理解の深さ、後悔の重さ(3)
午前中だというのに気温は既に30度近かった。そんな中で3千メートルを走る香の顔にはかなりの疲労が見て取れる。それでもタイムは練習の時よりも伸び、自己最高記録を樹立したほどだ。大会的には平凡なタイムで入賞すらできなかったとはいえ、中学の頃とは格段に違うその記録に満足できていた。練習を積めばもっとタイムは伸びる、それは香の中で大きな自信へと変化していた。ねぎらう仲間やコーチの言葉に思わず嬉し涙がこぼれる。親友の頑張りを見た茜はさらに気合が入るのを感じながら競技場をぐるっと見渡してみせた。観客席にいる友達に混ざって陽太の姿が見える。だが、夕矢の姿はそこになかった。そんな茜はここへ来た時に激励に来た陽太の言葉を思い出す。
「夕矢は来る。一緒には来なかったけど、絶対に来るから」
簡単には信じられない。今まで夕矢が自分の応援に来たことは1度だけ。それもあの2年前の夏の日以来なくなっている。自業自得だと思うが、それでもどこか期待してしまう。何より陽太が嘘をつくとは思えなかった。
「さ、次は大前さん、高木さん、河合さんね。頑張って!普段通りなら準決勝には進めるから」
コーチの言葉にはきはきした返事をし、トラックを見据えた。まず初戦は4位以内に入れば準決勝に進出が決まる。各ブロック8人で走る中、茜は2ブロック目の3コースだ。やがてアナウンスが流れ、短距離200メートルの選手が呼び出された。茜はチームメイトに手を振り、トラックへと向かう。歓声を浴びながらスタート位置へ向かうと軽いウォームアップを始めた。会場に入ってから体は温めている。心身ともに準備は万全だった。茜はもう一度観客席を見やる。やはりそこには夕矢はいなかった。大きく手を振る陽太に手を振り返しつつもどこか胸が痛むのを感じた。
「1位で通過できねーと蹴りくれてやるからな!」
突然罵声に似た激励の言葉が聞こえてきた。茜が声のした方を見れば、スタート位置近くの関係者しか入れない場所にいたその人物がグッと右手の親指を突き出し、そのままダッシュで観客席への出入り口に消えた。
「望むところよ」
茜は嬉しそうにそう言い、胸の前で右手をギュッと握り締める。そうしているとアナウンスが流れ、1コースから順に紹介が始まった。茜はただゴールだけを見据える。
「全部1位で勝ってやる」
そう呟いてスタート位置についた。クラウチングスタートの体勢を取り、顔は地面を見る。そこに浮かぶのはさっきの罵声的な声援を送った夕矢の顔だ。
「オン・ユア・マーク」
機械的な音声に体勢を整えて顔を上げた。緊張はない。あるのは勝利へのイメージのみだ。パンという音と同時にスターティングブロックを強く蹴った。母親から空手を習っているせいか脚力はある。完璧なスタートで加速し、瞬く間にトップに躍り出た。足の回転と手の動きが完全にシンクロする。前へ、ただ前へ、そうとしか考えない思考もすぐに消えた。トップでゴールした茜は軽く右手を挙げて仲間に勝利をアピールし、そして観客席へとそれを向ける。両手を挙げて喜ぶ陽太の横ではふてぶてしい顔をした夕矢の姿があるのだった。
*
「今日はゆっくりお風呂に浸かってストレッチは欠かさないこと。あと、明日の部活はありません」
コーチである愛の言葉に全員が元気良く返事をし、日影でも暑いために流れる汗を拭った。
「来週は主に筋力アップを図ります。暑いですので無理はしないようなメニューを考えています、各自そのつもりで」
「はいっ!」
「では解散。着替えを済ませて各自帰宅してください。怪我や事故のないようにね」
「ありがとうございましたっ!」
はきはきした声は大会の疲れなど微塵も感じさせない。礼をし、直ると愛は関係者の集う場所へと歩き出した。それを見た面々が喜びや悔しさを口にしつつも和やかな雰囲気に包まれていた。そのまま更衣室へと移動して制服に着替えれば各々が自由に帰宅となっていた。茜は香や仲のいい四宮穂乃歌と一緒に競技場の外に出る。そこには陽太と夕矢がいて茜を待っていたのだった。茜は2人の顔を見るとニヤリと微笑み、首から掛けた金色のメダルを少し持ち上げるようにしてみせるのだった。
「ふっふーん!完全優勝!」
一回戦、準決勝、決勝と、すべてを1位で終えた茜はずいと夕矢の前に出て人差し指を胸に当てた。それを見た夕矢は片眉を動かすだけで表情に変化は無い。
「どうよ夕矢!何か言うことは?」
「おめでとうさん」
「それだけ?」
「他に何があるっての?」
「凄いね、とか、さすが、とか、惚れ直した、とかさ」
「スゴイネ、サスガダネ、ホレナオシタヨ」
完全に機械的で感情のない声でそう言った夕矢に対し、それでも茜は胸を張って満足げに微笑む。今の口調を悔しさと取ったのだ。
「よしよし。茜ちゃんの実力を一生覚えていなさい」
「次の大会も同じように1位で優勝したらな」
「フフン!完全優勝したら何でも言うこと聞いてもらうから」
「へーへー」
呆れ顔をする夕矢にも満足したのか、茜はご機嫌だった。そんな茜を見つめる陽太は苦笑し、同じ顔をしている香と顔を見合わせた。
「茜ってさ、坂巻が好きだったんだ?」
突然の穂乃歌の発言に茜が体をビクつかせ、夕矢が大きなため息をつく。陽太と香はお互いにニヤニヤが止まらなかった。
「ん、んなわけないでしょうが!」
「ないない」
茜と夕矢が同時に否定をするが、冷静に嫌そうにそう言う夕矢とは違って茜のそれはかなりの焦りを見せている上にどこか顔も赤く見える。
「なんかそんな感じの言葉だったよね?次の大会って関東大会でしょ?完全優勝だったら凄い快挙だもんね。そりゃ何でも言うこと聞いて欲しいでしょ?付き合ってって言いたくもなるよね」
完全に自分の中で物語を作り上げている穂乃歌に言葉もない夕矢がさっさとみんなに背を向ける中、茜が必死に弁解をする。それが余計に怪しさを全開にし、陽太も香も何のフォローもしなかった。
「こんなところで騒いでないで、早く帰りなさい」
ポロシャツにジーンズ姿に着替えたコーチの登場に茜たち部員が頭を下げ、陽太と夕矢もまた軽く頭を下げた。そんな面々を見た愛は表情を緩ませて茜のそばにやって来た。
「イケメン2人の応援があったからこその優勝ね」
ウィンクしてそう言い、愛はにこやかな顔をしてみせる。
「坂巻がイケメン?それはないでしょ」
穂乃歌の言葉にそっちを見やる愛の表情に変化は無い。
「充分イケメンだと思うけど?」
「そっかなぁ?」
「次も応援に来てもらえると助かるわね。河合さんが実力以上を発揮できるから」
「いやいや、夕矢なんかの応援がなくても実力以上を出せます!」
「はっ!今度は隠れて見ててやる。惨敗したらトラックに飛び出して目の前で冷やかしダンスしてやるよ」
「ぬぁにぃ!このバカ!」
見事なローキックが炸裂し、その場にうずくまる夕矢。陽太も呆れた顔をする中、香はここでの言動から茜が夕矢を好きなのではないかという自分の考えが間違っていないという確信めいた答えを得ていた。だがそうなると気になるのが夕矢の言った『振られた』という言葉だ。その時は夕矢を好きでなかったから振ったのか、それとも何か理由があったのか。腕組みして考え込む香を見ていた陽太は複雑そうな顔を茜に向けている。
「まぁ、仲良くね」
そう言い、茜の肩をポンと叩いた愛が立ち去っていく。地面にあぐらをかいて座り込んでいる夕矢は足をさすりながら愛の背中を見つめていた。
「美人で胸も大きいってのはいいよなぁ。性格もいいしさ」
「ダメだよ、コーチには彼氏ってか婚約者がいるんだし」
すぐにつっこむ穂乃歌の言葉にため息しか出ない。
「羨ましい話だよ」
言いながら立ち上がる夕矢はじっと自分を睨んでいる茜を見てすぐに視線を逸らす。茜は何も言わずにプイッとそっぽを向くだけだ。その態度は誰がどう見ても今の夕矢の発言に焼きもちを焼いているようにしか見えないのだった。
*
思わず駆け出していた。いや、駆け出さずにはいられなかったのだ。県大会を明後日に控えた矢先の出来事だった。終業式を明日に控えているために今週は午前中授業で終わっている。部活の顧問が不在のため、キャプテンの許可を貰ってすぐに校門を飛び出していた。向かうのは学校から歩いて20分ほどの場所にある総合病院だ。汗だくになりつつ病院へ着くと面会希望を告げ、その人の名前を口にする。そうして病室の場所を聞いた陽太は4機あるエレベーターを待つ時間も惜しみながらそわそわとしてやってきた1機に乗り込んだ。そうして5階に到着し、教えてもらった病室の前に立った。2人部屋のようだが目当ての人しか使用していないとわかる表示を確認し、開いている扉をノックした。
「どうぞ」
聞きなれた声は元気そうだった。病室の前で汗をしっかり拭いたがそれでも頬を汗が伝う。
「失礼します」
丁寧にそう言い、そして病室に足を踏み入れた。そこには左足にギプスをはめ、あちこち包帯に巻かれて痛々しい姿になった飯島雪の姿があった。雪は陽太の顔を見ると笑顔になり、比較的包帯の少ない右手をヒラヒラと振って見せるのだった。
「先輩・・・」
「あれ?1人?」
「はい」
「そっか」
明るい声にどこかホッとするが、その痛々しい姿に言葉も無い。そんな陽太に笑顔をそのままにした雪が座るよう告げ、陽太はベッドの脇に置いている椅子に腰掛けた。雪が入院したと聞いたのは1時間目の休み時間の時だった。同じテニス部の先輩がわざわざ連絡をくれたのだ。昨日の部活の帰りにマンションの入り口付近で交通事故に遭ったらしいと。飲酒運転だったのか、事故の概要はわからないが雪が大怪我をして病院に運ばれた、そう告げられたのだ。今日の放課後、部活を早めに切り上げて皆でお見舞いに行くという話を聞いたが、陽太はいても立ってもいられなくなって授業が終わるとすぐに駆け出していたのだ。
「事故に遭っちゃったみたい。あんまり覚えてないんだぁ。後ろからだったしね」
見る限り大怪我だ。左足は複雑骨折に左腕も骨に異常はないものの酷い打撲だという。数メートルを飛ばされて擦り傷も多く、打撲の箇所もあちこちに及んでいた。幸い頭や顔に怪我がなく、意識もすぐに回復したらしい。それを聞いた陽太はホッとし、それから再度痛々しい姿の雪を見つめた。大会は目の前だった。そのために毎日遅くまで練習に励んでいたのに、そう思うと怒りとやるせなさでいっぱいになる。
「ってことで、明々後日の大会には出られなくなっちゃった」
てへっと右手で頭をこつんとした雪にどういう顔をしていいかわからない。わざと明るく振舞っているようには見えないが、それでもどこか強がっているように見えてしまう。
「だから、小泉君は私の分も頑張ってほしい・・・・なんてね」
「来年、来年あるじゃないですか。頑張って怪我治して、それで来年、一緒に全国行きましょう」
陽太は今出来る精一杯の励ましを言葉にした。ありきたりだが、こんな言葉しか出てこない自分がもどかしい。雪はその言葉に小さく微笑み、それからゆっくりと首を横に振った。
「午前中にね、先生が来て、検査の結果、左足は普段の生活には支障がないぐらいに回復するけど、テニスとか、激しい運動は無理でしょうって。だから、テニスはもう出来ないの」
雪は微笑みながらそう告げる。もう吹っ切っているのか、それともどう感情を表現していいのかわからないのか、とにかくそれは自虐的な笑みではなくいつもの雪の笑みだった。
「でもね、部活は続けたい。みんなの力にはなりたいから、マネージャーしようかなって」
「先輩・・・」
「それに小泉君のそばにいたいしね」
本音なのかどうかはわからないが、雪ははっきりとそう言った。先日の告白といい、この人は自分に正直なのだと痛感する。それに怪我のことをすぐに受け入れる強さもまた持ち合わせているのだろう。陽太はそっと雪の右手に手を添えた。予期せぬ陽太の行動にビクッとなった雪だが、照れと嬉しさを合わせたような表情を浮かべて見せる。
「絶対に全国へ行きます。優勝して日本一になります。先輩のためにも」
「私のためじゃなく、自分のために、ね?でもありがとう、嬉しいよ」
雪はにっこりと微笑む。陽太は雪の手を握る力を少し強める。雪は頬を赤くしながらも自分もまた手に力をこめた。痛みもあるがそれ以上に温かい何かを感じる。
「怪我、一生懸命治すから絶対に全国大会に行ってね?応援に行くために治すから」
「約束します」
もうテニスが出来ないと聞かされたときに既に泣いている。陽太と一緒に全国大会へ行きたかったと号泣していた。だからもう泣かないと決めている。特に陽太の前では。生まれて初めて本気で好きになった人だからこそ涙は見せたくない。雪は陽太の指に自分の指を絡ませる。約束の指切りをするかのように。陽太もまた指を絡ませた。これは誓いだ。自分と、そして雪への。想いを闘志に変えて気合を入れる。負けられない理由がまた一つできたことにさらなる気持ちの高ぶりを感じるのだった。