理解の深さ、後悔の重さ(1)
いよいよ来週末から夏休みということでクラス全体が浮き足立っている。だが、先週行った期末テストの答案の返却が始まっているので浮き足立って喜んでいられない者もいた。赤点の者には夏休み中である7月末までの補修が待っているからだ。返却された答案用紙を見て喜ぶ者、嘆く者などそれぞれの中、河合茜は全て返却された答案の結果を見て満足そうな顔をしていた。予想以上の出来栄えに嬉しさが隠せない、そんな顔をしている茜に近づくのは幼馴染の小泉陽太だ。いつも成績優秀な陽太に対して今回はかなりの手応えがあった茜は、今回こそいくつかの教科で陽太の成績を上回ったと思っていたのだが、実際はそうではない。やはり陽太は常に自分の上を行くようだ。だが悔しいというよりは凄いという気持ちの方が大きかった。
「さすがね陽ちゃん。まさか全部が90点以上とは思わなかったよ」
「今回は自分でも驚いてる。上出来すぎだよ」
おそらく本心なのだろう、茜は陽太の言葉と表情に嫌味を感じなかった。元々陽太はそういう性格をしていない。人当たりもよく、裏表もないのだ。それはずっと小さい頃から一緒にいる茜が一番良く知っている。何より陽太がどんな努力も惜しまない人物だということも。
「英語は自信あったのになぁ・・・まさか93点取って負けるなんて」
「2点差じゃん」
「むー・・・勝者の余裕か!」
そう言い、笑いあった。とりあえず成績に関してはいい夏休みが過ごせそうだと思う。あとはお互いに部活の大会でいい成績が残せるかどうかだ。
「でも成績が良かった勢いで大会に臨めるのはいいね」
「そうだね」
週末には茜の、来週末には陽太の大会が控えている。特に陽太は2位まで、つまり決勝まで残れば全国大会への出場が決まるのだ。
「明後日は応援に行くから」
「うん、頑張るね」
「あいつも引っ張ってってやるからな」
「・・・・別にいらないし、来ないと思うけどね」
無表情でそう言い、茜はさっさと帰る準備を整えていく。この後は部活なのだ。陽太の言った『あいつ』の性格を良く知るだけに、来るはずがないと分かっている。
「来て欲しいって素直に言えば、きっと来るさ」
「いらないって」
「素直になった方がいいと思うけどね」
陽太はそう言い残して席へと戻っていった。そんな陽太の背中を見つつため息をつく。
「素直に、ね」
ぽつりとそう呟くが、それが一番難しいことは理解出来ている。素直になれなかった、そのトラウマもあるし、何より『あいつ』に対して素直になどなれない。
「はぁ」
ひときわ大きなため息をつくと鞄を担ぎ、教室を出た。
*
大きく背伸びをし、それから鞄を机の上に置く。授業らしい授業もないために6時間目まであるとはいえ鞄の中は軽い。元々きちんと毎日教科書を持って帰らない性格もあってのことだ、気分はもう半分夏休みだった。今日も帰りにゲームセンターに寄ろうとぼんやりしていると不意に後ろから声を掛けられた。
「その様子だと、テストの点は良くなかった感じかな?」
体を逸らせて声のした方を見れば、そこにいるのは小柄な女子生徒だった。小学生かと思うほどの背丈だが、その胸の大きさは充分すぎるほど大人だった。
「いんや、悪くなかった。一応全部80点以上だったんで夏休みは自由に過ごせる」
「もしかして、そういうのを親と約束してたんだ?」
「オタク仲間と泊りでのDVD鑑賞イベントもあるからな」
元々鋭い目つきのその男子生徒はさらに目を細めてそう言った。普段からオタクを公言し、女子からキモいと言われているような連中とつるんでいることも多い。だがその小柄な女子生徒、瀬川香は知っている。オタクのイベントには1人で行くことを信条にしていること、そしてまた夏の大型イベントには自分たちと一緒に行くということを。そう、香もまたオタクだった。深夜アニメにド嵌りしていながらも周囲にはそれを隠しているいわば隠れオタクなのだ。そして目の前にいるこの男子生徒、坂巻夕矢は彼女の秘密を知る数少ない人物でもあった。なにしろ、隠れオタクだと香から夕矢に告白したほどなのだから。
「何のDVD見るの?」
帰る生徒や掃除に向かう生徒、それに部活に行く生徒で騒がしいこともあって小声ながら周囲を窺いつつ話題を振った香をさすがだと思う。
「今検討してるとこ」
「一挙に見るんだ?」
「ああ」
「・・・・・いいなぁ」
最後の一言はぽつりと呟いた感じだった。夕矢は小さく微笑むと香に近づくようにして立ちながら体は窓の方へと向ける。
「お前らともそういうのしてもいいんだろうけど、さすがに女を泊めるのも女の家に泊まるのも無理だ。特にオレの家は絶対無理だしな」
小声で独り言のようにそう言う夕矢とは反対方向を向いている香が頷いた。隣のクラスの茜とは親友だが、自分がオタクだとは話していない。何よりその茜の家と夕矢の家は隣同士だ。見つかればいろいろと問題になるのは間違いない。
「ちょっと、そこ!服装が乱れてる!」
突然教室に響き渡る声に夕矢が振り返れば、自分を睨みつつ大股でやって来る女子生徒が目に入った。やれやれという風にした香とは違い、夕矢はへらへらした顔をしたまま頭を掻いていた。
「シャツはズボンの中!ネクタイはきちんとしめる!」
周囲がまた始まったと思いながらそそくさと教室を後にする。夕矢の胸に人差し指を置きながら下から上へと視線を変え、夕矢と目が合ったところで頬が赤く染まった。それが見えているのは香ぐらいなもので、周囲に人はいなくなっていた。
「副委員長・・・もう帰りなんだし、勘弁してくれよ」
「ダメ」
「今日だけ、な?」
「しょ、しょうがないわね・・・今日だけ、だからね」
腕組みをしてそっぽを向く副委員長の姫季愛瑠はつんと澄ました顔をしつつも頬は赤いままだ。
「毎日毎日、今日だけ、じゃん」
香がぼそっとそう言うが、愛瑠は澄ました顔のまま香を見るだけで何も言わない。
「いつも悪いね、副委員長」
「仕事だから!」
素っ気無くそう言いつつも口元が緩んでいく。だがすぐにハッとなってそれを引き締めた。それを見た夕矢が小さく微笑み、自分の机の前に立つ。
「さて、と、帰るかな」
「私は部活行くね、じゃ」
香はそう言うと目で愛瑠に何かしらの合図を送ると愛瑠はその意図を察して軽く頷く。それを見て見ぬ振りをした夕矢は心でため息をつきつつ机の上の鞄に手をかけた。
「姫季はどうすんの?」
「きょ、今日は委員会もないし・・・もう帰るけど?」
「なら一緒に帰るか?」
「・・・・どうしてもっていうなら、いいけど」
「じゃ、帰ろうぜ」
「そうね」
心の中で『愛ちゃん超ハッピー』と絶叫するが、顔には微塵も出さない。澄ましてツンとしたまま早足で自分の鞄を手に持つとすぐに戻ってくる。
「んじゃ行こう」
「そうね」
嬉しさを根性で押し殺した愛瑠が愛想もない顔でそう言った。愛瑠のツンデレさ加減に脱帽しつつ、2人は並んで歩いて廊下を進む。毎日毎晩ラインでやり取りをする2人だが、学校ではほとんど口をきくことなどない。それは普段お堅く、そして真面目で風紀にもうるさいクラスの副委員長の愛瑠のせいだった。男子にもズバズバはっきりとものを言う愛瑠はクラスの女子からは人気もあり、信頼も厚い。そんな愛瑠が実は香同様隠れオタクだと知る者は夕矢と香しかいないのだ。それもあって普段から夕矢に絡むことは少ない。風紀に乱れきった夕矢の服装を正そうと注意するぐらいなものだった。徹底的にオタクという趣味を隠すため、そして夕矢に抱いている恋心を隠すためなのだが、ラインではオタクの話しかしない愛瑠のその文章が実に可愛らしく、節々にその気持ちが出ているために夕矢にはバレバレなのだが、夕矢はそれを楽しんでいることもあって気づかないふりをしている。学校での徹底した態度、普段のライン、そしてオタク全開時の愛瑠、それらを知っている夕矢と香にしてみれば愛瑠はいい玩具なのだから。校門を出て駅へと向かうゆるりとした坂を上る。そんな2人の距離感は微妙で、並んでいながらもどこか空間が見て取れた。
「あ、あのさ・・・」
前を向いたままそう言う愛瑠へと顔を向けるが、それでも愛瑠は前を向いたままだ。
「ちょ、ちょっと寄り道しない?」
前を見たまま早口でそう言う愛瑠を横目で見やる。
「いいけど、誰かに見られたらまずいんでないの?風紀にうるさいくせに、とかさ」
「大丈夫なお店、あるから。ついてきて」
誘ってくるだけにぬかりがないと思う夕矢が小さく微笑むが愛瑠は前を向いたままだった。やがて坂を上りきったところで左に曲がり、駅を右手に見つつ大手スーパーの方へと向かった。だがスーパーではなく、災害時に避難場所に指定されている大きな公園の方へと進路を変えた愛瑠が公園に並走する形である大きな幹線道路沿いを抜けて小さな商店街の前に来た。
「そこよ」
そう言い、向かった先は和菓子の店だった。1階が店舗になっていおり、2階が喫茶店になっている造りだ。なるほど、同じ学校の生徒が来そうにない場所だと思う夕矢が愛瑠に続いて店に入り、1階で2種類の和菓子とお茶を注文して2階へと上がる。オシャレな内装はとても和菓子のお店とは思えない。それでもどこか日本家屋を連想されるむき出しの柱がいい雰囲気をかもし出していた。愛瑠は窓側でなく壁側の奥に座り、その前に夕矢が座った。
「ここの和菓子は美味しいわよ。病み付きになるかもね」
相変わらず澄まし顔でそう言い、愛瑠は丁寧な手つきできな粉もちをフォークで切って一口食べる。
「おいひぃ!」
瞬時にとろけるような顔に変化し、最高に幸せだという風に頬に手を添えてますますとろけてみせた。
「愛ちゃん、超はっぴぃぃぃ」
とろけた口調でそう言い、もう一口食べていく。夕矢はそんな愛瑠を見て微笑みつつ、抹茶の饅頭を口に入れた。甘すぎない程よい味が口一杯に広がっていく。和菓子よりも洋菓子が好きな夕矢でさえかなり美味しいと思える味に驚きを隠せない。それを見た愛瑠もまた嬉しそうに微笑んだ。
「美味しいでしょ?」
「ああ、美味い。たしかに病みつきになるかも」
「でしょぉぉ!」
自慢げに胸を張る愛瑠に笑みを濃くし、それを見た愛瑠は顔を赤くして俯いた。
「で、なんか用があっての誘いじゃないの?」
「あ、うん・・・・実はね、昨日さ、かおりんと話しててさ」
途端にもじもじしつつ上目遣いで夕矢を見る愛瑠。学校での態度とまるで違うことに感心しつつ、夕矢は愛瑠の言葉の続きを待った。
「早めにカルフェスのブースの場所とかわかるのかなって」
「ああ、分かるよ。前売りの入場券付きガイドブックを買えば」
「買うことってできる?」
「オレはもう買った。今日帰ったらあと2つ注文しとくよ」
「愛ちゃん超・・・・・・・・・よ、よろしく」
いつもの台詞をぐっとこらえてツンと澄ます愛瑠に自然と笑みが漏れた。その夕矢の笑みを見た愛瑠は照れた顔を伏せてモジモジしだす。そんな愛瑠に少し萌えてしまった夕矢は抹茶の饅頭を平らげた。
「で、どうする?ガイドブックは今週中に来るだろうけど、7月最後の日曜日が決戦だからあと2週間ほどしかない。来週にでも対策会議するか?」
2種類目のみたらし団子に手を伸ばしていた愛瑠の手がピタリと止まった。そうしてまじまじと夕矢を見つめる。その瞳がキラキラ輝き出すのに時間はかからなかった。
「ゆ、夕くんの家に行っても、いいの?」
「え?いやぁ、オレの家はまずいんだよ。隣の家が茜、河合の家だし、見つかるとややこしいだろ?」
「じゃ、じゃぁ・・・・・私だけでも、いい?」
「あぁ、ま、いいっちゃいいけど、それじゃ瀬川がかわいそうだろ?」
「じゃぁ、対策会議じゃないときなら、いい?」
いやに食い下がる愛瑠に苦笑しつつ頷いた。夕矢にとっては別に何の支障もない。家に来てオタク談義をする、その程度の考えしかないからだ。だが愛瑠は違う。好きな人の部屋に行けるというのは至高の喜びに他ならない。だからこその食い下がりだったのだが。夕矢の部屋を見たい、一緒に過ごしたい、その考えが愛瑠を突き動かしているのだ。
「対策会議も、どうするかなぁ」
「かおりんと相談しようよ」
「まぁ、そりゃそうなんだが」
そこでふとあることが頭によぎった。
「夏休み最初の日曜日、予定ある?」
「来週の、ってこと?」
その言葉に頷く。終業式が金曜日で土曜日から夏休みに突入する。その日は陽太のテニスの県大会があるために用があるが、日曜日はフリーだ。それについこの間、茜がその日は従姉妹と買い物に行くと言っていたことを思い出したのだ。再度確認する必要があるが、その日なら2人を家に招いての会議が可能だ。さすがの女子の家に行くのは気が引けていただけに、夕矢はこれが最大のチャンスだと睨んだのだ。
「別に予定ないけど」
「じゃぁ、あとは瀬川だな」
そう言い、夕矢はスマホを取り出して香に向けてラインする。そんな様子を見つつみたらし団子を平らげた愛瑠がお茶をすすり、それからスマホをテーブルに置く夕矢を見つめた。その視線を受けつつ、夕矢は三色団子の串を手に持つとスマホをチラッと見やった。
「瀬川に連絡入れた。あと、ちょっと内偵も頼んだ」
「内偵?」
「下準備ってとこ」
にんまり笑う夕矢の顔を見て頬を染める。おかげで何の下準備か聞くことも忘れた愛瑠はもじもじしつつお茶をすすって心を落ち着かせるようにしてみせた。
「ま、結果は夜かもしんねーけどな」
「じゃ、夜、ラインくれる?」
「そうだな」
その言葉に愛瑠はニヤニヤしつつ湯飲みを置いた。もう愛瑠の中では夕矢と恋人同士に近い感覚になりつつある。毎晩寝るときに妄想しているその中では恋人同士はとっくに終わって今では新婚さんなのだ。
「内容的に濃いようなら電話するから」
その言葉を聞いた愛瑠の表情が変化した。興奮も最高潮であり、喜びを爆発させている。
「やったぁぁぁ!愛ちゃん超ハッピーぃぃぃぃ!」
例によって立ち上がり、さすがに狭い場所で回転こそしなかったもののそのガッツポーズには渾身の力が込められていた。初の電話の機会に悦に浸る中、恥ずかしさで身を縮める夕矢は周囲に愛想笑いを振りまくのが精一杯だった。