侵食の回顧録
大学生になって一人暮らしを始めて二年が過ぎたある日、俺はバイト先のコンビニで接客中に変な婆さんに会ったんだよ。何というか上手く言えないんだけど、とにかく不気味な感じだったんだよ、その人。
赤ん坊二、三人くらいなら入りそうな鞄を提げていて、それから遠目からでもわかるくらいの度の強いメガネをかけていた。着ている服は純和風なきれいな着物で、立ち振る舞いも陰気な感じとは程遠いハキハキとしたものだったんだけど、表情が仮面でも着けているのかってくらいピクリとも変わらないんだ。貼り付いたような笑顔のまま、話す時は口だけが動いているんだ。
目が笑っていないとはこのことを言うんだと思った。
俺の後輩の相方がレジを離れて俺一人になった頃合いを見計らってその婆さんはレジまで商品を手にせずにやってきて、徐に鞄の中身を取り出して顔のない人形をレジに置いて言ったんだ。
「これを受け取ってもらいたいのです」
ヤバイ人だって直感で判断できたよ。その人は俺が困りますって言っているのを聞かずにそそくさと店を出て行ったんだ。
今からする話は、俺がその人形を持って帰ってから起こった出来事についてだ。正直、誰かに話さずにはいられない。だけど、俺の話を聞いてくれるアンタ、気分が悪くなったりしたらいつでも言ってくれて構わない。すぐに話はやめるからさ。俺もこの話は思い出すだけで……ああ、いや、ごめん。それじゃあ、始めるからな。正直に言うと、ちゃんと最後まで話を聞いて、他の人にも伝えてほしい。
見れば見るほど不安な気持ちにさせる人形だと思った。
大きさは四十センチ前後で、触った感じが人肌に触れているようだった。血色は良い。関節のつなぎ目などは見えないけれどよく曲がるし、指もきちんと第一関節、第二関節も曲がる。だけど、顔だけがない。体つきから性別までは判別できなかった。子供のようにも見えるし大人にも見える。その点がまた、気持ち悪かった。
この人形を一言で言い表すならそのまま小さくなった人間という感じだ。
まあ、なりゆきで受け取ってしまったが、しばらくしたら実家にでも送ろう。最近はレポートの提出に追われているせいで時間がないからだ。
俺はその人形を適当な棚の上に置いておいた。気にしなければ案外怖いものでもなかったので、数日間ひたすらレポートを書いている間は人形の存在を忘れていた。
「あの、お釣り足りないんですけど」
最近バイト先でお客さんにそう言われることが多くなった。俺はそう言われる度にすいませんと言って慌てて足りない分を渡した。
初めのうちは後輩の相方の西君も店長も黙って見過ごしていてくれていたが、お釣りを多く渡したり足りなかったりといったことが連続で起こった。それには流石に西君も痺れを切らし「もういいっスよ! オレがやりますから!」と言って強引に休憩室に連れられてしまった。
疲れているのだろうか?何だか最近はよくぼーっとしてしまっている気がする。
この日はいつもより早めに上がらせてもらい、レポートを書くのも少し控えめにして午後十時には寝床についた。
翌日、目を覚まして時計を確認すると昼を過ぎていた。
これはマズイ! 授業に思い切り遅れてしまっている! と思うのが普通だ。俺も普段はそうだ。だけど、その時はそう思うことができなかった。端的に言うと、思考が停止したんだ。
部屋が滅茶苦茶に散らかっていた。
本棚の本は一つ残らず床に落ちており、ダイニングに置いてある皿などもバラバラに砕け散っていてひどい有様だったのだ。
まさか泥棒が俺が眠っている間に堂々と入ってきたのか?
俺はベッドから飛び起きてまずは通帳の有無を確認した。火事になった時にはそれだけでも持って逃げようとするものだからな。そう思いながら通帳をしまっている引き出しを開けると無事、通帳はあった。
その他の貴重品も部屋を片付ける過程で有無を確認した。授業そっちのけで部屋を片付け終え、盗まれたものは何一つないということがわかった。
部屋に侵入したのは泥棒ではなかったということか? 目的がわからない相手となると、泥棒よりもずっとタチが悪い。新手のストーカーか何かか?
この時、警察に通報してもよかったが、俺はひとまず様子見ということで部屋を後にして大学へと向かった。
目覚めたら部屋が散らかっていたあの日からちょうど一週間が経った。
そして、眠っている間に部屋が滅茶苦茶になったとまではいかないものの、眠る前と後では部屋の様子がどこかおかしいということに気が付いた。それも日を追うごとに、その違和感がする箇所は一点に絞られていっているように感じた。だけど、その違和感は非常にぼんやりとしたもので、友人に相談をしてみても気のせいだろうと言われ、俺はそれから言葉を返すことはできなかった。
だけど、あることに気が付いた。あの顔のない人形の位置だけは全く変わっていなかったのだ。思い返せば、初めの滅茶苦茶に部屋が散らかっていた時もあの人形のことを気にしたことはなかった。
呪いだと思った。
あの人形は何か悪いものを引き寄せる力があるのかもしれない。漠然とした印象だが、とにかくヤバイとだけこの時は思っていた。
俺はこの日、不本意ではあるが人形をリュックの中に入れて一日かけてあの婆さんを捜しに行った。まずはバイト先のコンビニ周辺から。俺に人形を渡したきりあの婆さんはコンビニには現れなかったが、手掛かりと呼べるものがほぼゼロに近い今、とにかくそうして虱潰しに思い当たる場所で聞き込みをする他なかった。
俺はコンビニ周辺の家の人に顔のない人形を見せ、婆さんにあの時会った時の身体的特徴を聞いて回った。
しかし、みんな人形を見ると引きつった顔をしてそんな不気味な人は知らないと言った。
バイト先の後輩の西君に電話をかけてあの時の婆さんを知っているかと聞いたが、そんなしょうもない用件で電話をしてこないでくれとひんしゅくを買ってしまった。店長にも同様の反応をされた。
俺は途方に暮れた。実家に送ろうかと最初のうちは考えていたが、こんな危険な代物を送っては家族が危ない。婆さんに人形を返して詳し良い話を聞きたかったが、隣の町や警察署に足を運んでみてもあの婆さんの居場所は掴めなかった。
こうなれば眠る度に部屋がどこかおかしくなっている現象から逃れる方法は一つとなった。
人形を捨てるしかない。そう思って、一日中町を散策して帰るついでに近所のゴミ捨て場に人形を捨てた。誰かがこれを拾って俺と同じ目に遭おうが知ったことではなかった。
この時の俺は、超常現象の類は全部インチキだと思っていたにもかかわらずそういった現象に純粋に恐怖していた。だからこそ、他人がどうなってもいいなどという無責任な判断に至ったのであろう。
これでやっと解放される。そう思って俺は寝床に着いたが、漠然とした不安だけは完全に拭えなかった。よくある怪談話では捨てては戻ってくる呪いの人形というのがあったからだろう。
そして案の定、俺の不安は的中してしまった。
よくある怪談話のように、捨てたはずの呪いの人形はもとの棚の上に置いてあった。
絶対におかしい。それにまた部屋がどこか変わっているように思えた。それもただ一か所だけ。小、中、高の卒アルを仕舞ってある場所だけ動かしたような痕跡があった。卒アルを盗まれたわけではなかったが、何故この場所だけが動かされたのか俺には理解できなかった。これも人形のやったことだというのなら、ますます不可解で気味が悪かった。
俺はこの日はバイトを休んで人形を持って神社に行くことにした。人形を持ち歩くことに恐怖はあった。何かしらの魔力か何かで事故に遭わされるかもしれないといった恐怖からその他諸々の考え付いた現象には全部恐怖心を抱いた。だけど、何もしないわけにはいかなかった。神社のお祓いなど嘘くさいと思っていたけれど、頼れるものには何にでも頼るしかなかった。
「うっわ……よくわかんないけどキモイっスね……これ」
町の比較的大きな神社に着くと、巫女さんかと思われる二歳くらい年下の女の子にどういったご用件で? と聞かれ、俺はリュックを開けて例の顔のない人形を見せた。
女の子は眉をしかめてそう言い、俺がお祓いをしたいのだと言うと、本殿まで案内してくれた。
女の子の父親だという神主の男性に人形を見せると、娘と同じような顔をして一語一句違わずに「うっわ……よくわかんないけどキモイっスね……これ」と言った。こんなところでお祓いなど本当に大丈夫だろうか。
「お兄さん、これは一体どこで入手したんですか?」
俺はあの婆さんの身体的特徴を述べながらそれを入手した経緯を語り、またその婆さんについても知らないかと尋ねたが神主の方は知らない様子だった。だが、傍らにいた娘の巫女さんはハッと思いついたように言った。
「もしかしてその人、とにかくずっとすごい笑顔を保ってなかったスか?」
彼女の言葉に驚いてあの婆さんのことを知っているのか!? と詰め寄って聞いた。彼女はそんな俺に慌てたように答える。
「いえ、個人的に知っているわけじゃないんスけど、似たような特徴の人を見たんスよ……昨夜」
それは何時頃だと俺は聞いた。その時間は既に俺が眠った後の時間だったが、場所はこの辺りだった。
彼女の話を聞いた神主はいつからそんな時間に夜遊びをするようになったのだと娘を叱ったが、ただ小腹が空いてコンビニに行っていただけだそうで。
その時のことをより具体的に聞いてみると、あの婆さんはゴミ捨て場の辺りで目撃したという。
俺はひとまずお祓いを済ませてから彼女にそのゴミ捨て場まで案内してもらった。まさかとは思ったが、そのゴミ捨て場は俺が昨日人形を捨てた場所だった。
「こわぁ……これ、人形が呪われてるんじゃなくてそのお婆さんが呪われてるんじゃないんスかね?」
俺はどういうことかと質問した。
「わたし……見ての通り神社の生まれなんスけど、実際に怪奇現象的なものや幽霊が見えると言ったことは一度もなかったんっスよ。お父さんもそうなんスけど、世の中の現象は全部生きている人間によって引き起こされていると考えています。ですから、この場合は人形が勝手に動いたんじゃなくて、全部あのお婆さんがやったっていうことになるんじゃないっスかね?」
彼女はお祓いする相手を間違えたかなと首をかしげた。
「いや、ちょっと待ってくれよ。もし全部あの婆さんがやったっていうんなら、毎晩俺の部屋に侵入してんのはどう説明するんだ? 鍵は忘れずに掛けている!」
「いや、ですからそれは針金とかで何とかできますし……人形が全部やっていると考えるよりも現実味はあると思うっスよ?」
その通りだった。そういうことなら頼るべきは神社ではなく警察だ。俺は彼女に別れを告げて早速警察署に行こうとした。だが、彼女はそんな俺を引き留め、確たる証拠がなければ警察はきっと動いてはくれないと言った。ストーカー事件を減らすのが難しい要因スねと彼女は嘆き、俺はまた途方に暮れるしかなくなった。
この日の夜、俺が取った行動は眠らないことだった。玄関にはチェーンロックを掛け、人形は念の為あの神社に預けておいた。
すると、翌朝まで何もこれといった変化はなかった。途中、何度か眠ってしまいそうにはなったが、徹夜明けにくまなく部屋を漁ってみて、どこも変わった点はなかった。これは解放されたということなのだろうか? それとも今日だけたまたま何も起こらなかったということなのだろうか。ともあれ、俺はひとまず安心して体の力が抜けたようにベッドに倒れ込んだ。すると、いつもは起きていることに関しては得意なはずなのに、この時は最近追い詰められていたせいか、意識はすぐに遠のいて眠ってしまった。
そうして、ふと気が付くと時計の針は既に午後に回っていた。今回も学校に遅刻だった。慌てて準備をして自転車に跨った。そのまま大学に到着すると、友人の一人が俺を見て驚いた顔をして今日は休むんじゃなかったのかと聞いた。
「は?」
何を言っているんだコイツはとお互いに言わんばかりに見合った。何でも、今日の午前中に俺は目の前の友人に休むから教授によろしくとの連絡を入れていたらしい。
まさかと思って携帯の通話履歴を確認した。そこには確かに、友人の言った通りの時間に電話をかけていた。俺はそんなことをした覚えは全くなかったものの、ここに確たる証拠がある。
「大丈夫か? お前」
友人はそう言って次の授業に出て行ったが、俺はこの日、授業に参加する気にはなれず、結局そのまま帰宅することにした。
すると、あの違和感がまた部屋にはあった。俺が留守にしている間にまた卒アルを仕舞ってある場所に何らかの手を加えた痕跡がった。それだけではなく、俺の個人情報など、金目の物がある場所は一切触れられずに俺の情報に関する物がある箇所だけが何らかの手を加えた痕跡があった。
泥棒のやることではなかった。やはりあの婆さんが俺がいなくなったタイミングを見計らって何かやっていると確信した。どこからか見られている。あの婆さんに監視されている。そう思った。そうでないと徹夜している夜にだけ来なかったという点が説明できない。部屋の明かりは消していたのだから、外から監視しているのだとすれば俺が起きていることを知らずに部屋に入ろうとしたはずだ。となれば、考えられることは一つだけだ。
「うあああああああああ!」
俺は一心不乱に叫んで部屋を滅茶苦茶に漁りに漁った。監視カメラだ。あの婆さんはそれを仕掛けているに違いない。そうでなければ何度も都合よく俺のいない間に現れるわけがない。
俺は自分が狂ってしまったのではないかと思う程に叫んだ。何故俺がこんな理不尽な目に遭うのか、そういった怒りを声に乗せて、棚を倒し、机をひっくり返し、本を散らし、パソコンまで倒した。
しばらくそうしていると、突然ドアをガンガンと叩く音がし、しまいにはさっさと開けろクソ野郎といった罵声までが聞こえてきた。一旦落ち着いて玄関を開けると、そこには隣の部屋に住むオヤジが顔を真っ赤にして立っていた。
「ざけてんじゃねえぞコラァ! 先週もそうだがやかましいんじゃおんどりゃあ!! ナメとんのか青二才が!!」
そう怒鳴ってオヤジは俺に鉄拳を食らわせた。
しかし、俺は痛いと思うより先に、オヤジの言った一言が気になった。
「先週って……?」
「ああ? おめえいきなり夜中に部屋のモンをやたらめったらブッ倒したろ? それのこと言ってんだ」
「待ってください。それは俺じゃないんです。変な婆さんが」
「何わけわからんこと言うとんなら! 夜な夜な気持ちのワリィ人形持って帰ってくるキチガイが誰かのせいにして信じてもらえると思ってんのか!」
今なんて言った? 人形を持って帰ってくる? 俺が?
「ちょっと待て! 人形って何だ! アンタ何言って」
「しつこい!」
もう一発顔面を殴られ、荒っぽくドアを閉められた。
わけがわからなかった。夜、人形がやって来たのはあのゴミ捨て場に人形を捨てた時だけだ。婆さんが俺の部屋に侵入したものだと思っていたが、あのオヤジの言うことが本当なら人形をゴミ捨て場から拾って帰ってきたのは俺ということになる。
今度は叫ぶ気力はなかった。ただ薄暗い玄関の前で頭を抱えただけだった。
本当にわけがわからない。俺が勝手に狂っただけなのか? だけどあの時ゴミ捨て場に婆さんがいたという証言は何なんだ。本当に俺はどうしてしまったんだろう。
答えの出ない問題に頭を抱えていたところ、またインターホンが鳴った。あのオヤジだろうか? まだ殴り足りないのだろうか? 気が付くと口の中が鉄の味でいっぱいだった。それに気付き、痛みがやってくる。俺はインターホンを無視してトイレに向かい、口の中に溜まった血を吐き出した。すると、何度もインターホンが鳴り、扉を叩く音がした。
「おーい、いないんスかー? そっちから呼んでおいて留守とはひどいっスよー」
この声はあの巫女さんのものだった。彼女を呼んだ覚えはなかったが、とりあえずドアを開けてやった。
俺の顔を見るやいなや、彼女は驚いた顔をした。俺の顔はなかなかひどい状態に腫れているようだったが、そんなことはどうでもよかった。
「何しに来たんだ?」
「……へ? 何しに来たって……何言ってんスか」
彼女は不安げに首をかしげた。
「学校が終わってからでいいからあの人形を返してくれって電話してきたじゃないですか。びっくりしましたよ。問題解決の為に何か良い方法でも思いついたんですか?」
おかしい、ありえない。携帯の通話履歴に彼女の番号はなかった。いや、そもそも彼女と連絡先などは交換していない。何故だ。本当にそれは俺がやったことなのだろうか。
聞くと、俺は午前中に神社の電話番号に固定電話からかけたそうだ。俺はそんなことをした覚えなどないと言ったが、彼女は確かに俺の声で人形を返してくれと言われたらしい。それも、割とハキハキとして爽やかな声で。
「元気そうでしたから返してもいいかなと思ったんスけど……今は、全然そう見えないっスね……はは」
彼女はただならぬ様子を察知したのか、もう帰りますねと言って背を向けた。だけど、俺は彼女の肩を掴んで引き止めた。
彼女は怯えた様子で俺の目を見たが、俺にはもう怯えはなかった。
「その人形を始末したい、返してくれ」
その日の夜、俺は彼女を帰してから一人河川敷の橋の下まで人形を持ってやって来た。顔のない人形を草の生えていない地面に放り、オイルを人形に撒いた。そして、ライターをポケットから取り出す。
これで全部終わる。そう信じて、ライターに火を点けた。しかし、全ての元凶とも呼べるあの人物の声が背後から聞こえてきた。
「やめた方がよろしいですよ」
あの婆さんがいた。仮面のような笑顔を浮かべて数メートル離れた辺りにいた。
「……やめると思いますか?」
婆さんは笑顔のまま口だけを動かしてあなたはやめないと思いますと言った。
だが、俺は火の点いたライターを人形に向かって放り投げてやった。
「俺の勝ちだ」
勝負などしていない。だけど、婆さんの前でこうして人形を始末する様を見せることができてすごくスッとした気分になれた。忌々しい人形が燃え尽きる様子を見ながらゆっくりと話をしようじゃないかと言った。一通り話し終えたらコイツを警察に送り込んでやる。そうして、残りの短い人生をムショの中で楽しみなと言ってやった。だが、婆さんのムカつく笑顔は消える様子がない。
「一つ聞いておきたいんだが、俺がゴミ捨て場で人形を拾って帰った時、その場所にいたよな? 何してた?」
「侵食の具合を見ていたんです」
「何だそれは?」
「すぐにわかります。ほらほら、火傷をしますよ」
するわけがない。そう思った時には、俺の右手は燃えている人形の頭を鷲掴みにしていた。
「は?」
一瞬、目に映る光景が理解できなかった。俺の体は俺の意思に反して燃え上がる人形を川の中に突っ込んで消火していた。
何をしているのか全くわからなかった。何故俺はあんなに憎んだ人形を助けるような真似をしているのだろうか。
「おい! アンタ俺に何した!」
「何もしていませんよ。あなたが勝手にやっているのです」
「違う!」
「違わない」
「違うって!」
「違わない」
婆さんはこの後、本当に口以外の部位を動かさずに壊れたレコードのように「違わない」とひたすら繰り返した。その表情はまるで、人形のようだった。
「あとは時間が解決してくれます」
しばらくして、婆さんはそれだけ言い残して去って行った。
俺は呆然と腕を川の中に突っ込んだまま膝をついていた。少し焼けた人形のあるはずのない顔を見てみると、そこにはうっすらとよく知る顔が浮かび上がっていた。
その顔を見て、俺の身に何が起きているのかを理解した。世の中の現象は全部人間の仕業だって? そんなわけがない。一体どこの誰が人間の身体を乗っ取るなんて真似ができるのだろうか。
あとは時間が解決してくれる。それは、俺が俺でなくなるまで時間の問題だということを意味していたんだ。
それから四日が過ぎた。
俺の部屋には俺に似た顔をした人形が置いてある。あの日、捨ててもどうせ俺じゃない俺が拾って帰るだけだと思い、潔く持ち帰った。
大学にもバイトにも行かずに四日間寝ないで引きこもっていた。怖かったんだ。眠ってしまったら今度こそ何をするのかわからない。次に目覚めた時、その時俺は俺であるのだろうかだんだんと形作られていく不安は日に日に大きくなっていった。
『あきらめろ』
目の前のパソコンの画面には俺の手によってそう打たれた文字が写っている。いや、正確には俺がやったんじゃない。俺になりつつある人形が俺の身体でそう打ったのだ。
「消えてくれよ。頼むから」
『お前が消えろ』
俺は言葉を発し、俺じゃない俺はキーを打つ。
「何故こんなことをするんだ」
『そういう目的で作られた』
「誰に?」
『言わない』
四日間ずっとこうして俺になりつつある人形と意思の疎通をしている。レポートを書いている時、最初に無意識に手が「やあ」と打っていた時はひどく取り乱した。
だけど、再びパソコンに向き合うと俺の手は自分の意思に反してキーを打ち始める。もう止めることはできなかった。
「最初に俺の部屋を荒らした理由は?」
『お前の情報を知りたかったから』
「どうすればお前を追い出せる?」
『もっと早く俺を燃やすべきだった。お前は遅すぎた』
「何故俺になろうとするんだ」
『婆さんが勝手に選んだ。俺の意思じゃない』
「お前、最初平仮名しか打たなかったじゃないか。婆さんのこともババアって言ってたろ。俺の真似か?」
『真似をしているのはお前だ』
「違う」
『お前』
「違う」
『お前』
「違う」
『お前』
『お前』
『お前』
『お前』
『お前』
『お前』
『お前』
『お前』
『お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前お前』
叫ぶ気力はもうなかった。俺の手は「お前」と打つのをやめない。今に始まったことではなかった。俺は俺の手を他人が作業している光景を眺めるようにぼんやりと見ていた。
正直、俺はもう折れていた。この四日間、ぼうっとして意識が飛んでいる時も大幅に増えた。そろそろ限界だ。俺はもうそろそろ、俺でなくなる。
ふと、固定電話の方から着信音がした。
「電話に出させてくれ」
そう口に出していった。
『いいだろう』
俺じゃない意志で動く俺の手はそう打ち終わると、俺の手は俺の意思を取り戻した。だが、それに対して不思議と喜びは湧かなかった。電話を終えたらまた身体を支配されるという恐怖も不思議と感じなかった。
電話に出ると、声の主はあの巫女の少女だった。
『もしもし? 今、大丈夫スか?』
「どうしたんだ?」
彼女は最後に会ってから人形をちゃんと始末できたのかが聞きたいと言った。
そうだ、考えてみれば、俺があの人形を始末することができなくなっただけであの子や他の人間にならアレを破壊することはできるかもしれない。
「助けてほしい」
一抹の希望を見出した俺はそう言った。
「人形を破壊してくれ」
『……わかりました。すぐ向かうっス』
彼女はそう言って電話を切った。これで助かるかもしれない。さっきまではほぼ諦めていたというのに、消えたくないという意志が腹の底から煮えたぎるように湧いてくる感じがした。
助かるぞ、あの人形さえなくなってくれれば……俺は。
「俺がお前が助けを呼ぶことを予想していないとでも思ったのか?」
何だ今のは? 俺が言ったのか? あれ? おかしいぞ、声が出せない?
「時間が解決してくれるって言ったろ?」
俺は笑っていた。口元が吊り上っているのがわかった。いや、厳密には笑ったのは俺じゃない。俺じゃないけど俺だ。気が付くと俺は洗面所に向かっていた。四日間の間に溜まった身体の汚れを落とすためにシャワーを浴びていた。だけど、俺の意志ではない。身体を動かせない。まさか……こんな希望を目前とした時に完全に身体を支配されるなんて……。
「よく似てるだろ? もうすぐだ」
俺じゃない俺はあの人形を見て言った。最早その人形は顔のない不気味な人形ではなく、俺の顔をした不気味な人形だった。
「お前はもう、眠っていい」
俺じゃない俺がそう言ったのを聞いたのを最後に、俺の意識はだんだんと遠のいて行った。
悔しい。結局俺の敗北に終わってしまった。俺が俺でなくなったことは誰にも理解されないのだろうか。俺になったあの人形は俺と同じように俺としてのうのうと日々を送っていくのだろうか。
それを考えると、このままでは終われないと強く思った。
だけど、どうすればいいのかわからない。
「あの人形は……どこに?」
ぼんやりとした意識の中、あの巫女の少女の声が聞こえた。
「ここにある。跡形もなく消してくれ。二度と俺と同じような目に遭う人が現れないように」
俺じゃない俺が偽善者のようにそう言った。いや、正確には俺になったあの顔のない人形が言ったんだ。だんだんとハッキリとしてきた意識の中、俺は確かに、俺の手を持って彼女に俺を手渡した貼り付いた仮面のような笑顔を浮かべる俺の姿と、そんな笑顔を浮かべている俺を訝しげに見つめる彼女の姿をハッキリと見たんだ。
以上が、俺が他の誰かにどうしても知ってほしかった話だ。
あの婆さんに顔のない人形をもらったその日から、俺の人生は大きく狂い始めた。俺じゃなくなった俺が今どうしているのかはわからない。あの婆さんと同じ顔になった俺の身体は、あの婆さんと同じように顔のない人形を他の誰かに広めているのかもしれない。だからこそ、アンタがそういう奴に出会った時、真っ先に逃げてほしい。
俺だけがこんな目に遭ったから他の奴にも同じ苦痛を味あわせてやりたいだなんて微塵も思っていない。
ただ純粋に、こんな目に遭って、人間じゃない人間がこの社会に溢れるのは怖いことだと思うだろ? アンタの知り合いの中にも既に同じような奴がいるのかもしれない。ソイツらは君の悪い笑顔を浮かべたまま、そつなくこの社会を生きているのかもしれない。
だからこそ、俺の話を最後まで聞いてくれたアンタにはこの事実を伝えてほしい。
どういう原理で人形に身体を乗っ取られるのかはわからないが、とにかくそういった奴らには本当に気を付けてくれ。俺が言いたいのはそれだけだ。今日は話を聞いてくれてありがとう。感謝してる、誰かに話せてすっきりした気分にも慣れた。
え? その男は人形になったはずだろ? なんでそんなに詳しく話ができるのかって? しかもあたかも自分のことのように?
ああ、そういえばまだ言ってなかったか。本当、彼女には助けられてばかりだ。巫女ってのは本当にすごいもんだよな。心霊番組を全部インチキだと思っていた頃が本当に申し訳ないくらいだよ。こんな現象が実際に起こったのだから、宇宙人の存在もあながち嘘でもないかもな。
そうだな、年頃の女の子の顔して俺俺言いながら話している姿には違和感をきっと感じたことだろうけど、あえて言うなら霊媒術ってやつなのかな、これは。