曇り時々豪雨ところにより蛾(4)
蛾は上空をホバリングしながら鱗粉をまき散らしていた。鱗粉をまき散らすのには目的があった。自身の住みやすい環境を作るためである。清浄な空気というのは人間が暮らすには最適なものであったが、蛾にとっては害悪そのものでしかない。だからこそ自分の住みやすい環境を整えるために鱗粉をまき散らすのだ。行っていることは縄張りづくり、ないし巣作りに近い。蛾にとっては生理的な本能に近かったが、蛾に選ばれた街の住民はたまったものではない。蛾の鱗粉は猛毒だからだ。人間が肺に吸い込むと一度吸えば呼吸困難を起こし、二度吸えば全身の麻痺を起こし、三回吸えば死に至る。生体生物兵器とでもいおうか。人為的に作られたものでない分たちが悪い。実際に戦時下では蛾の群れによって大都市が壊滅したという記述も残っている。ほかの混虫に比べて危険すぎる存在のため、蛾の出現の際は率先して殲滅を行うという対応が少尉たちの国だけでなく万国共通の認識になっていた。発見次第に殲滅、それが常となっていたため蛾が出現することはほかの混虫の出現に比べて稀であった。それが今回現れたのは街にとって不運でしかなかった。
◇
少年は街にある小さな家で母親と二人で暮らしていた。父親は先の大戦で徴兵されて戦死し、国から支給されたわずかばかりの戦死者保険によって生計を立てていた。戦争の最中で足を悪くして自由に歩けない母親の面倒を見ながらの生活はけっして楽なものではなかったがくじけることはなかった。あの蛾が現れるまでは。蛾が近隣で現れたことを知った街の人々は我先に避難を行った。少年も逃げ出そうとしたが足が悪い母親を連れ出そうとして逃げ遅れた。鱗粉が蔓延する前に母親を連れ出した彼は街にある軍事施設に逃げ込んだが、すでに外は鱗粉が蔓延して逃げ場がなくなっている。不幸中の幸いだったのは施設の中に電話が置かれていたことだった。蜘蛛の糸を手繰り寄せるような思いで手近にあった番号に電話をかけて救助要請を行ったわけだが、本当に救助が来るのか不安を感じていた。
「すまないねえ、私がいなければ。」
「なにいってるんだよ、母さん。」
申し訳なさそうな母親を不安にさせないようにと少年は努めて明るく振舞った。確かに蛾から逃げようとする際に母親を見捨てるべきだという考えが全く頭をよぎらなかった訳ではない。だが、それをできるほど少年は薄情ではなかった。きっと助けは来てくれる、少年はそう思いながら窓から外の風景を眺めた。雨が降り続ける中でも外は鱗粉で真っ黄色に染まっていた。
◇
「ちはや」がなおも降り注ぐ豪雨の中を疾走していた。目的の街までたどり着く間に少尉は乗員全てにガスマスクと科学兵器用の装備の着用を命じた。自身もコロと共に着替えながらぼやく。
「士官学校の訓練以来だぞ、こんな服装は。」
「普段使いませんからね。」
「あの頃は士官候補同士でお互いの恰好をバカにしあったものだが。何が役に立つのかわからんもんだな。」
着替えを終えて全身を防護服とガスマスクをつけた少尉の姿はどう見ても不審者にしか見えなかった。蛾の鱗粉は器官からの吸引で影響が出るだけでなく皮膚への接触でも悪影響を及ぼすために万全の備えが必要なのだ。
「少尉殿。」
防護服を着るのに苦心しながらもなんとか身につけたコロが尋ねる。
「なんだ。」
「ふと思ったのですが、蛾の鱗粉というのは本当に害悪なものなのですよね。」
「そうだな。」
コロの言いたいことをなんとなく察しながらも少尉は頷いた。
「これだけ致死性の強いものであれば軍事的に悪用する人間が出るのではないですか。」
「もうあったよ、それは。」
少尉の言葉にコロが驚く。
「驚くことはないだろう。アイゼンライヒの滅んだ理由がそれだ。」
そういって少尉は説明した。軍事国家であるアイゼンライヒは大量殺戮兵器を開発して世界を征服しようとした。実際、西大陸の小国がかの国の兵器により滅んでいる。それを脅威と判断した周辺国家が同盟を組んで成立した連合国軍とアイゼンライヒとそれに組する国家に分かれて争い合ったのが先の境界戦争である。アイゼンライヒは滅びたが、その戦争の最中に現れた空間の裂け目から混虫が現れて世界的な混乱に陥ったのはコロも知っている話であった。
「その時に使われたのが蛾の鱗粉を使った超広域爆弾であったといわれている。知っているものは少ないがな。」
「そんな危険なものなんですか。」
「ああ、だから蛾は優先して殺す。それはどの国の軍であっても共通の認識だ。」
少尉はそう言って蛾がいるであろう方向を睨みつけた。




