ある島で生まれ育った青年が自分を見つけていく物語。
「ずっと一緒」
そんな言葉は、本当に実現するのだろうか。美しいドラマのような世界とはかけ離れている現実の世界では、この言葉は只の綺麗事に過ぎない。
…そう思ってしまうようになったのはいつからだろうか。
だってそれは脆く、すぐに消えてしまう。それだけじゃない。ときには、何か大切なものを、跡形もなく、砕け散らしてしまう。
これは、ある青年の夏の物語だ。
一、夏暁
無数の光が揺らぎ、空と海の境界線がわからなくなる。
田舎の夏は、東京ほど暑くない。まあ、特別いいものとは言えないが。コンビニも何もないし、ちょっと山に入ればスマホも圏外。虫は多い。
都会から嫁いできた母は虫が出るたびに騒ぐ。
俺はもう小さい時から慣れているので、処理するのは自然と俺の仕事となった。
とは言っても、部屋にこもって何かに没頭しているときは鬱陶しいものだ。
俺はこの島で小説を書いている。来年、東京に行く予定だ。
去年、家を見に行った。田舎の家は広いので、東京の狭い家と、その価値の何倍もあるであろう数字の羅列に目を見張った。今でも思い出すだけで頭が痛くなる。憧れの東京に行ける、ということだけを考えて、金のことは考えないようにしようと思った。
俺は小さい時から小説が好きだ。
母から聞いた話によると、2歳のころから本に興味があったみたいで、何時間も没頭していたらしい。
母が呼びかけても集中していた俺は見向きもせず、行儀良く並んでいる文字をずっと見つめていたという。
何事にも没頭すると周りの音が聞こえなくなってしまうのは、昔と変わらないんだなといつ思い出しても思う。
父は、俺が六つのときに死んだ。癌だったらしい。父は俺が本が好きなものだから、誕生日プレゼントも、クリスマスプレゼントもおもちゃやゲームでもなく、本を選んで、寝ている俺の枕元に置いていた。
俺はそれが楽しみで仕方なかったのを今でも覚えている。
包装紙を止めているセロハンテープを小さい手で不器用ながらも丁寧に剥ぎ、目を輝かせていた。
俺の唯一の宝物は本棚に並ぶ本だ。
俺は想像の世界に行くのがとても好きだ。小さいころから、本を読んでいると、本の中の世界に入ったような感覚に陥る。どれもとてもきれいな世界だと、小さい俺も思っていただろう。何を考えていたのかは、はっきりと覚えてはいない。
昔、父からもらった本を読み返す時間は、普段本を読む時間とはまた違う、特別な時間になる。
まるで、子供のころに戻ったような、今よりも頭の中の世界がキラキラと輝いている。
「こんな世界ならいいな」
「こんな世界に住みたい」
とか、現実から遠く離れた世界が心地よかった。
二、薫風
俺はいつものように海沿いを歩いていると、遠くから船が見えた。
いつもの観光客だろう。この島には何もないというのに。ここに来る人は大抵、田舎にきて心を癒しに来るとか、そんなところだろう。
まあ、長く都会にいたら疲れるだろう。俺は家の内見に行った三日でさえもどっと疲れが出たのを感じた。あんな感覚は初めてだった。
それとなくその船をぼうっと見つめていると船の上の男と目が合った。俺と同じくらいの歳だろうか。整った顔立ちで、髪の色を抜いているように見える。島の者とは到底かけ離れた見た目だった。
その男は背中に大きな黒い入れ物を背負っていた。ギターだろうか。
この島で楽器を目にすることは少ない。小学校にあったピアノくらいだ。俺はあまり関心を持ったことはないが、狭い体育館の中では少し目立つ存在になっていたので、記憶の中には意外にもはっきりとある。
そうこう考えているとその男は船を降り、荷物を抱え、俺のほうに歩いてきた。あまりにも自然な動きだったので、俺は動けなかった。
「この島の人ですか」
そう尋ねられたので、「そうですけど」と当たり障りなく答えた。
一瞬の沈黙の中で俺が戸惑っていると、「あの」と男は続ける。
「この島に来るの初めてなんです。この宿まで、案内してくれませんか。」
彼が予約したであろう宿が映ったスマホを俺に見せる。突然の依頼に少し間が生まれてしまった。ふと、我に返ったように
「ああ、その宿なら少し歩きますね。こっちです。」
俺は、早くこの男を連れて行って仕事の続きをしなければ、と思いながら速足で進んでいった。
「早乙女夏樹です。」
急に言われたので、足が止まったまま口は動かなかった。振り返ると男は、俺の返答を待つかのように爽やかな微笑みを浮かべている。ああ、この男は自己紹介をしたのかと、遅れて脳が仕事をした。
「…神田蒼。」
自分でも呆れてしまうほどにそっけない返事になってしまった。と思ったと同時に夏樹が噴き出した。
「名前だけ?そっけな」
眩しすぎるくらい綺麗な笑顔だった。この田舎には似合わないな、と思った。
「いくつ?」と夏樹。
「21」
「じゃあ同じだね」
意外だった。あまりにもノリが軽い分、年下かと思っていた。
「…ギターしてんの」
無理に話を続けようとした。
「うん。曲作ってる。来年東京に行こうと思ってる」
東京。自分と同じだ、とは言えなかった。なんだか夏樹とは世界が違う気がする。なんとなくだが、音楽と小説は違う世界にいる気がしていた。同じ場所に立つことはない。そう勝手に思ってしまった。「へぇ」と生返事で返すと、夏樹は少しむっとした顔で、
「自分から言っといてへぇはないでしょ。」
「蒼は?なんかしてることあるの」
そう聞かれて、答えるか少し迷った。
「…小説」
夏樹は意外そうな顔をした。
「小説かぁ。俺もよく読むよ。俺、一人でいる時間が好きでさ。ほとんどは曲作ってるけど、手が止まったら本読んでる。あれ、意外だった?」
そう言われて自分がまじまじと夏樹の顔を見ていたことに気づいた。
「あ、いや…。本読むのは意外だった。」
「はは、よく言われる。」
この男はよく笑うな、と思った。
そのあとも夏樹が話しかけてくるから、気まずい沈黙もほとんどなく宿に着いた。
「どうもありがとう。楽しかったよ。また話せる?」
「この島小さいから、どこかでまた会うと思う。」
「そっか。じゃあまたな。」
そういって宿に入っていた。宿と言っても個人の家で経営しているので、特別大きな建物というわけではない。だが、景色は絶景だ。二階の窓から見える青より青い海は透き通り、夏の日差しを反射し、とてもではないが飽きないだろう。
三、若葉
俺は家に戻り、散らばったままの原稿用紙に目をやった。
そうだ。今書いている話の中にも夏樹のような明るい青年が書かれている。
俺は小さいときから一人でいる子供だった。家では一人っ子で、親戚にも同じくらいの子供はいないので、遊び相手がいない。学校に行っても外で遊ぶことは好まなかった。ずっと教室で本を読んでいた。はたから見れば友達のいないかわいそうな奴、というレッテルが張り付けられているのだろうと、そんなことは時々考えずとも頭に浮かんできた。
別にそれが嫌だったわけではない。どうでもよかった。自分が自分で入れたらそれで。だからと言って、居心地がよかったわけではない。授業中ペアを作る時も、修学旅行の班づくりも、俺がいつも余るから、先生や、同級生を困らせていた自覚はある。仲の良いグループで班を作っているところがほとんどだったので、俺が入るとなんとなく微妙な空気が流れていた。それを感じるといつも少し申し訳ない気持ちになってしまう自分が嫌だった。
自分は自分。そうあれれば十分。何も望むことはない。そんな強がりな自分の気持ちの中に、もっと強く在れる自分でいたかった。そんな気持ちが隠れていた。自分でも気づかないほど狭い隙間に落ち込んでいた。
それを掻き出したのが、小説だった。主人公の情緒、行動、葛藤、自分にそっくりだった。自分をどこかで押しつぶしていたのだと気が付かせてくれた。
でも、それに気づいたからと言って変わることができるほど俺は単純じゃなかった。できなかった。怖かった。
だから、その強さを自分のものにするのではなく、本の中だけで命を宿す人間にその強さを与えた。自分の理想像。なりたかった自分。好きなものを好きだという自分。憧れていた自分。そんな自分を本の中に閉じ込めた。ここなら誰にも邪魔されない。ここが俺の居場所だ。そう思えた。




