00.はじまりのこえ
かさり、指先に微かな感覚が伝わる。
耳に届いた音と、その触覚から、それが既に朽ち果てた木の葉なのだと、琴子は鈍く動く頭の中で理解した。
陽光に輝く真白い砂壁の建造物は、それに勝るとも劣らない白亜の宮殿の下に、幾つもの数を有している。
ふんわり、風にのって鼻をくすぐる柔らかな洗濯物の匂い。
子供の笑い声。
幸せそうな微笑を浮かべ、力強く『生きて』いる人々。
――――――― けれど、そんな喧騒に溢れる賑やかな街角を一歩奥へ進めば、俗に『スラム』と呼ばれる犯罪と貧困の街が顔を覗かせる。
たとえ、ここが聖王国と呼ばれる誉れ高き国であっても、『闇』は必ず存在するのだ。
光があると、必然的に陰ができるように。
光の世界を愛する彼らは、通りを一本奥へ進んだこの『スラム』を、決して見ようとしない。
手を差し伸べようとはしない。
その存在すらも、認めようとはしない。
結局、誰しも自分が一番可愛いのだ。
霞む視界に映る、確かな『温かさ』を、琴子は別世界の出来事のように感じて小さく嗤う。
そう。琴子もまた、この場所に流れ着いた数多の人間の中の『一人』であった。
陽を閉ざされた薄暗い空間に、ツンと鼻を刺すような、カビの匂い。小さな路地に、力なく身体を横にして預けたまま、琴子はゆっくりと顔を動かした。
冷たい地面の感触が、頬に馴染む。指先の感覚を辿れば、予想通り一枚の木の葉が映った。瑞々しい碧ではなく、黄土色に変色した枯葉だ。
しかし、琴子は刹那、何の躊躇いも無くそれを握り締めると、口へ運んだ。
とにかく、腹が減っていた。
毒でなければ、何だって良かった。人が食べ残した残飯にありつける日は幸運だ。そうでない日は、草だって木の根だって、虫だって。何だって、食べた。
それでも、空腹はいつだって琴子を襲う。
(なぜ、なんだろう…?)
口内に広がる苦い味を噛み締めながら、琴子はぼんやりと思考の波に埋もれる。
(なぜ…?)
そうだ。なぜ…、なにがどうして、自分がこのような状況へ陥っているのだろうか?
鞍祇琴子は、つい一月ほど前までは、普通の女子高生だった。
日々、つまらない授業を受けに学校へ通い、週一回のクラブ活動に参加し、放課後は毎日のように近くのカフェのアルバイトへ向かう。休日は、そこそこ仲の良いクラスメイトと、買い物やカラオケへ出かけたりもした。
そう。残飯を漁る生活など、したことはなかったのだ。
草木や虫を口に含むなど論外だ。
一月近く風呂へ入らなかったことも無い。
畏怖の対象として、忌み嫌われることも、罵倒を浴びせられることも、石を投げつけられることも。
地面を駆ける、馬の嘶き。
藍の空に響き渡る、剣戟。
人々の怒号と悲鳴。月光に閃く三日月に歪んだ笑み。濁った双眸。
そして、紅に滲む ――――――――― 鮮血、すら。
十七年間生きてきて、初めての経験だった。
(いったい、なんで、こんなことに、なったのかな…?)
口元へ寄せた手のひらを、握り締めた。否。握り締めようとした。
けれど、力が入ることはなく、琴子は小さく息を吐いた。
空腹と疲労と、身体中を襲う数多の痛みで、もう、瞬きをすることすら億劫だった。
冷たい地面の感覚が、横たわる身体にどこか心地良い。象牙色の肌は泥と血に塗れて、既にその色を無くしている。
ぼろぼろの外套の隙間から、元は高校の制服だったセーラー服の袖が覗いた。外套も制服も、至る所が破れたり解れたりしていて、黒く汚れている。
はじまりは、一体、何だったのだろうか?
永久に続くはずだと。
そう、信じて疑わなかった『毎日』が、あっけなく終わりを告げたのは。
脳裏に蘇るのは、鮮やかなオッドアイと、高い鈴の音。
琴子はゆっくりと瞼を下ろし、遠いようで近い過去に、想いを馳せた。