わずかな差、大きな違い(2)
着替えを済ませ、自分のサンダルが波に浸かるのを見つめている。夕焼け空になったせいか、海の色もそれを映したようなものに変化を見せつつキラキラと輝いていた。夕矢はジーパンにクロックスという格好のせいか、波打ち際に立つ茜から少し離れた場所にいた。太陽が沈むにはまだ随分と余裕がある位置とはいえ、もう午後5時になろうという時間だった。バスで40分ほど揺られれば帰れるために時間はそう気にならないが、茜は明日も部活だ。昼からはよく泳いで遊んだために疲れもあるだろう。だが夕矢は茜の好きにさせていた。夕日に染まる海を見つめる茜の姿は見ていて飽きない。だからか、夕矢の表情は優しさに満ち溢れている。そんな夕矢を振り返った茜が微笑んで、それからゆっくりと近づいてくる。
「もういいのか?」
「うん。しっかり目に焼き付けた」
「絵日記の宿題はバッチリそうだな」
「だね」
2人はそう言って微笑みあう。そうして海に背を向けて歩き出した。手も握らず、会話もない。これが今の2人の距離なのだと茜は思う。そうしたのは自分だ。だから茜は決心した。その決意を夕日に誓い、夕矢と並んで歩いている。いつかは恋人同士として並んで歩きたい、その願望が叶うことはないだろう。そう、今のままでは。今はまだ、香と同じステージには立っていない。そもそもそういう資格すらないのだ。だからまずはその資格を得ることから始めよう。いや、その資格を与えるのは夕矢だ。つまりステージに上がる資格をくれる夕矢に2年前に振った本当の理由を話さなければならない。だが、それは恐怖だ。せっかく陽太のおかげでここまでの関係に修復できたのに、資格を得るどころか幼馴染というポジションも失ってしまうかもしれない、それが何より怖かった。夕矢が自分以外の女性を選び、付き合って結婚してもいいと思っている。けれど、それは自分の気持ちを全部ぶつけた後だ。最低だと罵られようとも、無視されることになろうとも、そうしなければ前には進めない、そう思う茜は歩きながら夕日を見つめるのだった。
*
「で、夕日を見ながら決意を新たにしたわけだ?」
椅子の背もたれを前にした状態で座る陽太がため息混じりにそう言葉を発した。陽太は背もたれに両手を乗せ、その上に顎を乗せている。やや呆れた感じがするのは何故だろうか。そんな陽太は自分のベッドの上で正座をしている茜を見つめていた。
「陽ちゃんが言ったように、最近、香と仲いいし・・・それに、香に言われたの・・・・夕矢を好きだって」
「そうか」
そんな気はしていた。最近の急接近具合や同じ趣味を共有していることからして充分にありえることだと思ったからである。それに見かけは怖いが夕矢は優しい。陽太は顎を離し、少しため息のような息を吐いてじっと自分を見つめる茜を見つめた。
「言っとくけど、真実を話しても瀬川たちと同じステージに立てるわけじゃない。立つ資格を失うか、ただ単に傍観者の資格を得るか、程度だよ」
「それでも、やるだけはやりたい・・・・・・って、瀬川たち?たちって?」
思わず口にした言葉に反応した茜を見て苦笑する。よくぞまあ、細かい部分を聞いていたなと感心させられたからだ。
「じゃ、はっきり言うからね。夕矢は、多分、茜が思っている以上によくモテる。ただ、あいつが人を寄せ付けない雰囲気を持っているせいでそれが出てこないだけ」
茜はその言葉に表情を曇らせた。中学校時代も、そして今もそんな話を聞いたのは香が初めてだ。オタク丸出しにした趣味、そしてあの風貌。そのギャップの激しさに引いている者はいたが、逆はないだろうと思う。
「それに、今の茜は夕矢の中では候補にすら上がっていない」
「それはわかってる。だから、だからさ・・・・」
「瀬川や姫季に勝ってる部分は幼馴染っていうポジションだけ」
「それは・・・・・ん?姫季?あの姫季さんが?嘘でしょ?」
隣のクラスだが体育などは一緒になるために愛瑠のことはよく知っている。風紀にうるさく、真面目でツンとしたその顔を思い出し、絶対に仲良くなれないタイプの人間だと改めて思う。そんな真面目一辺倒な愛瑠が夕矢を好きになるはずがない、そう思えた。
「姫季さんはないよ」
「残念だがあるし、はっきり言って茜よりも夕矢に近い位置にいる。恋人、彼女というポジションにね」
「・・・・・マジでぇ?」
ヘコみ気味にそう呟き、それでも疑いの目を向ける。仕方なく、陽太は茜にとっては酷な話をしようと決めた。現実を受け止めなければこの2人とは対等には戦えないだろう。とはいってもその資格を与えるのは夕矢なのだが。
「今の茜は瀬川や姫季に大きく水をあけられている。さっきも言ったように勝っているのは幼馴染というポジションだけ。瀬川は小柄で胸もあるし、何より自分に素直だ」
その言葉にがっくりと頭を垂らして両手で胸をさわる。自分でもイヤになるぐらいぺったんこだとは思うが、それだけで女性の価値が決まるものでもない。しかし香が素直かどうかはいささか疑問だ。
「夕矢が一度振られた茜にはない気持ちを瀬川に抱いてもしょうがない。いいか?茜はあの告白で今のポジションすら失うところだったんだぞ?」
「う・・・・おっしゃるとおりです」
告白をされ、断った。つまらないことが原因で夕矢の気持ちを踏みにじり、そして自分の心も大きく傷つけた。そんな2人の間を再び繋げたのはこの陽太だ。陽太がいなければ今でも険悪なままだったのは確かだろう。
「そして姫季もまた夕矢に近い位置にいる」
「これがわかんないんだよね・・・なんであの子が?」
「理由は言えないが確かな情報だ」
「どこの情報?」
「それは口が裂けても言えない。とにかく、この2人は夕矢に告白する権利を持っている。茜はにはそれがない、それは曲げようがない事実だよね?」
「・・・・・はい」
「俺は真実を告げることはオススメしない。今のままのポジションで、それでいてもう一度夕矢に自分を好きにさせるほうがいいと思う。可能性はものすごく低いけどさ」
「でも・・・」
「2年前で全ては壊れたんだ。夕矢の気持ちも、茜の気持ちもね」
そうはっきり言われては言葉も出ない。確かにあの日、2人の恋は終わったのだ、始まってもいないのに。
「もう、夕矢は茜をただの幼馴染としか思ってないんだよ。そこがあの2人との大きな違いだ」
「うん」
「瀬川と付き合おうが姫季と付き合おうが、それに対して茜が何かを言う権利もなければ資格もないんだ。出来るのは嫉妬だけ、しかも表に出せない嫉妬だよ」
「う・・・・」
目に涙をいっぱいに溜め、うるうるとした表情になる。陽太は大きくため息をつくと椅子を元に戻して立ち上がった。そこまで夕矢を好きならつまらないプライドで振るなと言いたい。
「俺もお前に振られて、まぁ、そん時に真実を知って今に至っている。俺も今の茜にそういう気持ちはないよ」
「それは、わかってる」
「でもね、もし茜と夕矢との関係が完全に壊れても、俺は茜の幼馴染だし、夕矢とも幼馴染だ」
「うん」
ベッドに腰掛ける陽太はうつむく茜の頭にそっと手を乗せた。茜は一瞬ビクッとなったが、それでもそのままでじっとしていた。
「真実を告げても同じステージには立てないだろう。むしろ退場になる。その覚悟で挑むなら挑めばいいよ」
「うん」
さっきまでとは違い、言葉に力があった。茜は夕矢に全てを打ち明ける覚悟を決めたのだろう、そう思った。けれど、これで夕矢と茜の関係が完全に終わる可能性が大きくなったことはどこか悩ましい。かといって今の陽太にできることはもうないのだ。
「ところで、陽ちゃんは飯島先輩とどうなってるの?」
さっきまでの落ち込んだ顔と声はどこへやら、ガバッと勢い良く顔を上げた茜の頭に乗せていた手を引っ込める。もう呆れる以外の言葉が出てこない陽太はあからさまなため息をついてベッドから立ち上がった。
「明日にでも結婚します」
「・・・・・・・意地悪」
明らかに適当な返事をした陽太に不貞腐れる茜。本心で語りあえる上にこういった相談も出来るこの2人もまたただの幼馴染以上の関係にはなれないのだった。
*
「で、お前はいつ帰るんだ?」
床に座って漫画を読んでいた夕矢が呆れた口調でそう言った。言われた本人はベッドの上に寝転がったまま漫画を見続けており、返事をする気はないらしい。夕矢はため息をついて漫画を棚の中にしまった。それをチラッと見ていたベッドの上の茜が漫画をめくりながら少し体勢を変える。
「今日は泊まっていこうかなぁってね」
「帰れよ」
「いいじゃん。まだ漫画も途中だし」
「貸してやるから帰れ」
「ここで読みたいの」
「・・・・・ならお前は床で寝ろよな」
素っ気無くそう言った瞬間、茜が心の中でガッツポーズを取る。これで今晩、あの話が出来ると思ったのだ。だがそれを考えると途端に動悸が激しくなる。結果次第ではもうここでこうやって漫画を読むこともできなくなるからだ。それでも、夕矢と恋人同士になれるわずかな確率があるならそれに賭けたい。ずっと抱えてきたこの想いは本物なのだから。と、そこで突然夕矢のスマホがラインの受信を告げる。ベッドの上に置いていたため、夕矢がそれを取る前に表示されたその名前を見た茜が驚いた顔をしてみせた。同時にさっきまでとは違う動悸が襲ってくる。夕矢は態度に変化を見せずに携帯をいじり、ラインの返事を打ち込んでいるようだ。
「香と・・・・してんだ?」
声が震えないように我慢してそう言うのがやっとだった。
「ああ。例の弟の件からな」
いつもの夕矢の態度にどこか安心するものの、香からはそういうことは聞かされていない。それもショックだが、別に報告されるべきことでもないとも思う。夕矢がスマホを机に置き、パソコンを立ち上げるのを見た茜は軽く深呼吸をしてからベッドの縁に腰掛けた。
「香、なんだって?」
「明日会えないかってさ。なんかいろいろあるみたいだな」
「そ、そうなんだ・・・で、いろいろって?」
「俺に来た相談をほいほい他人に言えるかっての」
「そ、そっか・・・そうだよね」
珍しく大人しく引き下がる茜にどこか違和感を覚える。香が自分の親友だと思っていただけにショックだったのかと思うが、これはこれで香との約束があるために言えないことだ。
「あ、やっぱ私、帰るね・・・見たいテレビあったんだ」
「そっか。漫画は貸してやるよ」
そういう夕矢に頷き、紙袋に漫画を入れて部屋を出た。その様子に何かを感じる夕矢だが、何かを言うつもりもない。やはり香の趣味のことを茜に黙っているのはどうかと思う夕矢は明日にでも香にそのことを告げようと考えていた。茜はオタクに対して偏見を持つ人間ではない。だからこそ、そういう面も含めて香とは親友でいて欲しいと思うのだ。
「瀬川も、びびりすぎだよな」
そう呟くが、気持ちはわかる。世の中は偏見に満ち溢れているのだから。