序
湖面は深緑の木々と蒼空を映している。緑の隙間から降りそそぐ木漏れ日を倒影し、風に踊る木の葉が鏡面の中で揺れている。
見えざる手が水面に触れたかのように、つぅーっと波紋が広がった。水際近くに映る若い男、杜青頴の顔が歪み、瞬き一つすることがなかったその目が閉じられたかに見えた。
「アンタ、死ぬ気だね」
身を乗り出して熱心に水面を見下ろしていた青頴は、けだるげに首だけ動かして背後にいる人物を確認する。しかし、すぐに顔を背けると、また湖面に視線を戻した。青頴の背後でふと空気が緩み、含み笑いが聞えてくる。
「ここは塩湖なんだ。入水を試みた人間がいるみたいだけど、すぐ身体が浮いてきてね。意思の弱い奴は溺死する前にすぐ顔を出して息をしてしまう。何より、死ぬことより目が痛いのが耐えられないから止めたって話だ。可笑しいね」
酒で喉を焼いた人間特有のしゃがれ声で、背後にいた老齢の小男が含み笑いをしている。
「死んだ人間はいるのか?」
猶も水面から視線を上げることはなかったが、青頴は平坦な声で問う。小男は笑みを崩さず顔を横に振る。
「いんや、皆、急いで湖から出て真水を探しに走り去ったって話だ。よっぽど目が痛かったんだろうね」
小男の口端から黄ばんだ八重歯が覗いた。口元だけ見ると野卑な男に見えるが、青硝子のような瞳と、目尻の皴を合わせてみると愛嬌のある面相になる。髪色は鈍い金色をしており、一目で異国の人間だとわかる外見とは裏腹に、董の衣服は馴染んで見えた。
「綺麗な湖だ。しかし、魚一匹生きられない」
軽い足取りで男に近づいた小男は腰を屈めて水を一掬いする。波状した湖面の歪みが空と木々を揺らし、光の反射によって波が白く輝いた。
「しかし、人間は生かすのだな」
ゆらゆら揺れる水の流れがしだいに弱まり、鏡面へと戻る。青頴と小男の姿がまた輪郭を成していく。
「・・・・生命としての役割は果たさないがねぇ」
笑おうとした小男は鼻に皴を刻んで咳き込んだ。口に含んだ水を吐き出し、土気色の枯れ木のような手で何度も口を拭う。
「やっぱり、しょっぱいねぇ」
小男はしみじみと呟き、湖面をとおして様子を窺っていた青頴は薄く笑った。笑うと生気のなかった顔に血の気が宿り、精悍な顔立ちが際立つ。赤と黄色の芭蕉布で仕立てた着物の隙間から厚い胸板が覗き、肌蹴て見えた肉体には光に反射して湖の水模様が浮かび上がっていた。
美丈夫である若い青頴に見惚れたのか、それとも舌に残った塩辛さが消えたのか。ほぅっと吐息をついた小男はそれとなく男の足先から頭の先に視線を滑らせた。
「アンタ、海を渡った先にある東の島から来たんだろう?」
さっと警戒色を強めた男の様子に小男は肩を竦めてみせる。
「その色鮮やかな着物と似たものだが、都で仲良くなった商人が着ていてね。そいつとアンタはおそらく同郷・・・・。いや、何、その友人を少し思い出したまでで、どうしたわけではないんだがね」
言外に「詮索する気はない」と言っているのだが、明らかにその目は好奇心で光っていた。しかし、吊り上がった目で迫力の睨みを利かされた小男は、誤魔化すように笑って立ち上がるしかない。
手近にあった小石を軽く握り湖に投げる。水を弾く小気味良い音が二度三度した後、ポチャンと柔らかい音がして、小石は水面に吸い込まれていく。
「・・・・おや、小石は沈むようだね。でもアンタは沈まないよ。人間の死に場所として、ここは明らかにむいていない」
「どうして俺が死のうとしていると?」
無表情に黒い目を伏せた青頴に、小男は苦笑でもって答えた。
「アンタの影が魚に見えた。湖に入ればすぐ死ぬ魚にね」
それを聞いた青頴は喉で笑い、それがしだいに哄笑に変わっていった。元来、自殺志願者とは精神的に不安定なもの。そうと思ってか、小男も突然の青頴の変貌を気にもかけず、それどころか同じように笑い声を上げた。
「名は何と言うんだ?」
ひとしきり笑った青頴は改まった様子で丁寧に問いかけた。問われた小男は合掌礼をしたまま静かに名を名乗る。
「興光にございます」
名を聞いた青頴は小男を視界の端で掠め、森の一点に注視した。顔を上げた小男は首を傾げて青頴の視線を辿るが、枝を絡めるように木が林立しているのみでそれ以外は何もない。
「興光は連れときているのか?」
「いいや、一人だが?」
二人は初対面だったが、興光は青頴が武術の使い手だと気付いていた。無心に水面を覗いている時でさえ背中に隙一つなく、筋肉で締まった体は猛禽のそれのように強靭な力を秘めている。気配にも鋭敏のようで、頭上から落ちてきた木の葉を視認する前に手で捕らえた。どうやら何かがいたのは間違いなさそうだと興光は察する。
「狐でも見たのかい?」
「・・・・さぁな」
本人も肩透かしでもくらったかのように溜息をついて立ち上がり、湖とは逆の方向に向かって歩きだした。隣を通り過ぎた青頴は、興光より頭二つ分高い。男は着痩せして見えるものの、堂々たる体躯である。
「アンタ、どこに行くつもりかね?」
「この辺りに行くところといえば漲詠の町しかないだろう。・・・・死ぬのを延期したからには寝床を探さねばならない」
「なるほど」
くくっと唇を吊り上げて、悪戯っぽい顔をした小男は後に続いた。
「ついて来る気か?」
自身の後ろに一定の距離を置いて、ひょこひょこと軽い足取りでついてくる小男に向かって振り返る。
袖が広がって風を切る。右足を引いて体を反転させただけだが、その足運びといい、杜青頴の動作には余分なものが何一つない。
「この辺りで行く所といえば漲詠の町しかないと言ったのはアンタだろうに。それに、まだ名前を聞いていない」
「杜青頴だ」
「ははぁ、大した偽名だねぇ」
「なに、興光ほどではない」
詮索されるのが嫌いな男だ。一瞬怒鳴られるかと思った興光だったが、想像に反して青頴は口端を吊り上げて皮肉気な顔で笑っている。お互い異国から来た人間なのは一度見れば知れること。興光は金の髪という外見だけではなく言葉に西の訛りがあり、東訛りの青頴の衣服は董では売っていない東の島特有のものだ。そのくせ、二人とも董国特有の名を名乗ってみせた。青頴ばかりではなく、偽名を名乗った時点で興光も何か理由有りなのだろう。
興光は青頴がそのように理解したことに気付いて、終始笑みを形作っていた唇が僅かに垂れ下がり、自虐めいた嘲笑を零す。
「ご覧のとおり儂は西域出身ではあるが、名はもちろんのこと、その他一切祖国とともに捨ててきた。今は名といえば、董国流のこの名しか思い浮かばんよ」
「それは俺も同じこと。興光は西域、俺は東域。どうやらお互い丁度その間にある董に逃げてきたらしいな」
互いに視線が合うと、まるで自嘲の延長のような奇妙な微笑を双方顔に貼り付けた。董国を中央に、その対極にあるともいえる国からやってきた二人の異邦人は、なにやら通ずるものがあったらしい。二人は同じ歩調で漲詠の町に足を向けていた。