果たせなかった約束 伝えられなかった言葉(7)
旅順。それはフェンリル神聖帝国本土を守る海に面した難攻不落の砦であった。
これまで蒼龍王国の軍勢が何度攻めても崩すことのできなかった砦の攻略に選ばれたのは全国から強制徴兵で集められた孤狼族の兵士達であった。その数、実に150000人。
本土に住む孤狼族のおよそ三分の二以上の数が旅順攻略のために集められた。それを指揮するのは陸軍の最高指導者の一人である可神大将であった。はじめて可神を見たときにいけ好かない男だと思った。なぜならば全軍が整列する中で軍紀違反をした孤狼族の配下を皆の前で見せしめのために鞭で打ったからだ。何度も何度も失神するまで許しを乞うても行われた虐待に多くの孤狼族は反感と恐怖を感じた。そんな彼らに可神は平然と言い放った。私に逆らえば貴様らもこうなる。そうなればこんなものでは済まさないと。
このような人間が自分たちの上に立つのかと思うと眩暈がしそうになった。それは少尉の部隊の孤狼族も同じであった。あのような男の指示に従えばあっという間に全滅する。そんないやな予感がする中でその日は全員解散になった。
その日の夜は皆の口数が少なかった。これからのことを思うと先が思いやられる。そう思ったのだろう。そんな中で少尉の部隊に声をかけてきたものがいた。孤狼族の精鋭である黒炎隊を率いる「紅虎」であった。それまで互いに面識がなかったのだが、その噂は聞いていた。一騎当千の活躍を見せる孤狼族の女武者の噂は少尉のみならず陸軍ならば誰もが語り草にしていたからだ。彼女は酒の入った大徳利を下げてやってくるなり少尉の顔を覗き込んだ後に人懐っこい笑みを浮かべた。
「あんたが噂の獣使いだね。あたしは紅虎。黒炎隊を率いている。」
これが噂の女傑かと思いながら少尉は会釈した。想像とは違って華奢な体をしている。だが間違いなく歴戦のつわものが放つ独特の雰囲気を放っているのをひしひしと感じた。そんな彼女の側をぴったりとくっついているのは4歳くらいの孤狼族の少年だった。子供連れとは戦場には不似合いだな。そういって子供を見ると目線があった瞬間に紅虎の後ろに隠れてしまう。
「こら、コロ。ちゃんと挨拶しなさいって。かあちゃんいつも言ってるだろう。」
「……だって、このお兄ちゃん怖い。」
会うなり見知らぬ子供に怯えられる自分に少尉は少なからずショックを受けた。そんな彼を傍らに座っていた孤凜が慰めると仲間たちから大きな笑いが起こった。
「へえ、噂通りにみんないい顔してるねえ。」
周囲を見渡して紅虎は満足げに笑った。そしてその場にどかりと座り込むとそれが自然なふるまいであるかのように酒盛りに加わった。そして自分が持ってきた大徳利の口を少尉に差し出す。出された酒を飲まないのは失礼に当たる。そう思って注がれた酒をぐいと飲み干すと喉が焼けるようなきつい酒だった。むせ返りそうになるのをなんとか我慢すると紅虎は豪快に笑った。
「いい飲みっぷりだ。男っぷりがいい奴は好きだよ。あんたみたいなやつが大将だったらあたし達も安心して戦えたんだがな。」
今の総大将は駄目なのか、聞くものが聞けば上層部批判にも捉えかねられない危険な質問を少尉はぶつけていた。なんとなく紅虎は本音で話してくれそうな気がしたからだ。紅虎はぐいと酒を飲みほした後に吐き捨てるように言った。
「あいつは駄目だ。あたしらのことを使い捨ての駒としか考えてないよ。」
紅虎の話では可神という男は孤狼族の中では有名な亜人差別者なのだという。配下の獣人を虐め殺すことはざらである。亜人の命などそこらの羽虫程度にしか思っていないのだ。そんな男が今回の旅順攻略の際に孤狼族を使うように進言したのだという。幾度にも渡る攻略失敗で指揮を執りたがる人間がいなかったとはいえ作為的なものを感じる。紅虎はそう言った後に傍らの息子の頭を撫でた。
「あいつの指示系統には何か裏がありそうだ。だから奴の指示は極力受けたくない。軍の中で力を持たない孤狼族のあたしたちには信頼できる人間の指示が必要なんだ。そこで提案だ。あんたが旅順攻略の作戦立案をしてくれないか。」
紅虎の提案に少尉は驚いた。自分のような若造が大軍団の指揮など取れるわけがない。そういって辞退しようとする少尉の股間を紅虎は無造作に掴んだ。
「この話を聞いても金玉が縮まなかったのはあんたが初めてだ。あんたならやれる。ほかの傭兵団の師団長達もあんたの指示ならやれるって言ってるんだ。」
少尉はなおも躊躇った。そんな彼の後押しをしたのは部隊の仲間たちだった。
「少尉殿、やりましょうよ。」
「…おまえなら…できる…。」
「この話は仕方ないで済ませてはいけません。受けないなら明日からご飯抜きです。」
「若!…いえ、少尉殿。今こそ白神家当主の威厳を示してください。」
困り切った少尉は助けを求めるように孤凜を見た。孤凜は意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「私の旦那様になる人はこんなことくらいは当然に引き受ける方ですよ。」
最後の救いを絶たれて少尉はうなだれた。だが、ここまで頼られて引き受けないのは男として何か間違っているような気がした。だから心を決めて引き受けたのだった。




