バレンタインデー
俺、伊坂京久は孤高の私立澪標学園に通う孤独な男子学生である。中学の頃に人間関係で色々とトラブルに巻き込まれたトラウマから友人や友情といった存在を忌避し、誰一人として友達を作ることなく暗澹たる高校生活を送っている。
この学園はかなりの規模を誇るマンモス校であり、生徒の数も相当だ。故に昼休みであろうと学校の敷地内は和気藹々とした喧騒で溢れ、大変不快である。不愉快なのである。
そういった事情から、俺は誰も生徒が訪れない第四校舎の裏で昼食を取っていた。微かに他の生徒の声が聞こえてくるが、それ以外は風に揺れる音くらいしか耳朶に触れることがない。まさに理想の楽園であった。
――であった。
そう――半年前までは。
「ねぇ、伊坂」
先に訪れていた少女は俺の存在に気付き、むしゃむしゃとサンドイッチを口の中に放り込んで、無遠慮な視線をこちらに向けた。
「今日が何の日か知ってるかしら」
長い黒髪に小動物を思わせる小柄な体躯。まるで絵本の中から飛び出て来たような可愛らしい容貌の彼女は、しかし似合わぬ口元に下卑た笑みを浮かべ、俺に問うてくる。
今日の日付は二月十四日。それが何を意味するかなど、考えるまでもないだろう。
「さぁ? 二月にもなったのに、随分と冷える日だということは分かるが」
俺は肩を竦めて、アスファルトに腰を下ろした。泰然とした態度をとったつもりだったが、少々わざとらしかったのかもしれない。
「ふぅーん、そっか、そっか。知らないわよねぇ、あなたみたいなモテないし友達もいない根暗野郎は、バレンタインデーなんて縁遠いものねぇ」
「おや、モテないし友達もいない根暗女が何かを囀っているようだ」
はっはっはっ、と俺は爽やかに笑って返す。
俺の隣に座って人を小馬鹿にしたような態度をとる少女の名は、一条つくし。この学園の理事長の孫であり、甘やかされて育ってしまったが為に性根が腐ってしまった、俺と同じ友達皆無の人間である。
友達のいない俺と一条。
教室に居場所がない俺達が昼食をとる場所として最適地を探した結果、同じ場所に行き着くことになったのは当然の帰結だろう。最初は校舎裏を巡って争ったこともあったが途中で不毛と理解して、気付けば昼休みになったら二人きりで昼食をとる間柄になってしまった。
「何とでも言うと良いわ。バレンタインデーは女性が男性にチョコを送る日……さて、伊坂。あなたは今日、チョコを幾つ貰ったのかしら?」
「…………」
嗚呼、自分に有利な状況下に於ける、一条の瞳の輝きようを何と表現しよう。水を得た魚とはまさにこのことだ。それに対する俺は俎上の魚だろうか。
彼女はおろか友達すらいない俺が、チョコを貰っていないことは自明の理なのである。それを理解していない一条ではない。つまりこの質疑応答には何の意味もない。伊坂京久に対する嫌がらせ以外の意義は見出せないのである。
ふぅ、と俺は溜息を吐いて、俺は両手を上げて降伏した。
「ゼロだ。何か文句あるか?」
「ぷぷぷ! だと思ったわ! あなたみたいなコミュニケーション能力の欠如した人間なんて、義理チョコすら貰えるはずもないものね!」
俺の答えに対して、一条は腹を抱えて大笑いする。そういうことを言っているから友達がいないのだろうが、自覚済みだろうから指摘することすら阿呆らしい。
「はいはい。俺の負けだよ。で、何? それが何なのだ? 所詮バレンタインデーに浮かれている人間は、製菓業界の掌の上で踊らされているに過ぎないだけではないか?」
「はいはい。そんなに必死に言い訳しなくても、わたしは分かっているから大丈夫よ」
ふふ、と微笑を浮かべ、目元に浮かんだ涙を拭いながら一条は言う。チョコを一切貰っていない俺が、泣くほど無様で面白かったらしい。あぁ、だが確かに今の俺は、何を言っても負け惜しみにしかならないだろう。
「憐れねぇ、伊坂。今時本命はともかく義理チョコくらい普通は一個くらい貰えるんじゃな――ん? ゼロ?」
勝ち誇ったような表情で凱歌を上げていた一条は、ふと眉間に皺を寄せて口を閉じた。それから怪訝そうに腕を組み、俺をじっと窺うように睨んでくる。
「本当に? 正真正銘のゼロ?」
「あぁ、果てしない虚無だ」
「――ところで話題は変わるけど」
「何だ」
「あなた、いつも教科書ってロッカーに入れておかないのかしら」
「……はぁ?」
会話の流れを一刀両断する脈絡のない質問を受けて、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「いや、まぁ基本的に教科書は全て持ち帰っているぞ? 置いていったら破られたりトイレに捨てられたりと、散々な目に遭ったからな」
全て中学の頃の苦い思い出である。私物を学校に置く愚行は極力しない。上靴もいつ隠されても良いように予備を幾つか用意してあった。
「へ、へぇー……じゃああなた、ロッカーに入れてあるのって……」
「? 予備の筆記用具くらいだが?」
俺の過去に若干引く一条に少しだけ胸がすくような思いをしながらも、俺は憮然とした表情で応える。それに対し、一条は唇の端を痙攣させた。
「何なんだ、一条。いつもおかしいお前だが、今日は特段おかしいぞ」
「うっさいわね。誰もあなたなんかにチョコなんて渡さないわよ」
「会話が噛み合っていないようだが……?」
俺は率直な疑問を呈するが、一条は不機嫌な様子でそっぽを向いて、新しくサンドイッチの包みを開ける。乱雑な手つきで掴み、これまた不機嫌そうに咀嚼していく。彼女は完全に気分を害しているようだった。
何なんだろう、こいつ……と不思議に思ったが、思うだけだ。他者の心情を理解しようとは思うが、慮ることはしない。そんなことをしたくないからこそ、俺は友達を作らないのである。
それから俺達は無言を取っていると、一条は「じゃ、わたしは先に教室行っているから」と立ち上がって去っていった。
何かの約束をしてこの場所に集まっている訳でもない。教室に戻りたければ勝手にすれば良いのだが……何だかんだ彼女は、いつも昼休みの間はギリギリまで校舎裏にいた筈だ。
おかしいなぁと思いながらも、俺は水筒に入ったお茶を啜る。ただ俺が先程述べた通り、一条が情緒不安定はいつものことである。むしろ安定している方が珍しい。
だからまぁ、そんな日もあるのだろうと結論付け、俺は久しぶりの一人の昼休みを堪能するのだった。
○
昼休みを終えるチャイムを聞き、唾棄すべき屑共が夥しく溢れる教室に戻ってくる。先程までの静寂が恋しくなる騒音に顔を顰めながら机の中から英語の教科書を取り出した。だが……筆記用具が見当たらない。
「――ッ」
条件反射でイジメと判断し教室内を見渡す。パターンとして『机の中の物を隠す』行為の後で、必ず犯人は俺の方を観察している。奴等は俺の反応を見て愉しんでいるのだ。だから絶対に視線を向けている人間がいるだろうと視線を教室中に巡らせるが――該当者は、一人。
「……お前かよ」
苦々しく呟きながら、呆れ半分の気持ちで離れた席に座る一条を眺める。彼女は頬杖を突きながら俺を一瞥し、「ふん」と鼻から息を漏らした。仏頂面なのは変わらない。
何がそんなに気に食わないのか分からない。しかし筆記用具を隠したのが一条なのだとしたら、ことさら事態を重く見る必要は無さそうだと判断する。子どもの悪戯みたいなものだ。
「全く……面倒だな」
肩を竦めて立ち上がり、俺は廊下にある自分のロッカーへと向かう。あいつにどんな思惑があるにせよ、教科書ではなく筆記用具のみを隠したのは失敗だろう。何せ俺にロッカーに、筆記用具の予備を入れてあるのだから。
「……あれ?」
自分の思考に違和感を覚える。筆記用具の予備がロッカーに入っていることは、一条に先程話したばかりではないか。だったら俺は筆記用具を隠されようと捨てられようと困ることなどないと彼女も理解している筈だ。
何だ? いまいち一条の行動に説明がつかない。あいつはおかしな奴だが、しかし不合理なことをする訳じゃない。あくまで一条つくしの中のルールに則って、彼女は行動をするのだ。しかし何だか今日は上手く合致しない。あいつは友達でもなければ彼女でもないのでどうだって良いのだが、しかし不思議な物が不思議なままなのは具合が悪い。俺の調子が狂う。
「……」
まぁ、何だって良い。目下の急務は次の授業の前に、筆記用具を手に入れることだ。俺は自分のロッカーの前に立ち、何の気負いもせず開ける。中にはダミーの教化書類(実は表紙だけ合わせだけの全然違う書籍)と、その下に筆記用具が入っているのだが――その上に置かれた物体に、俺の身体と精神が凍結した。
「――――――――え?」
赤い包装の上からピンクの紐で結ばれた、四角い箱。明らかな贈り物。形状――そして昼休みに一条が言っていた台詞を思い出す。
『今日が何の日か知ってるかしら』
あぁ。
あぁ、そうだ。
分かっている。分かっているとも。
きっとバレンタインデーの贈り物に見せかけた悪戯。入っているのは虫の死骸か腐った食パン辺りだ。だからこんな所で開封してしまえば、他の生徒達に迷惑だろう。
「……まさか、な」
俺は自嘲しながら、その箱を制服の内ポケットに仕舞う。どんな嫌がらせが入っていることやら……家に帰ってから、じっくりと賞味してやろうじゃないか。
○
翌日。二月十五日のこと。
俺がいつも通り弁当を片手に第四校舎裏へと赴くと、これまたいつも通り一条がパンを食べていた。
俺は無言で一条の隣に腰を下ろし、弁当の包みを開く。しばらく黙々と箸を進め、お母さんが作ってくれた昼食を平らげていく。しばらくすると一条はパンを食べ終えて、ちらりとこちらに視線を向けた。それを俺は合図と見る。
「……昨日、バレンタインデーのチョコは一つも貰っていないと言ったが、あれは嘘になった。あの後一つだけ貰ってな」
「……へぇ。母親?」
「違う。お母さんからはオハギを貰った」
夕飯の後に伊坂家の食卓に並んだあれはバレンタインデーと理解していての物なのか、それとも普通のおやつとして出されたのかは定かではない。
「そっか……じゃあ、良かったんじゃない? どこかにあなたを憐れんでくれていた人がいたのかもね」
「そうだな」
軽く相槌を打って、それから言葉が続かない。視線を右に向けると、一条は相変わらずそっぽを向いていて表情は分からないが、その耳は真っ赤に染まっていた。
気まずい。気まずいが……そこから、踏み込もうという勇気はない。
俺と一条は友人でもなければ恋人ではない。この関係は触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、どこか幻想めいている。
だけど、だけど。
「――ところで話題は変わるのだが」
俺は歪な笑みを口に浮かべ、一条に問い掛ける。
「チョコのお返しは、何を渡せば喜んでもらえるかな」
一瞬だけ俺の方へと向いた一条の貌は、それはもう真っ赤なリンゴのようで、怒ったような、嬉しいような曖昧模糊とした何かで……俺は自然と笑ってしまった。
そんな俺の反応を見て、すぐに一条はそっぽを向いてしまう。そしてか細い声で、絞り出すように言うのだ。
「…………お、想いが籠っていれば、何でも良いんじゃないかしら?」
答えになっていないぞ、と、そんな言葉を心の裡に押し込んで、俺は「そうか」と満足気に頷いた。
これは昨日と同じようで、どこか違う今日。
とあるバレンタインの日のお話だ。