理解の深さ、後悔の重さ(9)
家に着いた夕矢はまずシャワーを浴びて汗を流した。暑さと熱気とで全身が汗まみれであり、少しでも早くすっきりしたかったからだ。夕食は3人で済ませており、後はもう寝るだけの状態だった。夕矢は買っておいたお茶のペットボトルを取り出しにキッチンへと向かい、その後リビングに顔を出した。そこにはソファに座ってお笑い番組を見ている明日那の姿があるだけだった。
「父さんと母さんは?」
「父さんはもう寝るって。母さんはコンビニに行った」
テレビを見て笑いながらそう言う明日那に苦笑し、自分の部屋に戻りかけた足を止めた。
「そういやさ、同じ読者モデルで姫季愛瑠って知ってる?」
その言葉に目だけを夕矢に向け、軽く頷く。
「愛ちゃんね、知ってる。3回ぐらいしか一緒したことないけど。クールで可愛いよね?ってか同級生?」
愛瑠がクールという言葉に思わず噴き出しそうになるがグッと堪え、夕矢は頷いた。
「そっか。年同じだもんね」
「同じクラスなんだ」
「へぇ、そうなんだ?愛ちゃん可愛いし、付き合ったら?っても、キモオタのお兄ちゃんじゃ振られるだろうけどねぇ」
鼻で笑う明日那はテレビに集中するようにソファに寝転がった。たいして面白くもないギャグに大笑いしている妹を鼻で笑う兄。愛瑠のどこがクールなのか問い詰めたいし、愛瑠もまたお前の言うキモオタだと大声で言いたい気持ちだ。だがそれを我慢してリビングを出る。そうして自分の部屋に戻ると今日の戦利品を床に並べた。満足げな表情をし、今度はデジカメの写真を確認していく。ブログなどはしていないが、この映像を見ているとそういうのも悪くないと思う。だがめんどくさいとこは嫌いな夕矢はそう思うだけで実行には移さない。たくさん撮った写真の中で3人で写した会場前の写真を表示させて手を止めた。
「まさかこの3人でこんな写真撮るなんてな」
茜の親友である香はどこか世の中を冷めた目で見ている風な女だと思っていた。そんな香もオタクであり、今日のカルフェスで大暴れしていたことが思い出される。そして風紀にうるさく、いつもツンツンしている愛瑠がああまで壊れたキャラだとは思わなかった。重度のオタクであり、また、やかましい女だと知れたことはいいことなのだと思う。そんな風に考えているとスマホがラインの受信を告げた。夕矢はスマホを手に取って表示された人物の名前を見つつベッドに寝転がった。差出人は香であり、今日のお礼と感想、そして戦利品に関する喜びがびっしりと書き込まれていた。ちょうどそれを読み終えたとき、追加でもう一通やってくる。それは今日とこの間で夕矢がクジでゲットしたフィギュアの写真だった。まだ箱の中に収まったままだがそれに関するお礼も添えられている。自然と笑みが浮かぶ夕矢が返事を送り、そして自分の能力で誰かが喜んでくれたことの嬉しさを噛み締めていた。そうしていると今度は愛瑠からラインが届く。こちらも今日のお礼と感想、そして戦利品への愛がびっしりと書き込まれていたために、こちらにも返事を送る。今頃戦利品を手にハッピーと叫びながらくるくる回っているのだろうと想像できる夕矢の表情は緩みっぱなしだった。この2人のどちらかと付き合えばきっと楽しいのだろうと思う。今はまだ恋愛感情などないが、一緒にいて楽しいと思える存在に間違いはなかった。
「自然の流れが一番だな」
このまま3人で遊びに行くうちでどちらかを好きになればそれでいい。ただ、そうなって3人の関係がギクシャクするのは避けたいとも思う。理想は振られても尚幼馴染のポジションを崩さなかった陽太や茜との関係だ。
「小柄で巨乳な瀬川か、ややこしいけど愛嬌のある姫季か・・・か」
そう考える夕矢の頭の中に茜はいない。夕矢にとって茜は振られた相手であり、もう恋愛対象ではないのだ。気持ちの整理はとっくにつけている。だからこそ、恋愛相手の選択肢に茜はいないのだった。
*
カルフェスの翌日、疲れの残る香は部活を休んだ。そんな香も火曜日には復活して元気にトラックを走っている。明日は休みであり、茜は夕矢と海に行くことになっている。今日も1日汗を掻き、練習を終えた女子陸上部の面々が部室で着替えをしていた。あれほど汗を掻いたのにも関わらず、男子と違って部室内が臭くないのが不思議なほどだ。ロッカーが隣同士の茜が制服に着替えて髪を整える中、香が下着姿で脇にスプレーを振りかけていた。今までにはないその行動に茜が驚き、声をかける。
「へぇ。香がそんなのするなんて」
「身だしなみ、だね」
「でも今までそんなのしなかったじゃん」
「やっぱバスとか気になるし、それに帰り道誰に遭うかわかんないし」
「それもそうね」
そういう面では男子に近い考えを持つ茜にはそんな発想はない。気にせず家に帰ってシャワーを浴びる、それで充分だった。他の女子はそういうのを気にしているが、少なくとも自分と香はそんなことを考える人間ではなかったはずだ。
「香にも好きな人が出来たんじゃないの?」
着替えを終えた穂乃歌の言葉に澄ました顔をする香だが、何故か内心はドキドキしている。それでもポーカーフェイスを貫いたのは隣にいる茜の存在があったからだ。
「え?香、そうなの?」
「さぁ、どうでしょうか」
いつもように澄ましてそう言い、制服を着た。穂乃歌も茜もその態度にそれはないと言い合い、笑っている。そうして着替えた茜と香、穂乃歌が部室を出て校門をくぐる。そこで穂乃歌は寄り道するからと2人に手を振って走って行ってしまった。噂にすぎないが、穂乃歌には大学生の彼氏がいるとかいないとか。穂乃歌は否定したが、目撃した人は多いのだ。そんな穂乃歌の後ろ姿を見つつ、茜は腰に手をやって微笑んだ。
「噂が本当なら、ちょっと羨ましいかな」
「だね」
そう言い、香が歩き出したために茜も横に並んで歩き出す。暗くなってきたとはいえ、風は熱く、また今日も熱帯夜になるだろうという空気を運んできていた。
「明日の休みだけど、どっか行く?」
香がそう聞くが、茜はぽりぽりとあごを人差し指で掻くようにする。
「あー、明日は予定あり、なんだ」
「そうなの?どこ行くの?」
「夕矢と2人で海へね」
そう言いながら恥ずかしそうにしたのはどういう意味か。香は足を止め、それを見た茜があわてて立ち止まる。香は顔を伏せ、その場から動こうとしない。
「どうしたの?気分悪い、とか?」
心配する茜の声すら苛立ちにしかならない。何故だろう、その答えは、今、はっきりと分かった。
「気分、悪いよ」
「え?どっかで休む?」
「そうじゃないよ・・・・・」
香は顔を上げようとしない。口調がきつくなる中、茜は困った顔をするしかなかった。香はぎゅっと両手を拳にして握り締める。
「茜はさぁ、坂巻のこと、ただの幼馴染としか思ってないよね?」
何故そんなことを聞くのか、茜はそう思いながらも頷いて見せた。
「じゃぁ、なんで2人で?」
「え?だって幼馴染だし、海に行きたいから・・・」
「私とか、穂乃歌でもよかったわけじゃん?」
その言葉に夕矢ではなく、自分を誘って欲しかったという風に取った茜が困った顔をする。それを見た香の苛立ちがまた1つ増えた。
「あー、そうだね・・・ゴメン。じゃぁ、一緒に・・・」
「そうじゃなくってぇ!」
言葉を遮るようにして大声を出した香に驚き、茜はどうしていいかわからなくなってしまった。高校に入ってすぐに出来た友達であり、同じ部活で意気投合して親友になった。そんな親友が見せる初めての態度に戸惑うしかなかった。
「本当は・・・・坂巻のこと、好きなんでしょ?」
「え?ち、違うって、私はただの幼馴染だから」
「そうだよね?彼を振ったんでしょ?」
「なんで・・・それ・・・・」
何故、香がその事実を知っているのか。ふと脳裏によぎる仲良く話をしている夕矢と香の姿。2人はそんなことまで話すほど仲がいいのだろうか。
「なのに、なんで2人で?」
「・・・・・だから、それは・・・・・」
そこで香が顔を上げる。目に涙を溜め、困った風な顔をして。茜はその時、理解した。その涙の意味を、その表情の意味を。
「私ね・・・・・坂巻を、夕矢を・・・好き、みたい」
頬を伝う涙の意味を知り、その言葉を聞いた茜の思考が停止した。
「気づいちゃったんだ・・・好きだって・・・・・茜、ゴメンねぇ」
ぽろぽろと涙を流す香をそっと抱きしめることしか出来ない。茜は香の告白を聞きながら、かつて陽太に言われた言葉を思い出していた。後悔してもしきれない、そんな自分を押し殺して香を抱きしめる。
「あ、謝らないでよ・・・私は、あいつのこと、好きじゃないから」
「うん・・・・ゴメン・・・・我侭言って・・・ごめんねぇ・・・・」
香にしてみれば茜は振っておきながらも夕矢のことが好きだと思っていた。時折見せる夕矢への切ない表情を見ていたからだ。夕矢から茜に振られたと聞かされたとき、何か理由があるのではないかと思ったほどに。だが、もうそんなことはどうでもよかった。自分は夕矢を好きだ、誰にも渡したくないと思う。だから今は茜の言葉を信じていこうと思う。つまり、目下のライバルは友達となり、オタク仲間にもなった愛瑠だけだ。だから愛瑠には正直になろうと思う。それで友達関係が崩れたとしても、それは仕方のないことだと思う。けれど、愛瑠ならばライバルになっても友達でいてくれる、そんな気がしていた。だが、茜とライバルになるのなら、友達には戻れそうにない。茜は夕矢に一番近い位置にいるのだから。
「帰ろう」
涙を拭いた香が微笑み、そう言った。だから茜は頷き、笑みを返す。2人は親友だ、その関係は壊したくはない。2人は言葉もなく坂を上がっていく。澄み切った青い空が紺色に変化していく中、坂を上りきっても会話はなかった。そんな2人が駅の前に到着する。
「明日・・・・」
「え?」
「明日、楽しんできて。私、そこまでこだわってないから。でも、茜には頼らないよ。自分でどうにかする」
香は笑っていた。それが本心だと思える笑顔だった。だから茜も頷いた。
「わかった。協力はしない、でも相談は受け付けるから。1人でどうしようもなくなったら、相談して」
「うん、ありがと」
泣いたことですっきりしたのか、香はいつもの香に戻っていた。手を振り、そこで別れる。香は空を見つつバス停へ向かって歩いた。自分は夕矢が好きだ、その想いをまっすぐに受け止めながら。
「・・・・・・ホント、バカだなぁ、私」
今度は茜が顔を伏せ、駅の柱にもたれかかった。目から零れ落ちるその涙はさっき見た香の涙とは違うものだ。香のそれは抑えきれない愛情が溢れたもの、対する自分のそれは後悔の塊だ。茜は顔を伏せて声を殺して泣く。夕矢への後悔を背負って流すその涙は2年ぶりのものなのだった。