外だったのか怪訝そうに首を傾げた。あぁ、何だろう……彼女にとって今のが無意識で無自覚な行為だったことが……少しだけ腹立たしいし――悔しい。
「いや……そうだな。急に顔を近付けられたから、恥ずかしかった」
そんな俺の告白を受けた一条はきょとんと目を丸くして、それから口元にニヤーと嫌な笑みを作る。
「あー……、そっか、そっかぁ。モテない伊坂には、ちょっと刺激が強かったかもしれないわねぇ」
口元を手で隠しながらも、心底愉しそうに一条は肩を震わせた。その言葉に対して、俺はすぐさま反撃することに決めた。こいつに負ける訳にはいかない。
「つまり、お前は気にしなかった訳だな?」
「えぇ、全然。そんな意識なんてする訳ないじゃない」
「そうか」
その言葉を待っていた俺は立ち上がり、一条の前へと移動する。それから膝を折って、両手を彼女の背後の校舎の壁へと押し当てた。
「では、先程はどれだけ近かっただろうか」
「……え?」
俺の行動が思いもよらぬことだったから、一条は何も言わずぽかんと口を半開きにする。あぁ、こうして見ると、ちゃんとリップを塗って、眉下も綺麗に整えられていて、元が綺麗なだけではなく、しっかりとメイクもしているのだなぁと思った。
「確か、鼻先は十センチ位までは近寄ったな」
「え、ちょ……な、なに!? 何なの!?」
「別に気にしないのなら、同じくらい近寄っても何の問題もないだろう?」
「どういう解釈よ!?」
俺が腰を曲げて顔を近付けると、一条は顔を真っ赤にして取り乱す。対人関係の無さでは、こいつの方が上だ。ここまでパーソナルスペースを侵入されて、平静でいられるはずがない。先程のように無自覚でない限り、こうやって慌てふためくのは分かり切っていた。
ただ、こちらの想定を超えていた点が、一つ。
「や、やめ……てよ。い、伊坂……? 急にどうしちゃったの……?」
――ここまで、一条からの反撃が皆無という点。
彼女は透き通るような綺麗な頬を朱に染めて、瞳を潤めて見上げている。唇の端が痙攣して、可愛らしい鈴の音のような声は擦れていた。
いや、どうしちゃったのかと言われても、この辺りで激昂した一条に俺がぶん殴られて、この話は終わる予定だったのだ。これ以上の続きなんて考えてもない。お前の方こそ、そんなに弱々しくてどうしちゃったんだ。
俺は打ち切る箇所を決めあぐね、少しずつ一条に顔を近付けていく。座っている彼女に対して顔の両サイドを腕で囲み、全身で覆っているような状態で……今度は完全に、俺が一条の逃げ場を奪っていた。
……まずい。責めているはずのこちらの方こそ恥ずかしくなってきた。一条に視線を向けると彼女は目を細め、じっとこちらを伺っている。
何だか頭がぼうっとなりながら恐る恐る腰を落とすと、ちょんと、二人の鼻先が優しく触れた。
「……ッ」
「……ッ」
突然の物理的な接触に、俺達は互いに目を丸くして凝視し合う。幾許かの躊躇の後、俺の腹に鈍い衝撃が走った。
「せ……せ、せせ……ッ」
地べたに転がる俺の身体と、真っ赤なまま立ち上がる一条。見上げた先で、彼女は俺を指さしながら瞳を吊り上げていた。
「セクハラァァァァ――――ッッ!!」
「ぐへぇ!」
引っ繰り返って蹲る俺の背中へと、一条が革靴の先でガシガシ蹴りを入れる。本気で痛い! 痛い!!
「おかしいじゃないおかしいじゃない鼻先十センチって言って鼻がぶつかるの絶対おかしいじゃないッッ!!!!」
「あッ! がッ! え、おい、ちょっと魔法瓶は本気でやめろ殺す気か!?」
「殺す気よッ!!」
思いっきりぶん投げられた魔法瓶の水筒を回避して、俺は校舎裏から走り出す。しかし逃走を易々と許す一条ではない。
「待ちなさいッ、そのスケベ野郎ォッ!!」
「誰が待つか阿呆ッ!!」
桜が舞う校庭で、俺達は他の生徒に見られているのにも関わらず罵り合う。五時間目のチャイムが鳴るまで、俺達は追いかけっこに興じるはめになるのであった。
俺と彼女の奇妙な関係に、まだ名前を付けられない。
だけど少しだけ変わっていくような、そんな予感を覚えながら、また、新しい一年が始まる。