素直な言葉、理由のない気持ち(8)
昨日の横浜遠征が響いたのか、今日は1日ずっと眠かった。いや、気だるいというべきだ。昨夜は帰宅後、デジカメの写真や戦利品の整理などをして少し興奮していたせいか寝つきが悪かったせいだろう。少しぼうっとした意識のまま1日を過ごし、あとは部活だけとなった香だが席を立てない。ここでようやく自分の不調に気付いた。
「大丈夫なのか?」
不意にそう言われて伏せがちの顔を上げた。少し顔が赤いが、照れているわけではなさそうだ。午前中はそれなりに会話もしたが、午後からはそれもなかった。愛瑠はいつものごとく学校ではあまり絡んでこないものの、今の2人のやりとりを友達と会話しつつ気にしている様子だ。
「んー、多分ね」
その言葉が発せられるのと、夕矢が香の額に手を置くのは同時だった。
「熱あるな」
「そうかな?」
元気のないままそう言う香を無視して夕矢は教室を出た。向かった先は茜のクラスだ。ちょうど部活に行こうとする陽太と鉢合わせる。
「あ、どうした?茜か?」
「ああ、いるか?」
「おう」
言いながら親指で茜を指した。友達と何やら楽しそうに会話をしている姿が見える。
「部活、頑張れよ?」
「ああ」
夕矢はそのまま茜の所へと向かい、陽太はそんな夕矢を気にしつつ教室を出た。表情からしてそう込み入った話でもなさそうだと判断しての行動だ。繋ぎ役としてはやはりそこに気を遣う。
「茜」
「ん?あんたか、どうした?」
今朝もそうだったのだが、どこかよそよそしい。先日の告白のせいかと思うが、今はそんなことを気にしていられなかった。
「瀬川が熱だ・・・部活は休み」
「香が?大丈夫なの?」
「動けないほどじゃないから、送っていくよ」
「うん、そうしてあげて。とりあえず教室まで行く」
夕矢にそう言い、友達に別れを告げた後でカバンを持って教室を出た。香は帰り支度もせず、机に突っ伏していた。
「香?」
茜の呼びかけにゆっくりと顔を上げるものの、やはりそこに生気はない。
「大丈夫?」
「帰れるだけのパワーはあるから・・・コーチには言っといて」
「うん。夕矢に送ってもらって」
「悪いよ」
「断られたら断られたで、ストーキングするけどな」
その夕矢の言葉に茜は微笑み、香は苦笑した。
「それはヤだから、送ってもらうね」
力なく微笑み、そのまま茜も手伝って帰り支度を始めた。そうしてそのまま教室を出る。足取りはしっかりしており、とりあえずは大丈夫そうだ。
「かおりん?大丈夫なの?」
教室を出たところで駆け寄ってきた愛瑠に笑みを見せ、香は1つ頷いてみせた。
「帰る元気はあるから、大丈夫。夕矢に送ってもらけどね」
「そうして。夕くん、頼むわね?」
「ああ」
「かおりん、夜、気力があったらラインしてね?」
「わかった。あいるん、心配させてゴメンね?」
「心配するよ、友達だもん」
そう言い、微笑む香に心配そうな愛瑠を見つめる茜の心境はどこか複雑だった。あだ名で呼び合うほどの仲なのかと思うとどこか嫉妬すら覚える。けれど同じ趣味を持つ者同士、気がしれているのだろう。
「行くぞ」
「香、しっかりね」
「かおりん、お大事に」
茜と愛瑠にそう言われた香は微笑み、夕矢に付き添われて廊下を進んでいった。角を曲がったのを見て、それから2人が歩き出す。
「仲、いいんだ?」
茜から不意にそう言われ、愛瑠はついあだ名で呼んでいたことを思い出して動揺しつつ、それでもなんとかいつもの調子を見せた。
「友達だからね。そう、ただの友達だから!」
「あー、共通の趣味持ってるの、知ってるから」
「・・・・そう」
そういえばそうだったと、愛瑠は黙るしかなかった。そんな愛瑠に笑みを残して茜は教室に戻り、愛瑠もまた教室に入って部活のための準備を始めた。とはいえ、ほとんど活動らしい活動をしていない文芸部所属だったが、愛瑠は必ず週3日は部室に顔を出していた。いつかはオリジナルの小説を書きたい、そう思っての行動なのだった。
「かおりん、大丈夫かな?」
こういうところは素直な愛瑠であり、余計な詮索などしない。たとえ恋のライバルであっても香は親友であり、それに選ぶのは夕矢なのだと理解しているからだ。たとえ自分ではなく香を彼女に選んでも、嫉妬はすれど険悪にはならない自信がある。それに香を選んでも、そのままずっと付き合って結婚するなどといった夢を見ていないのが愛瑠だった。愛瑠の最終的な目標は夕矢との結婚であるため、チャンスは未来と同じでいくらでもある、そういう信条の持ち主だ。もちろん、そのまま夕矢をずっと好きでいるかどうかもわからない。だが、愛瑠の気持ちは夕矢にしかないのもまた事実だ。自分が隠す趣味もおおっぴらにし、見た目に反して優しいところに惹かれてしまった。しつこく注意する自分を邪険にせず、それでいて軽くあしらうこともしない。気が付けばいつも目で追っていた。ひょんなことからお近づきになったものの、その奇跡に感謝している。だから、同じ趣味を持つ友達になれただけで今は幸せだった。それに毎晩の妄想の中では夕矢と自分には幼稚園児になった子供までいるのだから。
*
足取りはしっかりしていた。だから夕矢は手を貸すことなく、ただ香のペースに合わせて歩いているのみだ。カバンを持とうと提案したが丁重に断られていた。歩くペースは遅く、夕矢はそんな香を気遣いつつ、それでもあまりそれを前に出さないようにしていた。
「優しいね」
歩きながら、前を向いたままそう呟く声は夕矢には届いていない。本当に小さな声だったからだ。そのまま会話もなくバス停に着くと、ベンチに腰かけた。夕矢も横に座れば身を預けるようにする香。
「ごめんね、少しだけ、このままで」
「バスが来るまで、ずっとでいいから」
「うん」
熱のせいか、素直になれている自分を自覚する。普段であれば恥ずかしくて出来ないだろう。
「重くない?」
「全然」
「そっか」
嬉しそうにそう言い、そのままもう少しだけ体を預けた。
「大丈夫?」
さすがに心配になったのか、目を閉じたままの香にそう問いかければ、香は頷くだけだった。小柄な香は華奢で、それでいていい匂いがした。それを意識したせいか、急に心臓の鼓動が激しさを増し始める。それこそ、香に聞こえるのではないかと思うほどに。何故こんなになってしまうのか、自分でもわからなかった。
「夕矢?」
「え?あ、なに?」
不意に名前を呼ばれ、いつものポーカーフェイスも起動せずに動揺ありありの返事をしてしまった。
「好きな人、いるの?」
「な、なんだよ、突然」
ただでさえドキドキしているのにこの質問だ、さらに鼓動が加速していく。
「いない」
「そうなんだ?」
目を閉じ、自分に体を預けている香の口元が優しく微笑んだのを見逃さない。それはどこかホッとしたような嬉しそうな笑みに見えた。
「そ、そういうお前は、どうなんだ?」
普段の夕矢にはない動揺、そしてその質問に香は少し笑みを変質させた。それはどこか悪戯な笑みだ。それもあって、夕矢は香から視線を逸らせた。すでに周囲は暗く、そして冷たい風がじっとしている2人に襲い掛かる。熱があるせいか、密着している部分だけが異様に温かい。
「いるよ」
「あ、そう・・・・そうなんだ・・・」
落ち込んだのは何故か、その反面喜んでいるのは何故か。ホッとしている自分がいる。高揚している自分がいる。その理由はもう、わかっていた。きっかけもわからない。理由もわからない。ただ一緒にいると楽で、楽しくて、そして嬉しくなるだけのこと。そうだ、自分は香に恋をしている。
「夕矢」
そっと名前を呼ばれ、そちらへと顔を向けた。赤い顔は熱のせいだろうか。そして何故か自分も赤くなっている自覚があった。そんな夕矢は吸い込まれそうになりながらもじっとその瞳を見つめた。
「好き」
香の瞳が夕矢を捉えたままそう告げた。熱のせいだろうと自分でも思う。こんなにあっさり、素直に、照れずに告白するなどありえないからだ。香にしても理由などなかった。好きになる理由も、今ここで告白する理由も。茜のことも、愛瑠のことも頭になかった。ただあるのは夕矢への素直な気持ち。気が付けば好きになっていた。だから告白をしたのだと、他人事のようにそう思う。
「俺も、好き、だと思う」
「思う?」
小さく微笑みながら小首を傾げる仕草が可愛かった。
「いや、好きだ」
自信はある。だからそう言い直した。香はくすくすと笑い、そのままぎゅっと夕矢に抱きつくようにしてみせる。だから夕矢もそっと優しく香を抱きしめた。こんなに華奢で柔らかいのかと思う。茜とはしょっちゅうじゃれあい、ベッドの上で関節技を極められてもいる。そんな茜にはない心地よさはきっと体つきの違いのせいだけではないのだろうと思った。そうして1分ほどで2人は離れた。他のバスを待つ人からの注目を浴びていたが気にもならなかった。
「あいるんじゃなくて私なんだ?」
「うん」
「茜じゃなくて私?」
「振られたし、ま、一応、振ったし」
その言葉に複雑な顔になる香に微笑みを返した。2年前に振られて、そしてそこで茜への想いは断ち切れている。今更振った理由を聞いたところで途切れた気持ちは戻らない。実際、戻る気配はなかったのだから。
「私でいいのかな?」
「告白しといてそれ?」
「だよね」
笑う香が車のライトに照らされた。どうやらバスが来たようだ。夕矢は香が立ち上がるのを補助しつつ、それでいて自然と肩を抱いた。
「もう・・・・熱、上がっちゃう」
「今日だけ我慢しろ」
「・・・こういうの、今日だけなんだ?」
「じゃなくって・・・・熱の話」
「あー、うん・・・そうだね」
「今日はラインとかいらないからな?」
「さみしいこと言うよね」
「風邪が治ったらいくらでもできるだろ?」
「うん。ちゅーもしようね」
「・・・・キャラが変わってんな」
「あいるんの影響」
「いいのか悪いのか、わかんねぇなぁ」
そう言って笑う夕矢につられて香も笑った。
「あいるんと茜からは私が言うね」
「2人で言おう、2人の問題だからな」
「大丈夫かな?」
「姫季はともかく、茜はなぁ・・・」
「大丈夫だと思うけど、心配だね?」
「まぁ、なるようになる、かな?」
言いながら一緒にバスに乗り、座席に座った。そのままさっき同様、香の頭が夕矢の方に乗せられる。それが嬉しくて夕矢はそっと香の手に自分の手を重ねた。
「熱いな」
「うん」
「明日は休め」
「お見舞いに来てくれるなら」
「行くよ」
「じゃぁ、休む」
「どういう理屈なんだか」
ため息をつく夕矢を見て微笑む香。初めて出来た彼氏にしてはいい男だと思えた。趣味もそうだが、色んな要因があって今に至っていることが奇跡のようだ。心を満たす嬉しさの影で、不安も確かに存在していた。愛瑠はともかく、茜のことだ。最悪、仲がこじれる可能性もある。それでも信じたい。親友だから。夕矢もまた同じことを心配していた。茜は幼馴染でお隣さん。そこに香が嫉妬しないはずもなく、かといって茜と距離を置くのもまたどうかと思うからだ。せっかく陽太が繋いでくれた今の関係だけは壊したくない。けれど、それでも壊れるような関係であれば自分は香を取る、その決意を新たに窓の外へと顔を向けた。夕闇が黒く、それをかき消すように人の造った明かりがきらめいていた。夕矢は目を閉じたままの香を見て、それからもう一度窓の方へと顔を向けるのだった。