幻のユミコは、俺たちの手に負えない
幻のユミコは、俺たちの手に負えない
第一章:琥珀色の時間
「おいナオキ、そのポテトチップス、もう三袋目だぞ。お前の腹、中身はほとんど油なんじゃないか」
兄のヒロシ(58)が、グラスの中でカランと音を立てる氷を指先で回しながら言った。
指先には、マヨネーズと七味唐辛子が混ざり合った、なんとも形容しがたい色がこびりついている。
「うるさいなあ。兄貴だって、さっきからマヨネーズをなめるようにしてイカを食ってるじゃないか。どっちもどっちだよ」
弟のナオキ(52)は、無造作にシャツのボタンを外し、ソファーに深く沈み込んでいた。
ここはヒロシの家だ。
数年前に離婚し、娘も嫁いでからというもの、このリビングはすっかり**「男の巣窟」**と化していた。
壁紙はタバコのヤニで黄ばみ、棚には読みかけの文庫本と、いつから置いてあるのか分からない健康器具が埃を被っている。
二人が飲んでいるのは、安売りされていたサントリー・オールド。
琥珀色の液体は、50代の疲れた肝臓には少しばかり刺激が強い。
だが、泥臭い昔話を肴にするには、これくらい癖のある酒がちょうどいいのだ。
「……なあ。おふくろ、死ぬ間際に言ってたよな」
ナオキが、ふと思い出したように口を開いた。
「俺たちの間に、流産した子がいたって話。名前まで決めてたらしいぜ。**『ユミコ』**って」
ヒロシはグラスを止めた。
「ああ、言ってたな。もし無事に生まれてりゃ、俺からすれば妹、お前からすれば姉貴か」
「そう。女兄弟が一人でもいればさ、この家ももう少し小奇麗だったかもしれないだろ? こう、花が飾ってあったりさ。俺たちの加齢臭を注意してくれたりして」
「ふん、夢見るなよ。俺たちの妹だぞ」
ヒロシが鼻で笑う。
「きっとガサツで、酒乱で、俺たちの小遣いをせびるような、タチの悪い女に決まってる」
「兄貴は夢がないなあ。きっと、料理が上手で、俺たちが弱った時に『お兄ちゃん、大丈夫?』って背中をさすってくれる……そんな天使みたいなユミコだったはずだよ」
そんな不毛な言い合いを続けているうちに、重たいアルコールがじわじわと脳を麻痺させていった。
二人の声は次第に小さくなり、やがてテレビの環境音だけが、深夜のリビングに虚しく響くようになった。
第二章:ヒロシの悪夢:二十歳の暴君
ヒロシが目を開けると、そこは自分のリビングだった。
だが、何かがおかしい。
部屋が、妙にピンク色をしている。それも、蛍光色のきついピンクだ。
「お兄ちゃん、いつまで寝てんの。マジで生ゴミの匂いするんだけど」
背後から突き刺さるような鋭い声に、ヒロシは跳び起きた。
そこには、見知らぬ……いや、どこか面影のある若い女が立っていた。
流行りの短いトップスに、ダボダボのパンツ。
手にはスマホを握り、驚くべき速さでフリック入力をしている。
「……ユミコ、か?」
「他に誰がいんの。ねえ、喉乾いた。原宿のあの店のタピオカ、今すぐ買ってきて。氷少なめ、甘さ最大ね」
「原宿? 今からか? もう夜の二時だぞ」
「はあ? 妹の頼みが聞けないわけ? 58年も生きてきて、それくらいの融通も利かないの? だから独身なんだよ」
ユミコの言葉は、ヒロシの古傷に容赦なく塩を塗り込んできた。
「お兄ちゃん、はい、これ。私の彼氏の靴」
ドサリと目の前に置かれたのは、泥だらけの、派手な金髪の男が履きそうなハイテクスニーカーだった。
「なんで俺が、妹の男の靴を……」
「いいから黙って磨け! それと、ついでにPayPayで五万送っといて。友達と韓国行くから。断ったらお兄ちゃんの恥ずかしい検索履歴、全部SNSに晒すからね」
ヒロシは、震える手で靴ブラシを握った。
これが俺の望んだ「華やかな生活」なのか?
いや、違う。これは妹ではない。
これは、若さと美貌という武器を完全に理解した、二十歳の暴君だ。
ヒロシは泣きながら、見知らぬ男のスニーカーを磨き始めた。
その時、壁の向こうから悲鳴が聞こえてきた。
「やめてくれ! そのポテトチップスは俺の唯一の癒やしなんだ!」
弟・ナオキの声だった。
第三章:ナオキの悪夢:鉄の女の説教部屋
一方、弟のナオキもまた、深い霧のような眠りの中で、自分勝手な理想が打ち砕かれる音を聞いていた。
「……ナオキ。あんた、今、何時だと思ってるの」
冷徹な声が、ナオキの鼓膜を震わせた。
目を開けると、そこは無機質な空間だった。
目の前に座っているのは、眼鏡をかけた知的な、しかし氷のように冷たい視線を湛えた女性だ。
「……ユミコ、姉貴?」
「そうよ。あんたの不摂生を正すために、地獄の淵から戻ってきたわ」
ユミコ(姉)は、ナオキがさっきまで食べていたポテトチップスの袋を、トングで汚物のように摘み上げた。
「脂質、糖質、そして塩分。あんたの血管は今、このコンクリートみたいに固まってるわ。さあ、見なさい」
彼女が指差した先には巨大なスクリーンがあり、そこにはナオキのドロドロになった血液が、下水道のように流れる映像が映し出されていた。
「ひえっ……」
「ひえっ、じゃないわよ! さあ、スクワット百回。終わるまで一滴の酒も許さないから。あんたのその腹、だらしないにも程があるわ」
「姉貴、勘弁してくれよ! 俺は仕事で疲れてるんだ!」
「あんたの癒やしは墓場まで持っていきなさい。ほら、腰が高い! もっと深く沈める!」
ナオキは涙目になりながら、見えない重りを背負わされたようにスクワットを始めた。
「ユミコ姉貴……せめて、一口だけ、ビールを……」
「駄目。代わりにこの、青汁とセンブリ茶をブレンドした特製ジュースを飲みなさい。さあ、口を開けて!」
ナオキは、緑色のドロリとした液体を突きつけられ、絶叫した。
第四章:夢の境界、崩壊する兄弟
ヒロシが「タピオカ」と叫び、ナオキが「青汁」と拒絶したその瞬間。
二人の夢を隔てていた壁が、音を立てて崩れ落ちた。
気がつくと、二人はヒロシのリビングに、背中合わせで立っていた。
そこには二人のユミコがいた。
タピオカを飲めと叫ぶ「二十歳の暴君」ユミコと、青汁を飲めと迫る「鉄の姉」ユミコだ。
「ちょっと、おじさん二人で何やってんの。キモいんだけど。マジ受ける」
暴君ユミコが、冷めた目で兄たちを見る。
「あんたたち! 兄弟揃ってだらしない! この部屋の埃、全部食べさせるわよ!」
鉄の姉ユミコが、掃除機をガトリングガンのように構える。
「おい、ナオキ! なんだよあのおっかねえ女は!」
「兄貴こそ、あのワガママ娘をなんとかしてくれよ! 俺の貯金が全部PayPayに吸い込まれる!」
二人のユミコは、次第に姿を変えていった。
ある時は母親に似た怒り肩になり、ある時は自分たちの嫌な部分だけを凝縮したような奇怪な姿へ。
「お兄ちゃん」「あんた」「お兄ちゃん」「ナオキ」
重なり合う声。リビングは、存在しないはずの「女兄弟」という幻想が生み出した、地獄の説教部屋へと変貌した。
「もう嫌だ! 女兄弟なんていらない!」
ヒロシが叫んだ。
「俺たちは、男二人で、汚い部屋で、勝手に死んでいきたいんだ!」
ナオキが呼応して、サントリー・オールドの瓶を突き出した。
「ユミコ、消えろ! 俺たちの自由を返せ!」
二人のユミコが、般若のような顔で襲いかかってきた。
巨大な掃除機が二人を吸い込み、視界が真っ暗に染まる。
第五章:静寂と安酒
「……ああああああっ!!」
叫び声とともに、ヒロシはソファから転げ落ちた。
「うわっ、なんだ、地震か!?」
床で寝ていたナオキも、芋虫のように跳ねて起き上がる。
静寂。
窓の外では、始発の電車の音が遠くで響いている。
テレビは放送休止のカラーバーを映し出し、「ピー」という電子音が耳に痛い。
二人は、汗だくのまま見つめ合った。
リビングは、相変わらず汚い。
テーブルには空になったポテトチップスの袋と、底にわずかに残ったウィスキーの瓶。
だが、そこにはタピオカも、青汁も、掃除機を振り回す女もいなかった。
「……ナオキ。お前、どんな夢見た?」
ヒロシが、震える手で首筋の汗を拭いながら聞いた。
「……姉貴に、青汁飲まされそうになった。兄貴は?」
「……妹に、原宿までタピオカ買いに行かされた」
二人は、どちらからともなく深い溜息をついた。
それは、五十代の男がつく溜息としては、あまりに切実で、安堵に満ちたものだった。
「……なあ。おふくろ、ユミコを産まなくて正解だったかもな」
「ああ。俺たちの血筋に、まともな女が生まれるわけなかったんだ。もしいたら、俺たちは今頃、家を追い出されて公園で飲んでたぜ」
ヒロシは、よろよろと立ち上がり、仏壇の前に向かった。
おふくろの遺影は、相変わらず慈愛に満ちた表情で二人を見ている。
「おふくろ、ありがとう。ユミコを、連れて帰ってくれて」
ヒロシが手を合わせると、ナオキも隣で深く頭を下げた。
「よし。口直しに、もう一杯だけ飲むか」
「だな。今度は、ユミコがいない平和に乾杯だ」
二人は、残りのウィスキーを二つのグラスに均等に分けた。
琥珀色の液体は、朝の光を浴びて、さっきよりもずっと美しく見えた。
「ユミコに……」
「さよなら」
カラン、と氷が鳴った。
男兄弟二人の、なんの華やかさもない、しかし最高に気楽な夜明けだった。
(完)




