一
「先生、雲って落ちるんですか?」
火曜日の放課後、ぼくは永沢先生にたずねた。先生は答えあぐねていた。彼が考え込むのはめずらしいことだ。勘違いさせているのではないかと思い、空から、と付け足すとすぐに答えてくれた。
「落ちているように見える、ということはある」
実際に落ちるということはないだろうな、と彼は続けた。
「雲ってなにを食べるんですか?」
「雲はもともと小さい水滴と氷の粒の塊だから、空気中の水分を食べている、と言えなくもない」
先生は下らない質問にもしっかり答えてくれる。それは彼が冗談の通じない性格であるからなのだが、こういうときにはありがたみが感じられた。
「じゃあ、雲って触れますか?」
「難しいな」
当たり前だと思った。それからも何度か適当な質問をして、そのたびに先生は的確に答え続ける。ぼくが苦し紛れに質問していることに気がついたのか、先生はようやく本題に入れるとばかりに受験についての話題を出した。
「今のままで本当にいいのか。おまえの成績なら上を目指せるはずだぞ。確かに指定校は確実だがな、もっと欲張ってみてもいいんじゃないか」
今のままでいいです、と答えて、ぼくは帰ることにした。
夏が近づいていると感じたのは、夕方の通学路がにぎやかだったからだ。下校する生徒たちにもまだ活気が残っている。夏の夕暮れは長い。特に春から夏へ移り変わるこの時期は、日を追うごとに暮れの時間が延びていく。明るいうちはまだ若者の時間だ。いくら高校三年生でも受験勉強に身を入れている生徒は少ない。話題はもっぱら週末のデート、バラエティ番組、小テスト、駅前のスイーツ店などで、受験の話は誰もしない。しようとしないのだ、と思った。
歩道橋手前の横断歩道で立ち止まる。信号が赤に変わろうとしていた。事故か天災か、原因は知らないが信号機は折れ曲がっているのだった。いつから壊れていたのかも憶えていない。もうずっとこのままであったような気もする。下校中の生徒たちが信号を駆け足で渡りきる。国道であるせいで車通りは多い。走れば間に合うかもしれない。でも、急ぐ理由はない。渡るか止まるかを迷っているうちに信号は赤になった。家に帰っても何かあるわけじゃない。いや、そういえばあるのだった。信号が青に変わる。横断歩道を渡る。古い喫茶店を曲がって、三軒先がぼくの家だ。部屋に入るぼくを、「雲」は出迎えてくれた。
「よう、遅かったなあ」
じめじめしていて、息苦しい。加湿器をオフにする。「雲」は空中で弧を描いた。
「死んじまうよ、おれ」
「大丈夫、死なないよ」
一昨日から、ぼくの部屋には「雲」が住み着いている。体長は30cmくらいで、もくもくとした白い入道雲だ。水分を食べる。加湿器をつけていたのはそのためだ。食べないと小さくなってしまう。また、食べると大きくなる。小さくなりすぎると死んでしまうようで、よく危機感を抱いている。彼は今年で十九になる入道雲で、空から落ちてきてしまったらしい。雲が空から落ちるというのも変な話だが、ぼくは信用することにしたのだった。なにせ、彼は無害なのだ。
「山に連れて行ってくれよ。高い山。そうすりゃあ、おれは空に戻れるぜ」
「そんな暇ないよ」
「そうかい。そういえばな、おっかさんが部屋で探し物をしていたぞ」
「たぶん成績表だよ」
母はぼくの指定校推薦に対して乗り気じゃない。猛勉強してセンター試験に臨む計画表を立てていたぐらいだ。自分のプランが否定されたことも不服だろうし、一人息子が受験に意欲的でないのも不服だろう。「雲」がふふふと笑った。彼は笑うと入道雲が横ににゅるんと伸びるのだった。どうしてこれは落ちてきたのだろう。どういった巡り会わせなのだろうか。しゃべる雲をどこかの研究会に提出すれば有名人になれる。確かに小学生のときに書いた将来の夢は有名人になることだ。夢が叶うことになる。でも、今は特に有名人になりたいという気持ちはない。この雲に乗ることができれば空を飛べるのだが、それもできない。「雲」は憎たらしい笑いを浮かべている。乾燥機をつけてやろうかと考えたが、結局、何かをしようという気持ちにはなれなかった。
「ただいまー」
父が帰宅した。ぼくは布団にもぐりこんで、扇風機をつけた。六月も後半になると暑くなってくる。梅雨の時期だが今年はまだ降っていない。そのせいで、じめじめした空気が日ごとに増している。一度でも雨が降れば新鮮な空気になるはずだ。だが降らない。携帯電話の天気予報を調べた。不幸なことに、一週間予報まで雲だらけだった。
ぽつん、と水滴が落ちてくる。どうやら加湿器のつけすぎで結露が生じたようだ。元凶を睨むと、彼はゲーム雑誌を読み漁っている最中だった。なんだかばからしくなる。その夜は勉強をする気になれず、夕飯を食べてお風呂に入って寝た。幸い、母は何も言ってこなかった。
あらすじで悩んだ。