1.パターンA:彼女が遠くに行く
「皆様、当機は間もなく、成田空港に着陸致します・・」
今日香はぼんやりと機内アナウンスを聞いていた。日本に戻って来た・・。戻ってきちゃったなぁ。
別に戻ってきたくなかったわけではない。留学期間をもう少し延ばすこともできたのを、2年で終えて帰国すると決めたのは自分だ。
もともと長くても2年という予定でいたので、一時帰国もしていない。だから本当に2年ぶりの日本だ。いよいよ到着という段になって、色々な記憶が今日香の脳裏を駆け巡る。留学期間の思い出と、日本への感慨と。
高度が下がり、着陸態勢に入るにつれて、今日香は妙な緊張を感じていた。
(あいつ、あんなこと言ってたけど・・来ているわけない。期待するだけ無駄だし。期待なんて、そもそもしてないし。でも・・)
2年前、今日香が留学すると告げた時、皆が祝福して送り出してくれたのだが、1人だけ、何で行くんだ、と詰め寄って来た後輩がいた。
ノリもよく、お調子者の彼は一番に喜んでくれると思っていただけに、その後輩、達樹の反応は今日香をうろたえさせた。壮行会という名の飲み会の後、達樹と2人で帰りの電車を待つホームのベンチに座り、彼は妙に真剣な顔で言ったのだった。
「先輩、何で今なんですか。俺から逃げる気ですか?」
突然前置きもなくそんなことを言われて、今日香はびっくりした。
「え?何言ってるの?達樹君、酔ってるでしょ?」
「酔ってますけど、自分が何言ってるかはわかってます」
そう言うと、達樹は強い瞳で今日香を見据えた。
「俺・・ずっと先輩が好きでした。先輩は仕事もできるし高嶺の花で、なかなか告白する勇気が出なくて、でも一緒にいられるだけでいいと思ってた。なのに・・行っちゃうんですか」
まさか達樹に告白されるとは思ってもいなかった今日香は口もきけずに目を見張っていた。
今日香も達樹のことは可愛がっていたし、性格もルックスも正直好みのタイプだった。今風の爽やかイケメンと言えるだろう。だからかなりモテていたし、絶対可愛い彼女がいるに決まっていると思っていたから、最初から恋愛対象には全く入っていなかった。
第一、自分は今26の彼より5つも年上なのだから。嬉しくないと言えば嘘になるけど、もうすぐ自分は日本を出てしまう。このタイミングで言われても、ただいい思い出で終わるだろう・・というのが正直な気持ちだった。
(それに、そんな自分を捨てていくのかみたいな言い方されても・・)
達樹はそんな今日香の戸惑いに構わず言葉を続ける。
「俺、先輩が留学しなかったら、きっとこんなことずっと言わなかったと思います。でも、先輩と離れなきゃいけないって知って、もう黙っていられなくなりました。
入社以来の片思い、やっぱり簡単に諦められません。俺、先輩が留学終わって帰ってくるのを待ってます。その時もう一度告白するんで、答えはその時でいいです」
・・え?今日香は耳を疑った。今日告白して終わりじゃなかったの?!
「で、でも私、いつ帰ってくるのか正確にはまだわからないんだよ?最長で2年行ってくることになるし・・」
「構いません。今、即却下じゃなかっただけで、俺嬉しいから。待っていていいってことですよね?俺、先輩に何年片思いしてると思ってるんですか。あと2年くらい待てます。
会社からの派遣留学だから、帰国日はさすがに社員にも知らされるでしょう?必ず空港に迎えに行きます。返事を聞かなきゃいけないから」
達樹は真剣な顔でそう言った。酔った勢いでそう言っているだけだと思おうとしたけれど、その真剣な瞳に圧倒されて、今日香は思わず、
「わ、わかった・・。そういうことで」
と言っていたのだった・・。
その後、出発の日まで達樹はいつも通りだった。「約束」のことも全く触れず、笑顔で送り出してくれた。その後個人的なメールをよこすでもなく、だから今日香も留学先では達樹のことをほとんど思い出すことなく、留学体験を存分に楽しみ、集中できた。
でも、だからこそ、時間が経てば経つほど、あの夜の達樹の言葉は一時の感情に任せた気の迷いと思えるようになって、いつからか、この話は今日香の中では完全に終わったことになっていたのだ。
だけど、日本に帰る日が近づくにつれ、又気になりだした。もちろん、来ないに決まっている。でももし・・?堂々巡りでわからなくなる。自分の達樹に対する気持ちもよくわからなくなっていた。
飛行機は間もなく無事に成田に着陸した。今日香は入国審査を終え、スーツケースを取り、ようやく、ゲートを通り、日本への第一歩を踏み出した。日本人ばかりの光景と、日本語が耳に入ってくるのが不思議な感覚だ。
「はぁ・・。帰ってきたなぁ・・。ただいま」
誰にともなくつぶやいて、ゆっくり歩き出す。家族の迎えも断っている。とりあえず実家には電話連絡だけ入れよう。今夜はホテルにでも泊まる予定だ。早く部屋も探さないと。来週には会社にも顔を出して復帰の準備を始めなければ・・。
今日香は今後のスケジュールについて考えながら、ゆっくり電車の駅に向かって歩いていた。その時、後ろから声がした。
「先輩」
そんなはずはない。今日香が恐る恐る振り返ると・・達樹が微笑んでいた。
「お帰りなさい。お疲れさまでした。疲れたでしょう」
と、スーツケースに手を伸ばしてくる。2年見ない間に少し大人っぽくなったように見える。だけど、相変わらず爽やかだ。
「た、達樹君・・。来てくれたの?」
「そう約束したでしょう。忘れたんですか?薄情だなぁ・・。じゃあ、これも覚えてない?」
そういうと、達樹はまっすぐな目で今日香を見つめて言った。
「先輩、2年前と変わらずずっと好きです。俺とつきあってください」
今日香は2年前と同じように何も言えなかった。でも、達樹は嬉しそうに笑った。今日香が目に涙を溜めて、こくんと頷いたから。
「それはYesということでいいんですよね?もう取り消し不可ですからね?じゃあ、行きましょう。電車じゃなくて、駐車場です。俺、この2年の間に免許取ったんです。先輩を迎えに来なきゃと思ってたから」
達樹はひたむきな目でそう言う。もう完敗だ。こんな風にされちゃったら何も言えない。今日香は、空港に来てくれた達樹の姿を目にしたときに、感じた喜びで自分の答えを知った。
「あ、ありがとう・・。じゃあ、どこか都内のホテルまで送ってくれる?まだ部屋は契約してないから」
そういう今日香に達樹は、今度はちょっと緊張した顔になり、一気に言った。
「いや、俺、まだ都内を自在に走るほど慣れてないから・・正直、問題なく行かれるのは自分の部屋までなんですよ。だから・・とりあえず目的地、俺の部屋でもいいですか?あ、俺のとこ、空いてる部屋ありますから、使ってもらっても全然OKなんですけどね」
今日香は赤い顔をしている達樹を黙ったまま見つめた。
「・・本当に?」
「本当に決まってるじゃないですか。そのために俺、間取りの広いマンションに引っ越しまでして・・あっ」
しまったというように達樹が口をつぐむ。彼は、この2年の間に引越しをして、免許を取って、着々と今日香が帰国してからの生活を想定して、準備してきたらしい。まだ付き合えるとも決まっていなかったのに。
なんだか順番が著しく違っている気がする・・。でも、不器用だけど一途な彼の想いだけは、今日香にも十分に伝わってきた。
「・・ね、私、もしかして、部屋探さなくていいのかな」
冗談めかしてそう言ってみると、達樹が目を見開いて赤くなっていた。
「え、いや、もちろん俺は・・でも、それはこれからで・・」
そんな彼を愛し気に見つめ、今日香は言う。
「うん。ありがと。じゃ、行こうか」
「はい」
今日香のふいうちにうろたえた達樹だったが、一呼吸置き、今日香のスーツケースを持ち、歩き出す。そして、隣にいる今日香の手を、空いている手で取り、包んだ。
「ああ、やっとだ。初めて先輩に触れた」
そしてにっこり笑う。・・可愛すぎる。そんな達樹に小声で言ってみる。
「先輩じゃなくていいよ、もう」
「!・・・今日香さん」
言った方も言われた方も真っ赤になって立ち尽くしている。今日の成田は早朝から青空。ドライブ日和の、気持ちのいい1日になりそうだ。