理解の深さ、後悔の重さ(2)
部活を終えた香が茜を誘って校門を出る。大会を間近に控え、練習に力が入るが怪我だけには注意をしていた。コーチである顧問の池谷愛もまたその辺はかなり気を遣っている。念入りな準備運動に加え、最後の柔軟にも神経を注ぐほどだ。この大会で優勝すれば秋の大会でのシード権が与えられる。そうなれば来年のインターハイへ向けての弾みもつき、秋の関東大会での成績次第ではより高い目標も設置できるのだ。
「そういえばさ、茜は来週土曜日の小泉の大会は応援に行くんだよね?」
「もちろん!」
「じゃ、日曜日の女子の大会も?確か同じクラスの池田さんも出るよね?」
「あー、行きたいんだけど、従姉妹が朝から来て出かけるんだ。久々に会うし、夜までだから無理」
「そうなんだ」
「香は行くの?」
「私は行かない。で、日曜日はゆっくりする」
「そっか」
そこで一旦会話が終わり、香はミッションを無事終えたことに安堵していた。部活の最中に来ていた夕矢からのラインはカルフェスの対策会議の件と茜の予定の調査だった。さりげなくそれを聞き出して任務は終了してホッとし、駅で茜と別れてから夕矢にラインをした。するとすぐに折り返しで電話がかかってきた。隠れオタクを告白したあの日に携帯のアドレスと番号を交換し、ラインでのやりとりはほぼ毎日していた。内容はアニメや一発クジのことがメインであり、男女のメールでありながら色気のある話は1つもなかった。だが、電話は初めてのことだ。柄にもなく緊張しつつ通話ボタンを押した香が電話を耳に当てながら少しゆっくりめに息を吸い込む。
「もしもし?」
緊張をおくびにも出さずそう声を発した。
『おー、瀬川、任務ご苦労』
「・・・・どうも」
第一声がそれかと呆れる香。
『ってことで、来週の日曜日、俺の家で対カルフェスミーティング開催な。入場券付きガイドブックは今発注した。明後日には届くから、精算はそん時に』
その言葉にさっきまでの呆れ顔が吹き飛んだ。ガイドブックという言葉、そして夕矢の家でミーティング、この2つの言葉が香のテンションをマックスにまで引き上げたのだ。
「え?あんたの家で?」
確認を取ったのは嘘ではないのかという思いがあったからだ。
『ああ。何か問題あるなら他の場所で・・・』
「ないない!ってか、あんたの家がいい!」
愛瑠とはまた違った理由で夕矢の部屋に行きたい香が珍しく叫ぶのを耳にする。キンキンする耳から少し携帯を離し、それからそっと耳に近づけた。
『んじゃ、そういうことで。姫季にも言ってあるから、時間とかはまた別途な』
「うんうん、了解了解!」
何故上機嫌になっているのか理解できず、用件だけを告げた夕矢が電話を切った。香は通話の終わったスマホを握り締め、歓喜に打ち震える体を必死で抑えるようにして身を震わせた。茜からの情報や、先日のオタクの店への同行時の言動から夕矢の部屋には数多くのお宝が所狭しと並んでいるはずだ。それらを直に目にする機会がこんなに早くやって来ようとは。
「香ちゃん、超ハッピー」
愛瑠と違って小声でそう言い、グッと拳を握り締めて喜びを表現する。悪影響を受けているという自覚もなしに、である。
*
その夜は愛瑠に会議の開催場所を電話連絡した夕矢だが、そのまま愛瑠の話に2時間も付き合わされた。もっぱらがカルフェス絡みの話だったが、時折夕矢の部屋のことなどが織り交ぜられ、その都度興奮する愛瑠に閉口した夕矢だった。とりあえずカルフェスまでにすることが決まった夕矢の次の目標はもう明日に迫った茜の大会の応援だ。香もまたエントリーしているが、これまでの成績を考えると記念の出場になるのは目に見えている。それでも今の自分の実力を試すいい機会だと気合も入る中、軽めの部活を終えた茜と香が部室を出る。
「なんか今から緊張する」
「そんな大きな大会じゃないし、気軽に行こう」
「でも初めてだもん」
「普段通りやればいいんだって」
中学の頃から大会に出ている茜と違い、中学の時から万年補欠だった香にしてみれば初のまともな公式戦になる。走るのが好きという理由で中学では陸上部に入ったが、強豪校だったために小さな対抗戦ぐらいにしか出ていなかった。それも全てろくな記録にならずに終わっている。今ではコーチである愛の指導の賜物か、フォームの改造もあってそれなりのタイムを記録していた。
「コーチも言ってたでしょ?本番は来年だってさ」
「そう、だけどさ」
「大丈夫」
余裕のある茜が羨ましい。そんな茜に小さく微笑み、香はぐっと気合を入れるように拳を握った。それを見た茜が笑顔になった。
「応援するから」
短距離選手の茜と長距離選手の香とは競技時間が重なっていない。なので、お互いがお互いを応援できる状態にあった。
「小泉も来るんでしょ?」
「うん。絶対に行くって言ってた」
「坂巻も?」
「あいつは・・・・誘っても来ないよ」
感情のない声でそう言う茜を横目で見た香は先日の夕矢の言葉を思い出す。香が茜との関係を確かめるようにそれとなく聞いたとき、夕矢は『茜に振られた』と口にしていた。かといってそれを確かめることはできない。夕矢からそれを聞いたと言えばいいのだろうが、何がどうなってそういう話になったのかを聞かれるのが嫌なのだ。自分がオタクだとバレるのが怖い、バレて茜に嫌われるのが怖かった。
「茜はさぁ、小泉と坂巻、どっちが好きなの?」
自分でも卑怯だと思う。茜は夕矢を振っている、なら、必然的に答えは絞られるからだ。
「2人ともただの幼馴染だよ」
「告白されたこととかないの?」
「ん?んー・・・・まぁ、あるけど・・・・でも・・・・・振ったんだ、2人とも」
「へぇ・・・・・・ん?2人?」
歯切れの悪さも理解していたが、その返事は意外すぎた。夕矢を振ったことは知っていたが、まさか陽太までも振っていたとは。驚く顔をする香を見て小さく微笑んだ茜は困った顔を前へと向ける。そんな顔を見てはそれ以上何も言えなくなってしまった。言葉もなく校門を出て、無言のまま坂を上る。そうして坂を半分ほど上った時だった。
「いつかさ、いつかってか、近いうちに、ちゃんと話す。相談にも乗って欲しいし、だから、今は・・・」
茜がそう呟き、香はそんな茜に笑みを見せた。おそらく、いや絶対に何かしらの事情があるのだろう。そんな感情が目に浮かんでいた。
「うん」
そうとだけ言い、香は話題を切り替えた。そして自分に、茜に心の中で誓った。茜がそのことについて話をしてきた時には自分の秘密も告白しようと。さっきの茜から感じ取った悲壮な覚悟は充分に伝わっていた。だからこそ、自分もそうしなければならないと思ったのだった。
*
「珍しいな、お前からの誘いなんて」
夜なのに暑いと思う。クーラー無しでは寝られない熱帯夜だが、時間的にはまだ9時過ぎだ。外灯があちこちにある住宅地のせいか、暗さはそう感じない。冬に比べて夏の夜は明るいと思うせいもあるだろう。コンビニへと続く道を2人で歩いていた。夕矢はついさっきラインでコンビニ誘われて家を出ていたのだった。誘った相手は苦笑し、夕矢の肩にポンと手を置いた。
「サシでお前と話もしたかったしな」
「どうせ明日のことだろ?」
「さすが」
「付き合い長いからな」
夕矢の言葉に苦笑を濃くした陽太は肩を2度ほどポンポンと叩き、それから離す。付き合いというか、家は別々ながら兄弟みたいな存在だ。お互いの性格は熟知しているし、何でも相談は出来る。ただし恋愛面だけは除いてだが。
「応援、行ってやれよ。あいつはお前の前だと力を発揮できるからさ」
「そんなことねーし」
「あるんだよ」
根拠があるような言い方に眉を寄せるが、それを示せとは言わない。夕矢がそういう人間だとわかっている陽太は笑みを見せ、それからうす雲のせいか数少ない星を見上げた。
「あいつは、お前が好きなんだよ」
「知ってのとおり、俺は2年前に振られてるけどね」
「それもわかってて、そう言ってる」
「意味わかんねー」
夕矢は笑っていた。失恋の傷は癒えている。だからこそ茜との今の関係があるのだ。それに茜が自分を好きだとも思えない。陽太にそう言われても嬉しさもなかった。
「とにかく、明日は応援に行こうぜ」
「ヤだよ、めんどくせー」
「アイス奢ってやるから」
「・・・・俺は小学生か?」
「趣味的には似たようなもんだろ?」
「かなわねーな」
自嘲にも似た笑みを浮かべ、夕矢は陽太を見やった。陽太は夕矢の背中をぽんと叩き、それから意味ありげに頷いてみせる。
「わかったよ。ただし、アイス2個だ」
「了解」
陽太はそう言い、微笑む。夕矢は自分とは違う爽やかなその笑みに苦笑が漏れた。
「お前も気を回しすぎだよ」
「俺が願うのは茜の幸せだからな」
「なら、お前が幸せにしてやれ」
「俺も振られてる、しかもマジな振られ方だぞ?」
「俺だってマジだったし」
「かな?」
それはどういう意味だと思うが、それ以上は何も言わない。お互いに茜に振られたことは知っている仲だ。それでも幼馴染というポジションは崩さずに今日まで来ている。振った振られたで切れる縁でもなく、お互い振られた際にそういう話はしていた。何より、落ち込んだ夕矢のフォローをしたのは陽太だ。陽太がいなければ茜との仲は壊れたままだったはずだ。
「今でも茜が好きなくせに、おせっかいなヤツ」
「まぁな」
夕矢の嫌味を嫌味と取らずに軽く流せる陽太を凄いと思う。努力を惜しまず、その結果にすら満足せずに常に高みを目指している。自分では到底できないことをやってのける、そんな陽太は夕矢にとっても自慢の存在だ。
「でも、好きは好きでもラブじゃない、ライクだけどな」
「そうは見えないけど?」
「実際そうなんだからさ」
「そっか」
陽太は自分ほどポーカーフェイスが上手くはない。その陽太がどこか困ったようにするその表情は本物だ。夕矢の言葉に困っている、つまりは好きというのがライクだということなのだろう。長年の付き合いのおかげか、それだけははっきりと理解できた。
「俺もライクだけどな」
「わかってる。だからこそどうにかしたい」
「なんでさ?」
「今は言えない」
「・・・・・あっそ」
陽太が頑固だとも理解しているだけに、今は何を言っても無言を貫くだろう。ただ分かったのは陽太が振られた理由と自分が振られた理由には違いがあるということ。そして自分を振った茜には何かしらの理由があったのかもしれないということだ。そんなことを考えているとコンビニに到着し、アイスを買って外に出る。陽太の誘いで駐車場にある車輪止めに腰掛けでアイスを食べる夕矢はぼんやりと空を見上げた。明日も晴れそうな夜空がそこにある。
「最近、瀬川と仲いいらしいな」
不意にそう言われてドキッとしたが、得意のポーカーフェイスを貫く。とぼけた顔をするその夕矢を見た陽太の口元が緩んだ。
「本当みたいだな」
そのポーカーフェイスも陽太には通用しない。いや、かまをかけてきただけか。
「どこの噂だ?」
「俺調べ」
夕矢は笑みも見せずに空を見上げる。つられるようにして陽太もまた夜空を見上げていった。
「あいつもオタクだったんだよ」
「んな事だろうとは思ってた」
陽太は口が堅い。守るべきことは死んでも守る性格をしていた。余計なことも言わないし、まさに完璧な男だ。だからこそ、周りから陽太と比較されても苦にならない。神様と比較されても悔しくはないからだ。
「茜に隠れてこそこそしてるけど、それでもそんな瀬川の気持ちもわかる。だから仲間になった」
「茜は偏見なんか持たないけどな」
「超オタクな俺がいるからな」
そう言い、笑いあった。
「瀬川も葛藤して俺にそれを告げてきた。だから、俺はそれを守るだけ」
「わかった」
陽太のその言葉は理解したという意味の他にこれ以上は何も聞かないという意思表示もこめられている。そんな陽太をありがたいと思う。
「明日も暑いんだろうなぁ」
夕矢がそうこぼし、陽太が頷く。兄弟に近い幼馴染の存在をお互いにありがたく思う。何でも話せるし、内緒の話も出来るのだ。そこには深い信頼関係が成り立っていた。