閑話休題 湯煙温泉奇行(5)
露天風呂から戻ってきた孤麗が目にしたのは布団で簀巻きにされたコロとその上で荒い息をしながら押さえている少尉の姿であった。ショックのあまりに思わず持っていた手拭いをパサリと落としながら孤麗が尋ねる。
「何をなさってるんですか。」
「見て分からないか。聞き分けのない駄犬に躾をしているところだ。」
「駄犬って酷い!」
そもそも犬じゃなくて狼ですよ。そう嘆くコロの叫びを少尉は凶悪な表情を浮かべたまま無視した。布団から出ているコロの顔だけ見ていると狼を簀巻きにして虐待している飼い主にしか見えなかった。リムリィはそんなコロのところにふらふらと近づいていって尋ねた。
「私じゃなくてコロ兄さまが簀巻きにされるなんて珍しいですね。」
貴方はいつもこんなことをされているの、リムリィちゃん。孤麗は思わず叫びそうになりながら慌ててその言葉を吞み込んだ。少尉は荒い息を整えた後に孤麗に尋ねた。
「風呂はのんびり入れたか。」
「ええ、とてもいい湯加減でしたよ。真兄さまたちも行かれてはいかがですか。」
「はは、それはとてもよかったな。後で行ってくるよ。」
なんだか疲れた様子で少尉は答えた後で簀巻きを思い切り蹴った。きゃいんという短い叫びをコロが上げたのを見計らった後にその顔に唾を吐いてから彼は部屋から出ていった。そんな少尉の様子を孤麗とリムリィは不思議そうな顔をしながら見送った。
◇
部屋から出た少尉はその足で露天風呂に向かった。我ながらバカ騒ぎをした。汗をかいたし風呂にでも入って忘れるか。そう思ったからである。宿内のあまりの広さに途中で迷いそうになりながらもお目当ての露天風呂の入り口にたどり着いた。だが入口の前で立ち止まった。あるべきものがないのだ。男湯と書かれた暖簾がついていない。
(どういうことだ。)
怪訝な顔をして少尉が立ち往生をしていると近くを通りかかった仲居が声をかける。
「お客さん、どうなされました。」
「いや、男湯の暖簾が出てないのだが。」
「そりゃそうですよ。ここの露天風呂は混浴ですから。」
「ああ、なるほど。そりゃ暖簾は必要ないな。……なんだと。」
当たり前のようにとんでもないことを言う仲居に少尉は戦慄した。この宿のモラルはどうなっているのだろう。男子たるもの、婦女子とともに風呂に入るなど恥ずかしくてできるか。少尉はきびつを返して速足で引き返していった。
「お客さーん、お風呂入らないんですか。」
仲居が不思議そうな顔で呼び止めようとしたが少尉はますます速足になってその場から去っていった。
◇
部屋から戻るとコロは簀巻きから解放されていた。おそらくはリムリィだろう。余計なことをしてくれる。少尉はため息をつきながら部屋の中に入った。
「孤麗、露天風呂が混浴なのはあらかじめ知っていたのか。」
「ええ、知ってましたよ。」
「お前、羞恥心というものはないのか。」
少尉は完全に妹を心配する兄の心境になっていた。悪い虫でもついたらどうしてくれよう。悪い虫候補第一位のコロは混浴という単語を聞いたとたんに尻尾をぶんぶんと振った。我慢できなくなった少尉は懐から拳銃を取り出すとためらうことなく尻尾の側に容赦なく撃ち込んだ。
「ひいっ!」
コロは短い悲鳴をあげてリムリィの後ろに隠れる。
「真兄さま、部屋の中にございます。」
「悪いな。忘れていたよ。」
少尉は孤麗にそういって笑顔で懐に拳銃をしまったあとに振り返ってコロを睨んだ。般若のような表情だった。
「ひいいいっ!!!」
般若の表情を直視してしまったコロとリムリィは同時に悲鳴を上げた。可愛い妹分に間違いが起こらないようにするにはどうすればいいか。物理的に葬るしかないかな。そんな物騒なことを考えながら少尉はコロを凝視した。その視線は優しさが全くこもっていない虫を見るような表情であった。




