プロローグ
ゆっくりと動いていく外の景色を眺めると視界に飛び込んでくるのは一面の花畑だった。コスモスといっただろうか。わが国では平和を象徴する花だったと思う。この花畑の牧歌的な風景を眺めているとつくづく今の自分がいるのが血塗られた戦場でないことを認識させられる。
「くぁ…。」
何度目になるだろうか。私は込み上げてくる欠伸を噛み殺した後に目から滲む涙を擦り、再び欠伸をした。いかん。どうにもいかん。欠伸が止まらない。あたたかな気候というやつは人間の緊張感を緩める何かが出ているとしか思えない。
「少尉殿。緊張感が緩みすぎですよ。」
「平和だ。平和すぎる。実にいいことじゃないか。まったく平和すぎて頭がどうにかなりそうになる。ああ、それとな、私はもう少尉殿ではないんだ。慎みなさい、コロ。」
「は!了解しました!少尉殿!」
私の言葉にコロは元気よく答えると尻尾をパタパタと嬉しそうに振った。駄目だ、まったく分かっていない。私は苦笑いした後にコロを説得するのを諦めた。まったく孤狼族という奴は東国人と違い、素直なのだが融通という奴が効かないのが困り者だ。見た目が完全に人型の狼にしか見えない部下を眺めながら私はこの国で過去に起こった出来事を振り返っていた。
10年前に起きた西海との戦争において彼らは盟主である蒼龍王国のために最前線で愚直なまでに勇敢に戦い、凄まじい勢いでその数を減らしていった。コロはその孤狼族のわずかな生き残りの一人であり、戦争が終わって故郷に帰ってきた私についてきた奇特な男である。
「…はぁ。まあいい。コロ。このまま微速前進だ。引き続き石炭をこめなさい。」
「はい、了解です。少尉殿。」
コロの返事を聞きながら私は帽子の鍔を弄びながら暇つぶしに汽笛を鳴らした。ポゥー…という高い音を鳴らしながら相棒である私の機関車「ちはや」はゆっくりと走り続ける。風を受けながら順調に機関車は走る。いいほど石炭をほうり込んでからコロは煤まみれの頬を拭った後に私に聞いてきた。
「少尉殿。今日もあそこに寄っていきませんか。」
「お前は本当にあの丘が好きだな。どうせ急ぐ旅でもない。よかろうさ。」
「…やった。」
握り拳を作るとコロは先程以上の勢いで石炭をほうり込み始めた。よほど嬉しいのか石炭をほうり込む間も彼は尻尾をパタパタと動かしている。 全く呆れるくらいにわかりやすい奴だ。
コロが言う丘というのはこれから向かう町へと続くトンネルの手前にある小高い丘のことだ。
緩い斜面の頂上付近からの見晴らしはよく、この季節なら一面のコスモスを眺めることができる。 コロのお目当てはその景色と花の香りなのだ。
「見えてきたな。コロ、もう石炭を入れなくていいぞ。」
「は!了解です。少尉殿!」
眼前に見えてきた丘の景色を確認すると機関車をゆっくりと減速させた。レールと車輪が重なることで起こる摩擦の音を聞きながら思った。平和がなによりであるということを。
◆◇◆◇◆◇
丘の周囲にはすでに先客達がいた。おそらくは遠足中の尋常小学生の学徒達であろう。彼らは丘の上で停車した機関車を見るなり興奮した様子で駆け寄ってきた。口々にカッコイイだの、凄えと言っているのを近くで聞かされるとこちらとしてもなんとも言えないむず痒い気持ちになってくる。
「私達にもあんな時期があったのかね。」
「はい!なんといっても機関車は皆の憧れですからね!」
コロは彼ら同様になぜか興奮ぎみにそう答えると子供達に手を振った。まったくこの子供好きが。私は苦笑いしながらぽつりと呟いた。
「彼らや君の純粋さが時折羨ましくなるよ。」
すでに子供達に夢中のコロには私のつぶやきは聞こえていなかったようだ。私は溜息をついた後に学徒達の背後に引率している女性の姿を見受けると軽く会釈した。理知的な雰囲気の物腰の柔らかそうな女性だった。彼女は控えめに会釈を返した後に話しかけてきた。
「こんにちは。お仕事ご苦労様です。」
「こんにちは。先生。今日はみんなで遠足ですかな。」
「ええ、とても天気がよかったものですから。あの、お急ぎでなければ機関車を見学させていただけませんか。」
「はは、構いませんよ。どうせ隣町に積み荷を運ぶだけの気ままな仕事ですから。なんなら皆さんを乗せて軽く走っても構いません。」
私が快く承諾すると子供達から歓声があがった。
私は極力笑顔を絶やさないようにしながらコロに呼び掛けた。
「コロ。リムリィはどうしている。」
「はい。後部車両で掃除をやってると思いますが。これだけ時間がかかってまだ戻らないということはいつも通りにモップの水をひっくり返していますね。」
「またか。あのドジ娘め。すぐに呼び戻して学生さん達に車内を案内するように伝えなさい。」
それだけ伝えるとコロは怪訝そうな顔でこちらを見た。
「…あの、子供嫌いな少尉殿がこんなに親切なのって逆に珍しいですね。」
「はは。私はいつだって親切さ。耳を澄ませてごらん。」
コロは私の言われるままに耳をピンと張ると耳を澄ませた。そして驚いてこちらを見た。
「聞こえるだろう。町のほうから警報が鳴っている。彼らを乗せたらすぐに発車するぞ。」
私の言葉にコロは緊迫した表情で敬礼した。私は帽子の鍔を真っすぐに直すと同時に弛んでいた気持ちを戦時下のものに切り替えた。