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幻のユミコは、俺たちの手に負えない

掲載日:2026/04/07

幻のユミコは、俺たちの手に負えない


第一章:琥珀色の時間


「おいナオキ、そのポテトチップス、もう三袋目だぞ。お前の腹、中身はほとんど油なんじゃないか」


兄のヒロシ(58)が、グラスの中でカランと音を立てる氷を指先で回しながら言った。

指先には、マヨネーズと七味唐辛子が混ざり合った、なんとも形容しがたい色がこびりついている。


「うるさいなあ。兄貴だって、さっきからマヨネーズをなめるようにしてイカを食ってるじゃないか。どっちもどっちだよ」


弟のナオキ(52)は、無造作にシャツのボタンを外し、ソファーに深く沈み込んでいた。

ここはヒロシの家だ。

数年前に離婚し、娘も嫁いでからというもの、このリビングはすっかり**「男の巣窟」**と化していた。


壁紙はタバコのヤニで黄ばみ、棚には読みかけの文庫本と、いつから置いてあるのか分からない健康器具が埃を被っている。

二人が飲んでいるのは、安売りされていたサントリー・オールド。


琥珀色の液体は、50代の疲れた肝臓には少しばかり刺激が強い。

だが、泥臭い昔話を肴にするには、これくらい癖のある酒がちょうどいいのだ。


「……なあ。おふくろ、死ぬ間際に言ってたよな」


ナオキが、ふと思い出したように口を開いた。


「俺たちの間に、流産した子がいたって話。名前まで決めてたらしいぜ。**『ユミコ』**って」


ヒロシはグラスを止めた。

「ああ、言ってたな。もし無事に生まれてりゃ、俺からすれば妹、お前からすれば姉貴か」


「そう。女兄弟が一人でもいればさ、この家ももう少し小奇麗だったかもしれないだろ? こう、花が飾ってあったりさ。俺たちの加齢臭を注意してくれたりして」


「ふん、夢見るなよ。俺たちの妹だぞ」


ヒロシが鼻で笑う。


「きっとガサツで、酒乱で、俺たちの小遣いをせびるような、タチの悪い女に決まってる」


「兄貴は夢がないなあ。きっと、料理が上手で、俺たちが弱った時に『お兄ちゃん、大丈夫?』って背中をさすってくれる……そんな天使みたいなユミコだったはずだよ」


そんな不毛な言い合いを続けているうちに、重たいアルコールがじわじわと脳を麻痺させていった。


二人の声は次第に小さくなり、やがてテレビの環境音だけが、深夜のリビングに虚しく響くようになった。


第二章:ヒロシの悪夢:二十歳の暴君


ヒロシが目を開けると、そこは自分のリビングだった。

だが、何かがおかしい。

部屋が、妙にピンク色をしている。それも、蛍光色のきついピンクだ。


「お兄ちゃん、いつまで寝てんの。マジで生ゴミの匂いするんだけど」


背後から突き刺さるような鋭い声に、ヒロシは跳び起きた。

そこには、見知らぬ……いや、どこか面影のある若い女が立っていた。


流行りの短いトップスに、ダボダボのパンツ。

手にはスマホを握り、驚くべき速さでフリック入力をしている。


「……ユミコ、か?」


「他に誰がいんの。ねえ、喉乾いた。原宿のあの店のタピオカ、今すぐ買ってきて。氷少なめ、甘さ最大ね」


「原宿? 今からか? もう夜の二時だぞ」


「はあ? 妹の頼みが聞けないわけ? 58年も生きてきて、それくらいの融通も利かないの? だから独身なんだよ」


ユミコの言葉は、ヒロシの古傷に容赦なく塩を塗り込んできた。


「お兄ちゃん、はい、これ。私の彼氏の靴」


ドサリと目の前に置かれたのは、泥だらけの、派手な金髪の男が履きそうなハイテクスニーカーだった。


「なんで俺が、妹の男の靴を……」


「いいから黙って磨け! それと、ついでにPayPayで五万送っといて。友達と韓国行くから。断ったらお兄ちゃんの恥ずかしい検索履歴、全部SNSに晒すからね」


ヒロシは、震える手で靴ブラシを握った。

これが俺の望んだ「華やかな生活」なのか?

いや、違う。これは妹ではない。

これは、若さと美貌という武器を完全に理解した、二十歳の暴君だ。


ヒロシは泣きながら、見知らぬ男のスニーカーを磨き始めた。


その時、壁の向こうから悲鳴が聞こえてきた。

「やめてくれ! そのポテトチップスは俺の唯一の癒やしなんだ!」


弟・ナオキの声だった。


第三章:ナオキの悪夢:鉄の女の説教部屋


一方、弟のナオキもまた、深い霧のような眠りの中で、自分勝手な理想が打ち砕かれる音を聞いていた。


「……ナオキ。あんた、今、何時だと思ってるの」


冷徹な声が、ナオキの鼓膜を震わせた。

目を開けると、そこは無機質な空間だった。

目の前に座っているのは、眼鏡をかけた知的な、しかし氷のように冷たい視線を湛えた女性だ。


「……ユミコ、姉貴?」


「そうよ。あんたの不摂生を正すために、地獄の淵から戻ってきたわ」


ユミコ(姉)は、ナオキがさっきまで食べていたポテトチップスの袋を、トングで汚物のように摘み上げた。


「脂質、糖質、そして塩分。あんたの血管は今、このコンクリートみたいに固まってるわ。さあ、見なさい」


彼女が指差した先には巨大なスクリーンがあり、そこにはナオキのドロドロになった血液が、下水道のように流れる映像が映し出されていた。


「ひえっ……」


「ひえっ、じゃないわよ! さあ、スクワット百回。終わるまで一滴の酒も許さないから。あんたのその腹、だらしないにも程があるわ」


「姉貴、勘弁してくれよ! 俺は仕事で疲れてるんだ!」


「あんたの癒やしは墓場まで持っていきなさい。ほら、腰が高い! もっと深く沈める!」


ナオキは涙目になりながら、見えない重りを背負わされたようにスクワットを始めた。


「ユミコ姉貴……せめて、一口だけ、ビールを……」


「駄目。代わりにこの、青汁とセンブリ茶をブレンドした特製ジュースを飲みなさい。さあ、口を開けて!」


ナオキは、緑色のドロリとした液体を突きつけられ、絶叫した。


第四章:夢の境界、崩壊する兄弟


ヒロシが「タピオカ」と叫び、ナオキが「青汁」と拒絶したその瞬間。

二人の夢を隔てていた壁が、音を立てて崩れ落ちた。


気がつくと、二人はヒロシのリビングに、背中合わせで立っていた。


そこには二人のユミコがいた。

タピオカを飲めと叫ぶ「二十歳の暴君」ユミコと、青汁を飲めと迫る「鉄の姉」ユミコだ。


「ちょっと、おじさん二人で何やってんの。キモいんだけど。マジ受ける」

暴君ユミコが、冷めた目で兄たちを見る。


「あんたたち! 兄弟揃ってだらしない! この部屋の埃、全部食べさせるわよ!」

鉄の姉ユミコが、掃除機をガトリングガンのように構える。


「おい、ナオキ! なんだよあのおっかねえ女は!」

「兄貴こそ、あのワガママ娘をなんとかしてくれよ! 俺の貯金が全部PayPayに吸い込まれる!」


二人のユミコは、次第に姿を変えていった。

ある時は母親に似た怒り肩になり、ある時は自分たちの嫌な部分だけを凝縮したような奇怪な姿へ。


「お兄ちゃん」「あんた」「お兄ちゃん」「ナオキ」


重なり合う声。リビングは、存在しないはずの「女兄弟」という幻想が生み出した、地獄の説教部屋へと変貌した。


「もう嫌だ! 女兄弟なんていらない!」


ヒロシが叫んだ。


「俺たちは、男二人で、汚い部屋で、勝手に死んでいきたいんだ!」


ナオキが呼応して、サントリー・オールドの瓶を突き出した。

「ユミコ、消えろ! 俺たちの自由を返せ!」


二人のユミコが、般若のような顔で襲いかかってきた。

巨大な掃除機が二人を吸い込み、視界が真っ暗に染まる。


第五章:静寂と安酒


「……ああああああっ!!」


叫び声とともに、ヒロシはソファから転げ落ちた。


「うわっ、なんだ、地震か!?」

床で寝ていたナオキも、芋虫のように跳ねて起き上がる。


静寂。

窓の外では、始発の電車の音が遠くで響いている。

テレビは放送休止のカラーバーを映し出し、「ピー」という電子音が耳に痛い。


二人は、汗だくのまま見つめ合った。


リビングは、相変わらず汚い。

テーブルには空になったポテトチップスの袋と、底にわずかに残ったウィスキーの瓶。


だが、そこにはタピオカも、青汁も、掃除機を振り回す女もいなかった。


「……ナオキ。お前、どんな夢見た?」

ヒロシが、震える手で首筋の汗を拭いながら聞いた。


「……姉貴に、青汁飲まされそうになった。兄貴は?」

「……妹に、原宿までタピオカ買いに行かされた」


二人は、どちらからともなく深い溜息をついた。

それは、五十代の男がつく溜息としては、あまりに切実で、安堵に満ちたものだった。


「……なあ。おふくろ、ユミコを産まなくて正解だったかもな」


「ああ。俺たちの血筋に、まともな女が生まれるわけなかったんだ。もしいたら、俺たちは今頃、家を追い出されて公園で飲んでたぜ」


ヒロシは、よろよろと立ち上がり、仏壇の前に向かった。

おふくろの遺影は、相変わらず慈愛に満ちた表情で二人を見ている。


「おふくろ、ありがとう。ユミコを、連れて帰ってくれて」


ヒロシが手を合わせると、ナオキも隣で深く頭を下げた。


「よし。口直しに、もう一杯だけ飲むか」

「だな。今度は、ユミコがいない平和に乾杯だ」


二人は、残りのウィスキーを二つのグラスに均等に分けた。

琥珀色の液体は、朝の光を浴びて、さっきよりもずっと美しく見えた。


「ユミコに……」

「さよなら」


カラン、と氷が鳴った。

男兄弟二人の、なんの華やかさもない、しかし最高に気楽な夜明けだった。


(完)

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