五
明日は今日よりも薄い日になる。経験を積むにつれて、色んなことが薄まって行く。中学生あたりから、ぼんやりとそんなことを考えていた。
だからぼくは、午後の授業もそれなりに真面目に受けて、雨が降り出さないうちに帰って来て、黒と白の混ざり合った雲を眺めている。午前中に永沢先生が話していたことや、中庭で群れを作り始めていた彼らのことも、きっと明日には薄まってしまう。そんなふうに底なし沼のような考え方をしてしまうのは、コーヒーにミルクが足りなかったせいかもしれない。
「ご機嫌ナナメだなあ」
唯一、この部屋で濃くなっているものが彼だ。このじめじめした空気の影響なのか、彼は肥大化していた。向こう側が透けて見えるくらい薄まっていた「雲」は、今やサッカーボールと見間違うくらいの白い「雲」になっていた。
「どうしたんだい? 悩みがあるなら、早めに吐き出しちまいな」
悩みなんて、と思った。
「君には悩みはないの?」
「おれかい? そうさなあ」
体をーーどこが体なのかは分からないがーー伸縮させて、彼はひひっと笑った。いつもの軽い笑い方ではなかったので、ぼくはちょっと気になった。
なかなか話し始めない彼を待つのも退屈だった。コーヒーを冷やそうと考えて、リビングに向かおうとした時、ちょうど部屋から出る前だ、入道雲になりたいんだよなあと、聞こえた。空気の抜けるような声色で、彼が一瞬、消えてしまうんじゃないかと思ったくらいだった。
「入道雲じゃ、ないの?」
そう言っていたよね、と聞き直す。
「入道雲さ。新米のなあ。いやさ、でも試験に落ちたんだよ」
面目ねえと、「雲」は笑った。
「何の試験?」
「昇格試験だよ、一人前の入道雲になるには、そいつをパスしなきゃなんねえのさあ。でも、どうにも上手く行かなくてよお」
「はあ」
「おれ、滞空が苦手でなあ」
上手くなりてえなあ。そんなふうに笑う彼に、ぼくは何一つ共感できないでいた。「雲」はそれから上手く行かない理由を話し始めた。水分補給が苦手とか、風を読むのが苦手とか、苦手なことばかりだった。
「なんで入道雲になりたいんだい? べつに、ならなくても困らないと思うけど」
「夢を与えてえのさ」
強い声で彼は続けた。
「雲がしれっとしてたら、下のやつら、みんなつまらないだろ? 雲は、やっぱりどんと、してなくちゃ!」
ぴたっと「雲」から水滴が垂れてきた。暑くなってきたんだなあと自嘲気味にうそぶいている。彼は大声で笑い出した。驚いたが、それも一瞬のことで、その笑い方と来たらたまらなく、ぼくまでつられて笑ってしまうくらいだ。
「で、兄ちゃんのことを聞かせてくれよ」
「ぼくのこと?」
「そうさ」
コーヒーを飲む。苦くて、ぬるいままだ。何を話せばいいのか分からなくて、コーヒーとミルクの境い目をじっと眺めていると、彼はそんなぼくにこう言ってきた。
「兄ちゃんの夢は、なんだ?」
何となく書きやすくなってきた。このペースを維持したい。