わずかな差、大きな違い(7)
登校した茜と香は校門のところで立ち止まり、ぽかーんとした顔をしていた。校舎の屋上から2階まで垂れ下がっているのは『祝!小泉陽太君、硬式テニス個人全国優勝』の文字だ。陽太の優勝はすぐにラインで知らされており、茜も夕矢も手放しで喜んだほどだ。昨日まであった『祝!全国大会出場』からの変更に顔を見合わせ、小さく微笑みあう。陽太はもうすっかり有名人なようでスポーツ新聞にその名前が出るほどだった。今日の夕方には帰ってくるため、コーチである愛の計らいで今日の部活は午前中までだ。月曜日の朝だというのにいつものだるさもなく、今日は快適な気分だった。その気分のまま走ればタイムも好調で、この夏休みで確実にタイムを縮めている香は自分にさらなる自信を持ち始めていた。そんな矢先、急に雲行きが怪しくなってきた。どんよりしたグレーの雲が瞬く間に青い空を覆いつくしたのだ。そしてグレーの空が黒く変化してきた頃、空に閃光が走った。遅れてくる轟音とともに滝のような雨が降り注ぐ。せっかくの快適な気分を台無しにしたその雷と豪雨に悲鳴をあげつつ校舎に逃げ込むのは部活をしていた者全員だった。土砂降りの雨と雷鳴から逃げるために近くの校舎に逃げ込んだこともあって全員がバラバラだった。茜は香と穂乃歌、そして顧問でコーチの愛と同じ箇所に逃げ込んでいた。愛は簡単に外の様子を見て全員が避難したことを確認する。
「しかし驚きの変わりようね」
愛はそう言いながらため息をつく。Tシャツもびしょ濡れで下着が透けるほどだが、蒸し暑さのせいか寒くは無かった。髪もびしょ濡れになっているとはいえ、雷鳴と豪雨の中、部室まで走る勇気は4人にない。
「しかし、びっくりだよねぇ」
そう言いながら穂乃歌は濡れて透けている香の胸元へと視線を向けた。羨ましいほどのボリュームをもったそこは穂乃歌にとって憧れの存在でしかなかった。穂乃歌はそっと香の真後ろへと移動すると後ろからその胸を鷲掴みにしてみせた。
「ちょっ!穂乃歌!」
「なんともけしからん胸め!羨ましいんだよ!一体何人の男を虜にしてきた?ん?言ってみ?」
体操服の上から揉みしだくその手を振り払おうとするが、がっちり掴まれて離れない。
「茜、助けてよぉ」
「まぁ、天罰だね」
腕組みをして静観している茜にしてもその胸は羨ましさしかなかった。なので助ける気など毛頭ない。
「なんの天罰なわけ?」
「うるさい!こうして触らせた男子がいるんだろう?白状しろ!」
手つきがいやらしくなる中、香はふと先日のあの混雑した電車の中で夕矢に触れられたことを思い出す。途端に赤面してしまう香を見た茜の表情が驚きに変化した。
「い、いるの?そういう人がさ?」
「え?マジ?」
香の顔を見た茜の言葉に穂乃歌の動きが止まった。香はますます顔を赤くしたが、これ幸いとばかりに穂乃歌の腕を振り払って両手で腕をガードした。
「い、いないから!」
「動揺ありありじゃん」
腕組みをして目を細める穂乃歌と違い、茜は胸をドキドキさせながらじっと香を見ていた。香は夕矢を好きだと告白してきた。つまり香のこの反応からしても、そういう相手がいるのであれば夕矢しかいないと思う。その途端にドクンと胸が疼いた。もしかして、自分の知らないところで2人はもうそういう関係になっているのではないのか、そういう疑念に駆られてしまったからだ。そんな茜はくすくすと笑う声に我に返るとそっちへと顔を向けた。香も穂乃歌も同じようにしていた。
「高校生って感じだね。私も親友によくそれ、やられたし」
愛が懐かしそうにしながら微笑んだ。たしかに愛の胸も香に勝るとも劣らない大きさをしている。それに透けたTシャツから見える下着は意外と可愛いものだ。
「先生も?」
「うん。マッサージと称してね」
「なるほど、いい手だ」
ニヤリとする穂乃歌をきつい目で睨む香は絶対に穂乃歌からマッサージは受けないと心に誓った。
「でも、いいじゃないですか。胸が大きいから彼氏も喜んでるでしょうしね」
「んー・・・そうでもないけどね」
「え?もしかして貧乳好きな彼氏?」
「いやいや、そうじゃなくってさ。別に胸に執着してないって話」
「そんな男いんのかな?」
納得できない穂乃歌が腕組みをして愛を見つめるが、愛は涼しい顔を崩さない。
「そういえばコーチの彼氏ってどんな人なんですか?」
茜が素朴な疑問を口にする。以前に先輩からスマホで撮った写真を見せてもらったことがあると聞き、その先輩が言うにはイケメンでもなければごく普通な人という印象を受けたらしい。
「んー、普通だよ。顔も、性格も。でも、すごくまっすぐで、行動力はあるよ」
「先生ならイケメンな金持ちをゲットできただろうに」
「私は彼の中身を好きになったし、彼は私をいろんな意味で救ってくれた恩人だし、だから、彼じゃなきゃダメなの。ノロケでもなんでもない、これは本心だし、真実」
微笑むその表情は彼氏への愛情に満ちていた。その顔を見てはさすがの穂乃歌も何も言えない。茜はそんな愛を羨ましく思う。そんな風に自分も好きな人のことを他人に伝えたいと思う。だが、現状ではそれは不可能だ。そして香もまた愛の言葉に感銘を受けていた。本当の愛情に満ちている、そして相手を愛し、尊敬しているという感情が直に伝わっていたからだ。自分もそんな風になりたい、そう思った。そのためにはまず超えなくてはならない障害がある。そう思う香は何かを考え込んでいる茜を見て、それから雨脚が少し収まってきた空へと目をやるのだった。
*
香は茜に自分がオタクだということを告白する決意を固めていた。夏休み中に夕矢の家でアニメの鑑賞会をするためにはそれが一番だと感じたからだ。もちろん鑑賞会のことも含めて告げるつもりだったし、その際に愛瑠もまた仲間だと言うつもりだった。既に愛瑠の了解も得ているし、愛瑠もまた夕矢の家で鑑賞会をしたかったからだ。だが、あの日の雨のせいで夏風邪を引いてしまい、告白どころか愛瑠たちと買い物にも行けずに夏休みが終わってしまったのだった。夕矢は愛瑠とオタクの聖地に行ったり、近くのオタクの店に一発クジをしに行ったりしていた。その間、愛瑠は2度ほど香を見舞い、その際にはお土産を持ってきてくれたほどだ。結局、そのせいでタイミングを逃した香の告白は新学期になってもまだ果たせていない状態にある。愛瑠とは愛称では呼ばないものの、学校でもかなり仲が良くなっている。油断すれば本性を現そうとする愛瑠を止めたり、こそっと屋上で夕矢を入れた3人でオタク談義をすることも多かった。夏休みを挟んで大きな進展となった3人の関係はこれまでとは大きく違ってきている。そんな毎日の中、いよいよ来月半ばにある体育祭の種目が発表されて、それぞれのクラスでどの種目に誰が出るかが協議されていた。一番の目玉はクラス対抗男女別リレーだ。男女別々で走るとはいえ、選抜されたメンバーはどのクラスでも足が速いとされるいわば精鋭たちなのだ。陸上部など運動部の面々が目立ち、且つ人気を得る絶好の舞台でもあった。そのせいか、長距離選手なはずの香もまた選抜されており、女子に関しては他のクラスに引けを取らない面子が揃っていた。だが、男子は壊滅的といっていいだろう。運動部に所属している者もいるが、総じて足は速くない。4人を選ぶのも、最早クジで、ということになっていた。クジになれば不正が出来る夕矢にしてみれば、わざわざさらし者にならなくて済むと思い、ほくそ笑んだ。だが、用意されたクジは実に特殊であり、まるで夕矢対策が施されたようになっていた。おそらくその通りなのだろう、クジの説明を始めたのは何故か香だったからだ。
「クジには番号が振ってある。男子の人数分ね。で、こっちにある紙に4つの数字があります」
そう言って香が紙をチラつかせる。そこに書かれているのは縦に1から4の数字のみで、その横に書かれている数字は黒い紙で隠されていた。
「クジの番号がここに書かれている人は選抜、位置は走る順番ね」
不正を封じるためにその紙は愛瑠が所持していた。睨む愛瑠に近づくことも出来ず、男子は歯噛みしつつも選抜されないよう神に祈った。
「・・・・やられた」
つぶやいて香と愛瑠を見れば、ニヤリと悪質な笑みを浮かべている。これではどの番号が書かれているか、愛瑠の持つ紙を透視した上でクジを透視しなくてはならない。だが紙は女子の手にあって触ろうとすれば変態と不正の嫌疑を掛けられるのだ。苦々しい顔をするしかない夕矢は自分が持つ本当のクジ運に賭けた。
「アンカーは避けないと」
「学年3位までは圧倒的速さだしな」
「前田、橘、そして小泉・・・・こいつらに抜かれて引き立て役はイヤだ」
あちこちでそういう声が上がる。たしかに陽太は足が速い。学年3位とはいえ、上の2人とはほんのわずかな差でしかないのだから。そして出席番号順にクジを引いていく。まずこのリレーの選手を決めてから他の競技の選抜に移るのだ。そして夕矢の番が来た。蓋のない箱の中にある紙を1つ摘み、それを持ち上げた。そこに書かれた数字が紙にないことを祈って。そうして全員がクジを引き、いよいよ選抜選手が発表となった。愛瑠と風紀委員が紙を持ち、香が黒い紙を引き剥がす。喜ぶ声、悲鳴に似た声が巻き起こる中、夕矢はただ呆然としつつ目を点にして固まっていた。手にした自分のクジをぷるぷるさせて。
「いやぁ、坂巻、頑張れよ」
「お前なら小泉に勝てる!幼馴染なんだし、毒でも盛ってやれ」
「ここでビッグ3に勝ったらモテモテだなぁ」
心にもないお世辞を言うクラスメイトは皆選ばれなかった面々であり、表情に安堵が見て取れる。逆に選ばれた4人は表情を固くしながらもアンカーでない3人はまだ余裕があったものの、アンカーとなった夕矢は死にそうな顔を香と愛瑠に向けた。
「ま、頑張って小泉を倒すのね」
「・・・・まだ陽太がそうと決まったわけじぇねーし」
「あれ?聞いてない?お隣は女子のアンカーが茜で男子が小泉だよ?」
「・・・・・クソ、もっと普通のクジにしろよ!」
「それは無理。理由はあなたが一番ご存知でしょう?」
耳元でそう囁く香の顔は魔女のようだ。愛瑠もまたニヤニヤしつつ夕矢を見つめている。
「応援してるからね、頑張りなさい!」
「・・・・どうも」
愛瑠の激励にも愛想のない返事をし、そのままフラフラと自分の席に戻っていった夕矢は他の競技の選抜を見つつ、自分のリレーの面子を見ていろいろ考える。まず最下位にはならないだろうが真ん中あたりが妥当だろう。そうなれば別に陽太たちと張り合う必要などないのだ。気楽に走れる可能性の方が高いとテンションを上げ、そんな夕矢を見つめる香は自分がアンカーでないことにホッとしつつも夕矢と陽太の対決が見たいと思うのだった。
*
カチャカチャとキーボードを叩いていながらも意識はベッドの方に向いていた。おかげで検索ワードを何度も打ち間違い、その度にイライラしてしまう。とにかく今はこのイライラの元凶をなんとかしようと椅子ごとベッドの方に向けば、うつぶせに寝転んで両手に顎を乗せた茜が交互に足をバタつかせつつニヤニヤ顔をしているのが見えた。普通なら萌えるポーズなのだろうが夕矢は茜にそんなものを感じない。だから大きなため息をついて少し睨んでみせる。
「なんで変態みたいにニヤニヤしてんだ?」
「あんた、リレーのアンカーなんだって?」
「瀬川から聞いたのか?そうだよ」
「んふふー・・・夕矢と陽ちゃんの対決かぁ、こりゃ楽しみだ」
「悪いけど、他の面子見た限りじゃそうなる可能性はないけどな」
ため息混じりにそう言ったときだった。
「じゃぁ、俺との差がない状態なら本気で対決するか?」
茜の足元に座って漫画を読んでいる陽太へと目をやった夕矢は目を細めて睨むようにしてみせる。ついさっき2人で押しかけるようにやってきた2人の目的はリレーの話らしい。今日の部活で香にその話を聞き、帰りが偶然一緒になった陽太もまたそれを聞いたのだ。夕矢と陽太が同じ種目、それも同じアンカーになったのは小学4年生以来のことだ。
「お前と本気で走って勝てるんならそうするよ。でもな、そんなのやるだけ無駄」
そう言い、パソコンへと体を向けた。テニス部のエースで全国を制した男と何が悲しくて張り合う必要があるのか。
「それに本気で走って何のメリットがあんの?」
「女子にモテる、とか?」
「興味ねーし」
「瀬川が惚れ直すとか?」
その陽太の言葉にピクリと反応したのが茜だ。いや、陽太としては茜の反応を見るためであり、また夕矢の回答を聞くための言葉だったが。
「惚れ直すって何だよ・・・とにかく、ヤだね」
視線を落とす茜と違って夕矢は素っ気無くそう言い放つ。それを見た陽太はぽんと茜の頭に手を乗せて夕矢のそばに移動した。
「じゃ、まぁ、当日を、夕矢と戦えるのを楽しみにしてるってことで、な」
「それじゃ、ダメだよ・・・」
陽太の言葉を遮った茜が2人を睨むようにして見やる。その気迫に押される陽太、押し返す夕矢。
「ダメってなんだよ?」
「一度くらい、本気になれってこと!」
「本気になって何のメリットあんの?陽太と本気で走って、勝ったとしてさぁ」
いつも本気を出さない夕矢を嘆いていた茜を良く知っている陽太はじっと茜を見つめた。いい加減でいながら成績も程よく、運動神経もいい。だからこそ茜は本気になった夕矢を見たいのだ。いつからこんなにいい加減になってしまったのだろう。少なくとも小学生の高学年ぐらいまではまだ好きなことには一生懸命だったのに。
「じゃぁ、もしあんたが陽ちゃんに勝てたら、一刻堂のたこ焼き奢ってあげる!しかもソースと出汁の2種類を2人前ずつ!」
呆れた顔をしていた夕矢の顔つきが一瞬で変化する。腕組みをして悩んでいるほどに。それを見た陽太は呆れてしまった。たこ焼きで心を動かされるとはいかにも夕矢らしいが、悩むほどのものかと。
「・・・・でもさ、差がありありなら勝負にもなんねーじゃん?」
やはり真剣に考えていたのかと苦笑する陽太だが、茜もまた腕組みをして考え込んだ。たこ焼きで心動かされている夕矢には気づいていない。この程度で本気を出すなら、テストの度にたこ焼きをエサにすればいいのだから楽なものだろう。だが陽太としても今の夕矢との差を知っておきたい。夕矢は幼馴染で親友で、そしてライバルなのだから。何よりその身体能力の高さは陽太が一番良く知っている。中学の時の体育祭や球技大会などでは部活をしている者たちに引けを取らない動きを見せていたほどだ。それも本気でない状態で。
「もし前走者に差がないまま来たとしたら、1メートルの範囲内でなら本気を出す、ってのはどうだい?」
陽太の提案に茜の表情が明るくなるが、夕矢は腕組みをして考え込む。どっちがリードしているにしても、その差が1メートルでは近い気がする。それに自分のクラスがリードして来るとは思えない。なら、少しでも遠いほうが楽が出来ると考えた。
「2メートルで手を打とう」
「2メートルは遠すぎる。1メートルだ」
「・・・・まぁ、1メートル程度の差で接戦になる可能性の方が低いな・・・・よし、それでいいぞ」
了承した夕矢に頷く陽太だが、確かに自分のクラスのメンバーを考えれば夕矢のクラスと1メートルの差という接戦のままアンカーまで来ることはまずないと思えた。
「じゃ、そういうことで」
そう言い、陽太は茜を見やった。満足そうに頷きつつも全ては前走者たちにかかっている。ならば、この賭けの成立は難しいだろう。それでも一縷の望みを託し、茜は2人を見やった。本気になった夕矢、そしてそれを迎える陽太を見てみたい。ただその好奇心しかない茜だった。