不運な貨物船
西暦2017年3月19日 14時35分
中国船籍の貨物船〈新秦〉は、この日、ついてなかった。
午前8時ころには、トイレが破損。汚濁が逆流。乗組員たちが朝食を終えた直後に発生した惨劇だった。乗組員たちは、便意を我慢しながらも決死の修理作業を実行。どうせ糞まみれになるのであればと、一部の乗員はウンコをそのまま漏らしていたりもしたが、なんとかトイレを修復。それが午前8時30分のことである。
ひと段落着いたと船員たちが思ったのも、束の間、船長は船内清掃命令を発した。糞尿で汚染された船員区画を何とか人が住める文明(?)の環境にまで復旧させるのにかかった時間は二時間ほど。
ふう、これで何とか休憩できる。と、乗員たちは今度こそ安堵した。だが、彼らにとって不幸なことに、問題はまだ終わっていなかった。
汚濁を清掃すべく、盛大に使用した海水。船内で大量に散水されたそれは、船員居住区画なみならず、機関室内にまで進入していたのだ。海水をあびたディーゼルエンジンは故障。機関科員が応急修理を試みたが、失敗。エンジンは完全に故障しており、応急修理ではどうにもならなかった。
とはいえ、不幸中の幸いというべきか、故障したエンジンは一基のみ。〈新秦〉は搭載していたもう一基のディーゼルエンジンを用いて、ひとまず目的地であるウラジオストクを目指していた。
エンジンの修理については、港の技術者に任せるよりほかないと判断されていた。
だが、万一修理不能だったら?
その場合には、エンジンを丸ごと取り換えなければならない。一体、その費用はいくらになるのか? 船長は、予想される必要経費を考え、頭を抱えていた。このとき、船長には、頭痛の種が山積していたのだ。
そのときだった。船橋から奇妙な報告が届いたのは。
ブルルルル。ブルルルル。という電子音。船長室の電話が鳴っている。額をもんで頭痛を誤魔化してから電話に出たところ、相手は船橋当直の一等航海士だった。
「船長。前方の海域、例のなぞの発光現象付近において、奇妙な現象が発生しています」
一等航海士の声には覇気がない。というよりも、疲労の色が濃い。それもそうだろう。船長を考える。その一等航海士は、居住区でのトイレ復旧作業において陣頭指揮をとっていたのだ。そして、その後には、船内の一斉清掃。
おまけに、清掃後にはエンジン・トラブルまでが発生。これほど問題が続出して、疲弊しない訳がなかった。
今の〈新秦〉で疲弊していない乗員など存在しない。その点において、船長は確信を持っていた。
そんな船長は、電話に応じる。
「奇妙とは? どういう現象だ?」
船長の問い。彼の声にも、疲労の色が濃い。彼も疲労しているのだ。おかげで眠い。視界がときどきぼやける。思考もおぼつかない。
「……それが、その……なんとも言いにくいのですが……光の柱から、帆船が出現しています」
突拍子もない。疲れて幻覚でも見ているのではないか。船長は、真っ先にそう考える。だが、靄のかかった思考の中で、別の可能性もある事に気付く。
「どこかの旅行会社が、クルーズ船でも準備したのではないか?」
船長の指摘。それは実際、あり得そうな事態だった。対馬海峡に出現した光の柱を巡る騒動は、ニュースでもたびたび取り上げられている。それを見物するために、旅行会社がツアーを企画するというのは、全く不自然ではない。というか、ある程度以上の商才を持っている人物ならだれでも思いつくような、儲け話だ。
帆船というのが、いまどき不自然ではあるが……。まあ、帆船の方が、何かと風情があると言えば風情があることだし。旅行会社の社員のなかに、懐古趣味の持ち主でもいたのだろう。
船長は、そう考える。だが、一等航海士はそれを否定した。
「いえ。そうではありません。突然出現しているんです。先ほどまで確かに存在しなかったはずの船が……」
「ふうむ……蜃気楼ではないか? レーダーはどうなっている?」
船長の問い。
「それが……レーダー画面にノイズが生じていまして。現在、使用不能です」
「なに? また故障か?」
流石に、これ以上のトラブルは勘弁してほしい。船長はあきらめの境地に達しつつあった。
「いえ、電気技師によると、レーダー装置には異常が見られないようです。その……通信装置にも付不具合が生じていまして、恐らくは電波状況が悪いのではないかと……」
「ふうむ」
疲労から、眠気が襲ってくる。何とか意識を保とうと、目をこすりながら、船長は返答する。
「多分……蜃気楼だろう。いきなり帆船が出現するなど、明らかに不自然だ」
「……本当に蜃気楼でしょうか? 私には実体を伴っているように見えるのですが……」
一等航海士は疑わしげだ。
「蜃気楼だ。そうでなければ誰かの悪戯か、あるいは手品だろう」
船長はそう決めつける。
「……手品? ……確かに、そうですね。船長のおっしゃる通りです。疲労のためか、少しばかり神経質になり過ぎていたようです」
どうやら、一等航海士も納得してくれたようだ。
「では、操船の方は、よろしく頼んだよ。ああ、わかっているとは思うが、例の発光現象や、手品の帆船なんかには近づかないように」
そう言って、念を押しておく。何だか良く分からないモノには、近づかないのが最善。それが船長の人生哲学だった。
「勿論です、船長。発光現象からは十分な距離を取って海峡を通過する予定です」
一等航海士からの返答。それで通話を終了し、船長が受話器を置いたとき、彼は半ば以上ねむっていた。
******
船長との通話を終えた一等航海士。
その報告が入ったのは、彼が受話器を置いたときだった。
「一等航海士! 帆船10隻が接近中! 本船と対向する進路を取っています!」
報告を受けた一等航海士は、窓外正面に視線をむける。なるほど、確かに。そこには帆船が10隻。単縦陣で接近してきていた。
だが、衝突進路ではない。僅かにだが、本船の左側にそれるコースを取っている。どういうつもりだろうか? 一等航海士は考える。だが、結論は出ない。
通常の場合、船舶というものは、むやみに接近しないものだ。自動車などに比べると図体が大きく重いため、増減速にも時間を要する。方向転換にも一苦労だ。むやみに接近しても衝突のリスクが増大するだけで、良いことなど何もない。
そのはずなのだが……。クルーズ船による、乗客へのサービスか何かだろうか? そうだとしたら、向こうのサービスに協力してやるのも、別に良いかもしれない。一等航海士はそんなことを考える。
一方で、頭の別の部分が異なることを考える。帆船側の性能については全くもって不明だが、こちらは鈍重な貨物船。無線連絡もよこさずにこうも接近されるのは、あまり面白くない。
「回避する。面舵10」
一等航海士の命令。あまり大きく回避する訳にはいかなかった。大型車などにも言えることだが、船舶は、回頭時にお尻が振れるからだ。回避しようとして、大きく右に転回すれば、かえって船尾が左に――帆船の進路に――割り込むことにもなりかねない。そうなっては、目も当てられない。
「面舵10。回避コース。よーそろー」
操舵主は復唱とともに、手元の操船ダイヤルを回す。カリカリカリという微かな作動音。
船体が揺れ、進路を変えようとしているのが感じられる。しかし、転舵はすぐに行えない。〈新秦〉は1万総トンの大型船――それも、目的地のウラジオストクへと運搬している鋼板を満載していた――だからだ。これだけの大型船になると舵は急には利かない。
と、唐突に、爆発が起こった。
「なに!」
その光景を見て、一等航海士は絶句する。爆発しているのは、日本の巡視船。真っ白い船体に、青のストライプが描かれた船舶だ。〈新秦〉の左舷前方3000メートルほどの距離を航行していた。それが今では、炎上。異常な量の黒煙が噴出している。
「ばかなっ」
誰かの呻き声。あるいは、呻き声を上げたのは、自分自身だろうか。何処か他人事のように、一等航海士は考える。
彼の見ている先。そこにあるのは、炎上する日本船。そして、日本船と併進していた謎の帆船。帆船の舷側窓、そこは全て開いており、中から大砲が覗いている。そして、その大砲。次々に発射炎が煌めき、煙が立ちのぼる。
目標は、巡視船のようだ。既に爆発炎上しているにもかかわらず、追撃をしかけている。面白いように命中する砲弾。巡視船は次々に爆発。もはや、その船上構造物は全滅。無茶苦茶に破壊されている。
全身火達磨になった乗組員が海へと飛び込んでいくのが見えた。
非現実的、非常識な光景。一等航海士は、眼前の光景に魅入られる。そんな中、船橋で絶叫が上がる。
「一等航海士! 前方の帆船! 反航します!」
操舵主の叫び。それは、一等航海士を現実に引き戻す。慌てて彼が、前方の帆船へと注意を戻す。そのとき、帆船との距離は1000メートル程。1kmといえば、地上ではそれなりの距離と言えないことも無い。
だが、海の上では事情が異なる。ほとんどすぐ目と鼻の先だ。
「面舵いっぱーい! 機関全速!」
一等航海士の命令。
「面舵いっぱーい! 全速!」
操舵主の復唱。操舵主は、操舵ダイヤルを目一杯右にまわし、速度レバーも全開にする。
尤もすぐには加速しない。エンジンが一基潰れている上に、一万トンの大型船は元々旋回性能などに気を配っていないからだ。
「くそっ!」
一等航海士の悪態。帆船の船長たちが何を考えているのかは知らないが、あり得ないような行為だ。
いきなり大砲をぶっぱなすとは!
苛立たしげに彼は、警報ボタンを押す。
とたん、船内にけたたましいサイレン音が鳴り響いた。
〈新秦〉の長い一日はまだ終わらない。