止まない雨 ところにより蟲毒(6)
『蟲毒』。生まれた混虫の分類が何であるかはっきり語れない以上、便宜上そう呼ぶことをあらかじめ断っておきたい。忌まわしい儀式によって生まれた蟲毒に明確な自我や欲求があるかというとそうではなかった。はっきりいってしまえば様々な意識が混じっているといえた。その意識の中心にいるのがかつて人の形をしていた少女であった。混濁する意識の中で蟲毒となった彼女が最初に感じたのは強い飢えだった。死にそうになる飢えの中で彼女は目の前にある餌を貪った。その餌達が自分と同じ姿形をしていたことにためらいなどは一切なかった。というよりすでに彼女に人の形であった頃の記憶などほとんど残ってなかった。ゆえに貪る。飢えを満たすために。与えられた爪で、牙で、尻尾で。獲物を捕食して喰らい続けた。生理的な欲求を満たし終えた彼女が次に感じたのは何かに駆られる強い焦燥感だった。その正体が何なのかは分からない。さきほどまで誰か大事なものが傍らにいたはずなのだ。それが失われてしまった。強い喪失感を覚えた彼女は哀しみの叫びをあげた。彼女にしてみれば慟哭であったが、それを見た人間達にしてみれば身の毛のよだつ叫びにしか聞こえなかった。ひとしきり叫び終えた後に彼女は思い出した。自身が母と呼び、慕った存在のことを。母は失いたくない。そう思った彼女はこの狭い場所から出て母を探そうと考えた。
◇
洞窟の最深部にたどり着いた剣狼が目撃したのは地獄のような光景だった。足元には夥しい量の血痕と肉片が飛び散っており、壁は何か大きな鞭のようなものが走った後のようなえぐられ方をしている。何かの機械の残骸であろうものがいたるところに飛び散っており、その付近には人間であったはずの肉片が横たわっていた。広間の中央は中空になっており、地の底まで続きそうな大穴の真ん中の空中回廊に得体の知れない巨大な混虫が人間であろう肉片を貪り食っていた。不気味だった。蜘蛛の力を宿す剣狼ですらその存在を見た瞬間に逃げ出したくなるような恐怖と威圧感を感じた。
「なんなんだ、ありゃあ。」
呆然としながらもあらためてその姿を確認する。異様な混虫だった。蜂のような頭をしながら胴体は百足を思わせるそれであり、その胴体の節々に蜂や百足を思わせる足が生えている。象徴的なのは頭の近くにある蟷螂を思わせる二本の腕と背中に生えた異形の翼だった。見た目から見えるように様々な蟲の力を備えているとしたら危険すぎる。混虫は一体で都市を壊滅できるほどの力を持つのだ。それが合わさったとすれば。考えるだけでぞっとする。そう思いながらも剣狼はフィフスの姿がないか見渡した。幸いなことに混虫の側にはいないようだが、だとすればどこにいったというのか。ちょうどその時に肉片を食い終えた混虫が身の毛のよだつ叫びをあげた。その大きさに剣狼は思わず耳を塞いだが、その身に宿る蜘蛛の核が共振したことで化け物が何を叫んでいるのかを直感的に理解できてしまった。というよりは脳内に直接響いた。それはフィフスの慟哭の声だった。その残酷な事実に剣狼は目を見開いた。
「…フィフス、お前はそこにいるのか。」
少女の変わり果てた姿に剣狼は衝撃を隠せなかった。同時に救えなかったという強い後悔の感情が胸の中を支配する。そんな剣狼を無視するように叫び終えた蟲毒は天井をぶち破って外へ向かって移動を開始した。どこに行くというのか。焦りを感じた剣狼はありったけの声で叫んだ。
「フィフス、行くんじゃねえ!!戻ってこい!」
だが、蟲となった少女は剣狼の必死の叫びにも全く反応することなく飛び去っていった。
◇
強大な地響きが付近一帯を襲った。近くの森で薪を拾っていた村人の母と子は何事が起きたのか不安になって辺りを見渡した。直後、遠くで聞こえた凄まじい轟音の聞こえた方向を見た母親は恐怖で腰を抜かした。何なのか分からない不気味な巨大混虫が羽根音をあげながら空に浮かんでいたからだ。それは人の世界の終末を告げる邪神を思わせる姿をしていた。子供が怖くなって泣きながら母親にしがみつく。母親も恐怖しながらも一心不乱に神への祈りの言葉を唱え続ける。それ以外に視界に映った恐怖に耐える術はなかったからだ。街のほうも異変に気付いたのであろう。遠くのほうで警戒を告げる鐘の音が鳴った。その警鐘はまるで絶望の始まりを告げる鐘のように辺りに響き渡った。




