01.夢幻の砦
漆黒の闇の中、鞍祇琴子は独り、佇んでいた。
意識はぼんやりと混濁し、考えを巡らせることすら億劫だ。
視線だけで辺りを見回す。けれど、建物も人も、木や草すら見当たらず、ただただ『闇』だけが琴子を包んでいた。
ぶるっと身体が震える。恐怖からか、寒さからは分からなかった。次第に胸中を不安が襲い、けれど、琴子は恐る恐る歩き出した。
しばらく歩き続けると、自分の足音以外に何か重なる音を感じて琴子は不意に立ち止まった。
カツリ、カツリ。
一定のリズムを刻むその足音は、琴子のそれよりも、遥かに早く、けれど優雅さすら窺えるものだった。
驚いて目を丸め、視線を走らせる。ちょうど斜め前の方向から、橙色の淡い光が零れていることに気づき、琴子は慌てて光に駆け寄った。近くまで歩み寄れば、それが古い木製の扉から零れたものだということを理解する。
そうして、微かな隙間からそっと中を見渡せば、室内には黒い外套をすっぽりと被った人物がこちらに背を向けるように佇んでいるのが目に付いた。その正面には、向かい合うようにして男の姿がある。
男は紺藍の髪に青碧の瞳を持ち、酷く整った面立ちをしていた。その顔に見惚れながらも、冷たさすら感じさせる男の表情に琴子は小さく息を呑む。眉ひとつ動かさない男の顔は、どこか人形のようだった。
男の視線は一心に外套の人物に向けられ、短な沈黙の後、ようやくその口火は切られた。
「 ――――――――― あの獣。真に"傅く者"であるか?」
「相違ありませぬ。あの獣こそ、神子を守り、導き、神子と共に"最期の審判"を行う"傅く者"でありますわ、わが君」
ひとつ、鼓動が高鳴った。
外套の人物の声が、明らかな"女性"のものであったこともそうだが、否。
それよりも ――――――――― 。
(神子…?)
神子と言ったのだ。それに、獣…?
『ティーダ…?』
小さく呟いた刹那、ばっと黒い外套が揺れた。翻る布の隙間から、紫紺の髪が覗く。そうして、こちらを勢い良く振り返った女の瞳の色に、琴子は驚愕した。
(オッドアイ…!)
それも、ティーダと同じセピアと翡翠の ――――― !!
振り返った女の視線が、琴子のそれと絡み合う。女は、男と同様、人形のように美しい顔をしていた。
呆然と息を呑む琴子をしばらく見据えたまま、しかし、女は紅い唇をゆったりと持ち上げる。
何故か、酷く吐き気がした。
「どうした、ライラ」
扉へ視線を寄せたまま、微動だにしない女に、男は怪訝そうに声をかける。
びくり、と琴子の身体は強張ったが、ついと向けられた男の視線が琴子を認めることは無かった為、おそらく男に琴子の姿は見えないのだろうということが窺えた。
小さく安堵の息を吐くが、女の双眸は変わらず琴子を捕らえて離さない。琴子は言い知れぬ恐怖から、自身の胸元を固く握り締めた。
女の半月に細められた双眸も、緩やかに弧を描く唇も、琴子には酷く恐ろしかった。
短な沈黙の後、女はふっと息を吐く。
「いいえ、わが君…。珍しい仔猫が迷い込んだだけですわ…」
くつり、女の喉が鳴った。
紡がれた台詞に、男の眉が微かに上がり、琴子の心臓は鼓動を早める。
「ご心配には及びませぬ。遅かれ早かれ、仔猫は堕ちて参りますわ。わが君の御手に」
『 ――――― ッ!』
息が、詰まりそうだ。呼吸が、上手くできない。
女の瞳が語っているのだ。
"今は未だ、その時ではない"のだと。だから、"見逃してやる"のだと。
その目に滲む女の思考を読み取るや否や、琴子は半ば無意識のうちに、その場を駆け出した。一刻も早く逃げなければならない、という危機感だけが、琴子の胸中を覆っていたのだ。
だから、琴子は知らない。
「そう、必ず…」
妖艶に微笑んだ女が、囁くように呟いたその言葉も。
その言葉の、意味することすら ―――――― 。
暗闇の中を、ひたすら走った。脳裏に焼きついて離れない、あの女の紅い唇と、瞳の色から。ただただ、逃げることだけを考えて、琴子は走り続けていた。
けれど、走っても走っても、前へと進んでいる気配すら窺えず、琴子の心は逸るばかりだった。
どれほど走ったのか、息も切れ切れになってきたころ、ようやく再び光が現れた。
光の前で立ち止まり、それが先刻と同じ、一つの扉から零れているものなのだということに気づき、琴子は十分に用心して扉に近づいた。
扉は先ほどのものよりも、幾分か簡素な造りだった。そっと室内を覗き込む。同時に琴子は目を丸めた。
こじんまりとした室内には、アンティーク調の家具が幾つも敷き詰められている。床にはワインレッドの柔らかそうな絨毯がしかれ、小さな窓のカーテンが暖かな風に微かに揺れていた。
天蓋つきのベットの側の花瓶には、大輪の薔薇が幾つも生けられ、見事な刺繍の入った壁紙と共に、部屋を鮮やかに彩っている。それは、決して華美ではない、落ち着いた雰囲気の『女性の部屋』だった。
部屋は細部に至るまで、手を尽くされているように感じた。琴子のような素人目にも、高級品で埋め尽くされていることが分かるのだから。
(なんだろう…なんか、懐かしい…?)
訳も無く、胸が痛む。不思議な感覚だった。
「 ――――――――― どうして…」
不意に室内に木霊した声に、琴子は目を瞠る。ベッドの陰に隠れて見えなかったものの、少女が一人、床に座り込んで震えていたのだ。
琴子はすぐに、それが自身の思考を闇の底から浮上させた『嗚咽の主』であることを悟った。
緩くウェーブのかかった、長い漆黒の髪が、少女の小刻みに震える肩と同時に宙を舞う。細く線を描く肢体と、淡い珊瑚色のドレスから覗く、真白い肌。ふと、琴子はその少女の顔を覆う掌が、赤く染まっていることに気づいた。
酷く見覚えのあるそれは、『血』だ。
驚いて、思わず凝視する。こんなか弱そうな少女が、一体なぜ… ―――――― ?
眉を潜め、少女をじっと見つめる。瞬間、ギィ、と扉の軋む音が響いて、琴子は思わず音の礎を視線で追った。同時に、少女が勢い良く顔を上げる姿が目に付く。
刹那、琴子は息を呑んで戦慄した。
少女は酷く整った顔立ちをしていた。しかし、何よりも琴子が驚いたのは、少女の顔立ちが明らかなアジア人種だったことだ。
ここで暮らす人々は、皆一様に欧米人独特の顔立ちをしていたはず。しかし、目の前の少女の涙に濡れた瞳は、闇に溶けるような黒で。堀の浅い顔立ちに、小さな鼻。薔薇色に染まる頬に、ぷっくりと程よい厚みを持った唇。卵型の柔らかな線を描く顔は、まさに『東洋人』といっても過言ではない。
「っ、領主さま…」
少女の唇が微かに動き、零れ落ちた鈴のような声に、琴子はハッとした。慌てて少女の視線を追うと、その視線の先…扉の前に、一人の男が佇んでいた。
恰幅のいい体格をしている男だ。白髪交じりの髪に、口ひげをはやしている。年齢はおそらく六十代前後。口元に浮かべられた笑みと、細められた瞳に、嫌悪感を抱く。
服装はゆったりとしたつなぎのローブのようなもので、袖口や襟元に入った豪華な刺繍は金糸や銀糸であつらわれている。決して趣味がいいとはいえないが、それだけで、男が『領主』と呼ばれる地位にいることが納得できた。
「おや…絹のごとき柔肌が台無しでございましょう。どれほど、無体を働かれたのか…」
つい、と男は少女の両手に視線をやって、ついで、血の滲んだ扉を見やった。
少女の身体がびくりと強張る。
「でしたら、どうぞここから出してください…!!」
少女は半ば叫ぶように声を上げた。その言葉で、琴子は少女の手の傷が、扉を叩き続けてできたものなのだと理解する。少女はこの部屋に、閉じ込められているのだと。
しかし、男は眉ひとつ動かさず、少女の手をとって立ち上がらせた。そのまま、穏やかに微笑む。
「それは無理な願いです。貴女様は大切な、神子姫様であらせられる」
男のこえに、琴子はこれ以上ないほど瞠目した。
いま、男は何と言った…?
『神子…?』
神子姫、と。
老婆の言葉が、頭を過ぎる。『神子』は、『闇色の髪』と『黒曜石の瞳』をしているのだと。
目の前の少女は、確かに黒髪に黒い瞳で。
けれど、領主が少女に向ける態度や言葉遣いは、老婆が言う『死を呼ぶ神子』の扱いとは、程遠い気がした。
『どういうことなの…?』
だんだん頭が混乱してきた。目の前の少女は『神子姫』で。琴子は死を呼ぶ『千年の神子』で。
丁寧に、大切に扱われる『神子姫』は、けれど『監禁』されている。
なぜ?
「では…では、もう我侭は言いません。ここから出ることも、あの方に会うことも、望みません。ですから、お願いです…! あの方を傷つけないで!」
ぼろぼろ、少女の瞳から零れ落ちる涙の雫。そんな少女に、領主は微笑を深く刻む。
ギクリ、と琴子の身体が強張った。
(だめだ、聞いてはいけない ――――――― !)
「残念です、神子姫様。身 を知ら ぬ の な者は ―――――――――――――― 」
『 だ、め ! !! や め て ! 』
( 聞い ては イ ケナ イ ! ! ! )
「ご覧 さ 、 の外。
い あや の が、立ち上って さまがご 頂ける ょ う ?」
優しささえ含むその囁きは、少女の瞳を驚愕に見開かせた。
『やめて…!!! やめて、やめて、やめて!!!!』
「 ――――――― いやああああぁぁぁ!!!!!」
崩 壊 す る 。
少 女 の 精 神 。
重 な って 。
連 な っ て。
リン ク す る。
「駄目ですよ。
それ以上は、 ――――――― 引き込まれます」
「 ――――――― ッ!!」
耳元で響いた声に、琴子は刹那、勢いよく目を見開いた。