曇り時々豪雨ところにより蛾(3)
「くしゅんっ。」
リムリィは大きなくしゃみをした。
「風邪ひいたかな。」
そう言って彼女は鼻をすすった。まさか少尉とコロに噂をされているとは思いもよらないようである。少尉たちが留守にしている間に彼女は車両内の清掃を行っていた。鼻歌交じりでモップにバケツを突っ込んでは水浸しの状態で床をゴシゴシと磨いている。少尉が横で見ていたらせめて水切りしてから始めろと叫んでいただろう。もしくはこんな雨の日にやるんじゃないと怒鳴ったかもしれない。そういうところで気が利かないのがこの残念な少女の特徴であった。そして床一面を水浸しにしたところで少尉たちが戻ってきた。少尉は客車両に入った瞬間に水浸しの床に足を取られてすっころんだ。見事な罠だった。もっとも罠を張った本人は青い顔をしていたが。
「りいむりぃいい!」
青筋を浮かべながら少尉は立ち上がってリムリィに詰め寄った。リムリィは青ざめながら後ずさった。自分がまたしでかしてしまったことは気づいているのだろう、その目には涙を浮かべている。
「何か言い残すことはあるか。」
「あの、えっと、おかえりなさいませ。」
「ごめんなさいだろう、そこは。」
少尉は激怒しながらリムリィにアイアンクローをかけた。リムリィが激痛でのたうちまわる。そんな二人の様子にため息をつきながらコロが横槍を入れる。
「少尉殿、そんなことをしている場合ではないかと。」
「ん、そうだったな。この阿保娘のおかげで大事なことを忘れるところだった。」
少尉はリムリィの頭を掴んでいた手を放す。
「おい、リムリィ、出かけるぞ、準備しろ。」
そういってリムリィの何かを投げつけた。キャッチし損ないかけたが、なんとか受け取ったリムリィはそれが何かまじまじと見た。
「あの、これはなんですか。」
「見ればわかるだろう、ガスマスクだ。」
困惑するリムリィに淡々と少尉は答えた。
◇
避難誘導を終えて誰もいなくなった街から電話がかかってきた、それが騒ぎのきっかけだった。電話をしてきたのは幼い子供だった。足の不自由な母親を連れていた彼は避難に間に合わずに建物の中に逃げ込んだ。その間に外に出れないくらい毒の鱗粉が蔓延してしまい、逃げ出せなくなっている状況である。電話を受けた通信兵は皆にその状況を説明した。
「まずいだろ、それは。」
成り行きで話を聞き終えた少尉は爪を噛んだ。それにこはねも頷く。
「どういうことですか。」
「長距離射撃が成功して蛾を墜落させた直後にあの街一帯を焼き払うからだ。そうだろう。」
少尉の言葉にこはねは頷くと続ける。
「蛾の毒は死んだ直後が一番拡散します。それを防ぐために爆弾を使って毒を焼き払うのが常なんです。」
今回の作戦にもその方針は取り入れられているようだ。爆弾が使われればその子供も母親も焼け死ぬのは間違いない。
「見殺しにするんですか。爆弾を使わない方法があるのではないですか。」
顔を青ざめさせながらコロが問いただす。それに答えるものはいなかった。
「落ち着け、コロ。どうしようもない。軍上層部の決定には逆らえない。」
「しかし少尉殿。」
コロが反論しようとするが、それ以上喋らないように少尉は制した。
「もっとも、蛾が落ちて爆弾がくるまでにその母子を救出すれば逆らったことにはならない。」
少尉はそういって不敵に笑った。話を聞いたこはねは目を見張った。この人は何を言っているのか、それがどれほど危険を伴うのかわかっているのか。こはねの視線に気づいたのか、少尉はばつが悪そうな表情であさっての方向を見ながら言った。
「どうにも私は英雄というやつらしいからな。」
◇
そんな経緯があり、「ちはや」は豪雨の中を疾走していた。少尉は無言でこれから行く街の地図を眺めていた。ふと視線を感じた少尉は視線を向けているコロに対して問いかけた。
「何か言いたそうだな。」
「いえ、少尉殿らしいと思いまして。」
「何がらしいだ。らしくないことばかりだよ。」
そう言って少尉は苦笑した。自分は臆病であることを少尉は自覚していた。危険な場所にはあえて近づかない、火の粉がかかれば振り払うが自分からは飛び込んでいかない。それが基本的な行動方針であった。今回の行動は完全にその行動方針からずれている。
「こはねといったか。あいつがいかんのだ、人を英雄などと呼びおって。そんな風に呼ばれたらそう振舞うしかないだろう。」
そう結論付けることで少尉は自分に言い訳をした。あるいは気恥ずかしさもあったのかもしれない。そんな少尉をコロは素直に尊敬した。この人はこんな天邪鬼な態度をしながらもいつも人を守るために行動している。自分の上官がこの人で良かった、コロは改めてそう思った。




