果たせなかった約束 伝えられなかった言葉(9)
狸大吾を亡くしたことで少尉は前よりも塞ぎこむことが多くなった。だが、それでも戦場は感傷に浸る暇すら与えてはくれなかった。そんなある日に紅虎が険しい顔をしながらやってきた。彼女はやってくるなり吐き捨てるように告げた。
「第17部隊の生き残りが逃亡しようとして陸軍の奴らに蜂の巣にされた。敵前逃亡は例外なく銃殺だとさ。奴らはこの戦場から私たちを逃がすつもりはないようだ。」
紅虎はそう言った後に小声で「…人間どもが。」と吐き捨てた。どうにも無意識だったようで少尉の前だったということを思い出して慌てて謝罪する。
「すまない!あんたのことを言ったわけではないんだ。」
「構わないよ。俺も全く同じ感想を抱いたのだから。できることなら可神の奴の腸を引きずり出して鳥の餌にでもしてやりたいところだ。」
この時になって少尉はようやく可神の狙いに気づいていた。奴は旅順を攻略するつもり等毛頭ない。旅順攻略にかこつけて孤狼族の軍勢を根絶やしにするつもりだ。もう少し早く気づいていれば孤狼族を率いて反乱を起こしていた。だが、それを行うには兵たちはあまりに疲弊していた。疲れ切った目で少尉は周囲を見渡した。散々な状態だった。野営地では皆がなにかしらの傷を負っている。まだ動けるものはいい。四肢の欠損のために後衛に簡易的に作られた野戦病院に入れられている孤狼族も少なくないのだ。病院のベッドに入れずにそのまま死を迎える兵も多い。この場所はあまりに死に溢れていた。少尉の哀しみに溢れた視線に気づいた紅虎はそれを拭い去るように少尉の背中を大きく叩いた。
「気に病むな!あんたは本当によくやっている。それは戦っている孤狼族みんながそう思っているよ。なあ、そうだろう、みんな!」
紅虎の言葉に呼応するかのように歓声があがった。世辞ではなく少尉の指示のおかげで生き残れたと感じているものは多い。それがなければ当の昔に全滅していたはずだ。三分の一の兵力を疲弊しているとはいえ半数以上はまだ旅順に大打撃を与えられるだけの戦力を残している。紅虎の慰めに力なく応じた少尉はその晩に今までにないくらいにうなされた。
死んだはずの狸大吾や兵士たちが暗闇の中でじっとこちらを見ているのだ。なぜお前は生き残っているのだ。私たちを殺しておいて何故のうのうと生き残っているのだ。狸大吾と他の孤狼族の顔や体はいつしか溶けて髑髏となっていた。舌をなくした口がそれでもカタカタと動きながら少尉に迫る。数えきれない骸骨に纏わりつかれた少尉は絶叫をあげて目覚めていた。体中に凄まじい汗が流れていた。恐怖と罪悪感で目からは涙をとめどなく涙が溢れる。今のは夢なんかじゃない。現実だ。自分はまさしく孤狼族を死地に追いやる死神なのだから。追い詰められた少尉は傍らに置いていた短銃で自らのこめかみを撃ち抜こうとした。飛びついてそれを制止したのは孤凜だった。
「何をしているのですかっ!!」
天幕の中から聞こえてきた絶叫を不審に思って駆け付けてくれたのだ。孤凜に止められて死ぬことすらできなかった惨めな男はその場で泣き崩れた。その時になって孤凜は少尉が追い詰められて限界であったことを悟った。無理もない。あまりに多くの同胞をその采配で殺してきたのだ。責任感が強いからこそ罪悪感をその身に一心に受けている。号泣する少尉の頭を孤凜は両手で優しく抱きしめた。そして少尉が落ち着くまで静かにその髪を撫で続けた。少尉がようやく泣き止んだ頃に孤凜は優しく語りかけた。
「泣き虫なお父さんだと生まれてくる子も心配しますよ。」
何を言われたのか一瞬分からずに少尉は驚いて孤凜の顔とそのお腹をまじまじと見た。孤凜は恥ずかしそうに頷いた。余程の阿保面をしていたのだろう。少尉は茫然と「…俺に子ができたのか。」と呟いていた。孤凜は自分のお腹を愛おしそうに撫でながら囁いた。
「そうですよ。この子のためにも必ず生きてこの地獄から抜け出しましょう。」
◆◇◆◇
その頃の作戦本部では可神大将が憎々し気に旅順要塞を眺めていた。時間が掛かりすぎている。そう思った。砦を陥落させることにではない。予想以上に孤狼族が死滅するのに時間が掛かりすぎているのだ。全ては孤狼族を指揮している『白神』の名を継ぐ青年将校のせいだ。忌々しい。そう思いながら可神は手に握りしめた掌サイズの水晶髑髏を見た。
この髑髏こそが所有者を次の次元の生命体に昇華することができるアーティファクトだ。死を超越することで『不死者の王』として現世に降臨できる。そのためには10万の生贄が必要なのだ。激化する世界戦争に打ち勝つためには常識を打ち破る戦闘兵器が必要だ。彼は崇拝する狂科学者ベルゼベードによって唆されていた。孤狼族は彼が高次元の生命体に昇華するための生贄に過ぎない。待ち遠しいが、いつまでも待って万が一に旅順を攻略されることがあれば目論見自体が水の泡となる。手を打つ必要がある。可神はそう企んだ。




