07.泡沫
どちらへ進むかすら分からない状況で、けれどひたすら、琴子は道なき道を歩き続けた。
幸い、人にも、獣にも出逢うことはなく、途中、小さな小川の水で喉を潤し、樹木の根元に転がる甘い匂いの果実で空腹を補った。
琴子がその森を無事に抜け出したのは、歩き続けて五日後のことだった。
僅かに切り立った斜面の向こうに、簡素な家が見える。そこは、小さな農村のようだった。
数棟に満たない萱葺屋根の家々。柔らかな風にゆれる、白いシーツ。中年のふくよかな女が、子供と唄を歌いながら木の実を拾っている。
もはや琴子の体力は底を尽き、血と泥に塗れた身体は、至る所がぼろぼろで、立っていることすら不思議だった。
けれど、琴子は彼らに助けを求めることは愚か、声をかける気すら持ち合わせてはいなかった。
(あたしは、異質だ…)
先の村で、老婆は言ったのだ。琴子こそ、『この国に、死を呼ぶ神子』であるのだと。
"この国"と言うからには、おそらく他にもいくつか国が存在するはずだ。そして、国境というのは、必ず何らかの検問を行っているはず。
だとすれば、未だ何の検問も受けていない琴子は、先の村の老婆が言う"この国"から抜けてはいないはず。
つまり、先の村と同じ鉄を踏む可能性が高いのだ。
そう、『殺される』という、鉄を。
ごくりと喉が鳴る。
軽く視線を彷徨わせ、微かに震え始めた身体を自らの両手で抱きしめた。
ここへ来てから、よく自分で自分を抱きしめている気がして、琴子は自嘲気味に笑った。酷く自分が滑稽に思えたのだ。
琴子はふと思い立って、物干し竿の側の籠から、黒い外套を失敬した。『死を呼ぶ神子』は、黒髪に黒い瞳だと老婆が言っていたのを思い出したのだ。それを頭からすっぽり被り、農村に背を向ける。
行き先なんて、知らない。
けれど、歩き続けるしか道はないような気がした。
最初の村から、歩き続けて数十日が経った。もしかしたら、すでにひと月を越えているかもしれないが、琴子は歩き始めて十五日後には、日を数えることを止めてしまったので、詳しい日数は分からなかった。
そうして、途中いくつかの森を抜け、高原を進み、数多の村や町を通り抜けた。夜は出来るだけ民家の側で寒さをしのぎ、昼は獣道を身を隠すように進んだ。森で野宿したときは、野党や山賊、獣に怯えながら、一晩中寝ずに息を潜めて過した。数度、彼らに遭遇しそうになったが、慎重に歩を進めていたことが幸いし、なんとか見つかることなく切り抜けた。それはまるで奇跡だと思った。
そうして歩き続けて行く中で、この世界の成り立ちも、なんとなく分かってきた。場所によって、人の数もその生活水準も異なるものの、ここに存在する人々は皆一様に欧米人種のようだった。
すっと高く通った鼻筋に、ぱっと目を惹く大きな瞳。顔立ちはくっきりとしており、アジア系の容貌をした人間は今の所見かけていない。琴子がもといた世界との違いと言えば、髪や瞳の色が明らかに異質であることくらいだ。さめるような鮮やかな緋色の瞳を持つも者もいれば、深い湖を模したかのような、藍の髪を持つ者もいる。はじめて出逢った村人たちが、茶髪に茶目・金髪に碧眼など、オーソドックスな色合いであったから気づかなかったのだが、それはまさに多種多様であり、眩暈を起こすかのような艶やかさだった。
更に、彼らの纏う洋服は、色とりどりのデザイン性に優れたものでは決して無かった。それはどれも、簡素で素朴で、…そしてどこか古めいていた。同時に、服装に比例するように技術もまた然りであった。
琴子が歩んできた道程の中で、それなりに大きな町はいくつかあったが、それでも夜になれば人々は街灯ではない仄かな蝋燭の灯火を目印として行動をするし、昼間は洗濯機の代わりに洗濯板を使って川や井戸の水で洗濯をし、かまどで焼き物を調理した。
そして、追い討ちをかけるように、ここには盗賊もいれば山賊もいる。最初の村での、あの恐ろしいほどの惨劇すら、日常の一齣として受け入れられているのだ。
ここでは、人はあっけないほど簡単に命を落とすし、人は自己を守るためにその手を血に染めることを厭わない。
まるで、ゲームか漫画か小説か。はたまた映画のようだ。正直、笑い話にもならない。
さらに最悪なことに、数多の色を有するこの"世界"で、しかし『黒』という色を持つ者は幾人にも満たなかった。しかも、そのほとんどが高貴な者の『奴隷』であったり、村や町のスラムではみ出し者として蔑まれていたり…と、碌な扱いではない。
外套を頭からすっぽり被ってどうにか難を逃れている琴子は、自分の選択の正しさに改めて安堵した。この髪と瞳を陽の下にさらして見せれば、数刻もしないうちに捕らえられ、殺されるのであろう。何故なら、髪と瞳の両方に『黒』を持つ者を、琴子は未だ目にしたことはなかったのだから。
またしても、老婆の深淵を這うような声が蘇り、琴子は軽く頭を振った。同時に、疲労と空腹と、全身を鈍く襲う痛みで、気が遠のきそうになる。
――――――――― そう、お前は正しく『千年の神子』
――――――――― その闇色の髪、その黒曜石の瞳、違えるはずもない
――――――――― この国に、…この邑に、死を呼ぶ神子さ
老婆の声が、いつまでも耳にこびりついて、離れようとはしなかった。
歩き続けて、さらに数十日が経った。琴子が辿り着いたのは、今までで一番大きな、都市とも呼べる街だった。
城門から一直線に大通りが通って、その両端に数多の店が並ぶ。美味しそうなスープ、芳しいパンの匂い。果物や野菜などの食べ物から、色とりどりの布やキラキラ輝く宝石まで、店の種類は実に様々だった。
真っ直ぐ伸びる道の正面には、白亜の宮殿がその存在を鮮やかに示す。辺りに所狭しと並ぶ家々は、陽光に輝く、真白い砂壁だ。
通りを歩く人の表情は皆、一様に明るい。豊かで、温かくて。満たされている所なのだろうと、琴子は壁に身体を預けるようにして、流れる人の波を眺めていた。
(眩しい…)
否。
琴子には、眩しすぎて。
身体を壁に引き摺るようにして、琴子は通りを一本奥へと進んだ。街角を一歩奥へ入れば、そこは俗に『スラム』と呼ばれる、犯罪と貧困の街が顔を覗かせる。
(そんな場所の方が、居心地がいいなんて…)
可笑しなものだ、と琴子は力なく笑った。
意識が時折、途切れがちだ。もう、限界なのだろう。思考の奥で、琴子はぼんやりとそんなことを思っていた。
壁伝いに、そっと地面に倒れこむ。冷たい地面の感触が、頬に馴染んだ。
ふと、指先にかさりと微かな感覚が伝わって、それが既に朽ち果てた木の葉なのだと、琴子は鈍く動く頭の中で理解した。
同時に、何の躊躇いも無くそれを握り締めると、口へ運ぶ。
とにかく、腹が減っていた。
もう、何日まともな食事を摂っていないのだろうか。
もう、何日風呂へはいっていないのだろうか。
もう、何日他人と言葉を交わしていないのだろうか。
もう、何日… ―――――――――
「 ――――― かえりたい、な…」
ポツリ、思わず零れた言葉は、無意識のものだった。けれど、すぐに言葉を失う。
(かえりたい…? いったい、どこへ……?)
帰る場所なんて、あるのだろうか?
友人のいた、両親のいた、あの場所?
あの場所へ帰って、何がどうなるというのだろうか?
仮初の友情を結んだ友人たちと笑い、両親にすら関心を持たれず、意味も無い生を生きていた、琴子。
「は、はは…」
笑い声が、掠れた。
「かえる…ばしょ、な、んて…ない……」
平凡で、安穏で。ぬくぬくとつまらない日々を過していた、あの世界。
そんな世界から一転し、異形の獣に連れられやってきたこの場所で、今度は獣が姿を消し、人は琴子を『死を呼ぶ神子』だと罵った。
皆が、琴子を『いらない存在』だと、言っているようで。
(親も、他人も、世界すら ―――――――――― あたしを、『拒絶』するんだね……)
視界が霞む。
喉がカラカラで、もう指を動かすことすら億劫だった。
(死ぬ、のかな…?)
今度こそ?
(誰も、あたしを知らないこの場所で…?)
死ぬのだろうか…?
こんな場所で。こんな世界で。
誰にも気に止められることなく、誰にも目に留められることなく。
ひっそりと。
(しぬ…?)
そんなに、あっさりと?
琴子を『拒絶』し、『否定』する、この場所…この、世界で?
(な、に…、それ…ッ?)
「 ――――――――― じょう…だんじゃ、ない…」
そう、冗談ではない。
冗談では、ないのだ。
ふつふつと、怒りが琴子の胸を襲った。
あの世界でも、異世界でも、こんなにもあっさりと琴子を『否定』する世界。
琴子を、『排除』しようとする人々。
そんな彼らの思惑通り、あっけなく死んでなど、やるものか。
(ぜったいっ…、生きてやる…ッ!!)
愛されることなんて、とうの昔に諦めた。
たった独りで孤独だなんて、もう思わない。
けれど、親も、他人も、世界すら。琴子を拒絶し、排除しようとするのならば。
だったら、琴子は生きてやるのだ。
生きて、生きて、生きて。
簡単に死んでなど、やらない。その心算通り死んでなど、やらない。
とことん、生きてやる。
「生きてやるッ…!!」
喉の奥。低く呟いた声は、掠れていたけれど。
ザッと土を踏むその音に気づくことなく、琴子の視界はそのままブラックアウトした。