曇り時々豪雨ところにより蛾(5)
「ちはや」は鱗粉の真っただ中を突っ切ると駅舎に停車した。少尉は客車両に集めた乗員に懐中時計を見せると説明を始めた。
「いいか。ここから先は時間との勝負だ。すでに240mm列車砲の発射予定時刻まですでに30分程度しかない。この時計に針が14:00となったと同時に砲撃が行なわれた後に爆弾が投下される。総員、時計を合わせろ。」
防護服に身を包んだ乗員達は緊迫した面持ちでその説明を聞きながら自分たちの所有する時計の時刻を少尉が示す時刻通りに合わせ直した。わずかな狂いが命取りになるからだ。
「ここから先は各々の行動の誤りが全員の命取りになると知れ。」
少尉の檄にその場にいた全員がその場で敬礼した。もともと乗員達はコロも含めて少尉の部下であった人間たちである。少尉が列車に配置転換された時も各々が転属願いを出して少尉についてきた男たちである。いわば少尉に心酔した人間たちであった。だからこそ今回の任務にも反発するものなどはいなかった。少尉はそんな頼もしくも愚かしい乗員達の面持ちを見渡した後にため息をついた。
「まったく馬鹿な奴らだな。今回の任務は強制ではなく任意だといったはずだろう。」
任意ということは拒否することも可能だったはずなのに誰一人欠けることはなかった。
「なあに、普段の戦闘に比べればなんてことありませんぜ。」
「違いない。今更ですよ。少尉殿についていく時点で行先は地獄しかないことは分かり切ってるんですから。」
「私は地獄の獄卒か。」
少尉の軽口に乗員達はどっと笑った。一人一人が誇りを持ってこの列車に乗っている、そんな面持ちであった。
「確かに地獄だ。」
少尉は苦笑いした後で表情を引き締めた。
「行くも地獄、帰るも地獄。同じ地獄ならば笑って死んでやろうではないか。」
そういって少尉は引きつった凶悪な笑みを浮かべた。
◇
少年は遠くで列車の汽笛のような音を聞いたような気がした。とうに避難は終わっている。列車が駅にいるはずがないのだ。幻聴だ。少年はそう思いながらも母に尋ねた。
「ねえ、今、列車の汽笛の音が聞こえなかった。」
「え、聞こえたかしら。」
そう言って母親は耳を澄ませた。だが、少年が言うような音は聞こえなかったようである。
悲しそうに首を横に振った。
「そっか、そうだよね。」
母の言葉に少年は気落ちした。確かに電話で救助を頼んだが、電話の途中で音信不通になった。以降、電話をしようとしても繋がらなかった。原因は分からないがこの建物自体が停電しているようだ。助けを求めたが、本当に来るのだろうか。そう考えると次第に不安になってきた。その時だった。階下で何かが扉を開けた物音がした。今度は幻聴ではない。何者かが建物の中に入ってきている。
「助けに来たぞ、だれかいないか。」
誰かが大声で怒鳴っているのがわかった。少年は安堵で涙目になりながらも叫んだ。
「ここにいます。」
「待ってろ、すぐに行く。」
階段を登ってくる数人の足音が聞こえてきた。その後にすぐ扉が開かれた。入ってきたのはガスマスクと防護服に身を包んだ男たちであった。助けが来た、安堵した少年は男たちに駆け寄ろうとした。
「来るな、来るんじゃない。」
慌てて男の一人がガスマスクを取って叫ぶ。それは少尉だった。
「どうして。」
困惑する少年に少尉はできる限りの笑顔、見るものにとっては威嚇にしかみえない獰猛な表情で説明した。
「俺たちの服は毒の鱗粉に触れている。万が一のことがないようにそのままで接触しないほうがいいんだ。」
男はそういって袋を取り出すと中身を取り出して床に滑らせるようにして少年のほうに投げつけてきた。
「それは防護服だ。君とお母さんの分がある。急いでそれを着ろ。それを着たらここから連れ出してやる。」
「わかりました。」
「時間がない。5分程度で着替えろよ。」
少尉の言葉にうなずくと少年は母親に防護服を着せ始めた。
◇
母親に防護服を着せた後で自らも着終え終えた少年を連れ立って少尉たちは建物を後にした。周囲の視界は毒の鱗粉のせいか真っ黄色である。視界にあるものすべてが有害なものだと思うとぞっとしなかった。駅舎までたどり着いた時、遠くのほうから轟音が鳴った。その音に少尉は叫んだ。
「総員、走れ。」
少尉が叫んで走り出すとあとに続く者たちも走った。ガスマスクをしながらの全力疾走は困難なものであったが皆必死に走った。少年の母を背負ったものも中にはいたが、遅れることはなかった。というより遅れるわけにはいかないことを理解していたからだ。そうこうしないうちに遠くのほうで何か大きな物体が落ちた轟音と振動が起こった。
「急げ、早く列車に乗るんだ。」
少尉は全員を急かせて列車に乗せていく。そして最後の人間が載り終えるのを確認すると怒鳴った。
「出せっ。」
少尉の声と共に「ちはや」は汽笛を鳴らして動き始めた。動き出してからの数秒がこれまでになく長いものに感じられる。くそ、初速がもっと早ければ、少尉は心の中で毒ついた。少尉の焦りに忠実に応えることはなかったが、「ちはや」は徐々にその速度を上げていき、やがて最高戦速となった。
「いいぞ、行け!」
少尉の声に呼応するかのように「ちはや」は走った。もう少しで街を抜けられる。そう思った矢先だった。同時に上空から何かが飛んでくる音が聞こえてきた。少尉は上空を見た後にぞっとなった。遠目から見えたそれは戦闘機を伴った王国の爆撃機だったからだ。
「早すぎるだろう、あの馬鹿ども、やめろやめろやめろ、もう少し待て。」
誰に言うでもなく少尉は呟いた。あれが飛んできたということはすぐに爆弾が投下されるということだからだ。
「くそったれが。こうなれば最大戦速のまま突っ切るしかない。」
少尉は普段絶対に祈らない神に祈りをささげた。神様、ここで死んだらあなたの首をかき切りに参ります。それが嫌なら助けてください。それは祈りではなく脅迫であった。その直後、背後から爆発が起きた。爆風と熱が追跡者のごとく「ちはや」の背後からも迫ってくる。
「少尉殿、後ろから爆風が迫ってきます。」
「見ればわかる。ここで死んだら全員、閻魔に喧嘩を売りにいくぞ。」
半ば本気で少尉は怒鳴った。その冗談に笑って答えるような肝の太い人間は残念ながらその場にいなかった。




