第九話「絶望の足音」5
怪物から、乾いた木がしなる音が聞こえた。見上げると、巨大な腕を振り上げていた。これは、どっちだ? 薙いでくるか、真っすぐ落としてくるか。
風を震わせて一気に落ちてきた。離れて見ていた時とは、速度がまるで違っていた。遥か頭上にあると思われた腕は、一瞬にして眼前に迫っていた。
「くっ――」
後方に倒れ込む様に飛び、間一髪の所で躱すことが出来た。急いで姿勢を立て直すが、既にもう片方の手が、俺の全身を捉えようとしていた。目の前いっぱいに広がる、木の根で作られた大きな手のひら。
――避けきれるか!?
体勢不十分ではあったが、全身に力を込め、後方に跳んだ。辛うじて躱すことが出来たが、こうも連続で来られると体力が持たない。それにこんなんじゃあ、こいつの体勢を低くするなんて、夢のまた夢だ。
やはりルナリスに起きてもらって――。そう思いルナリスを見ようとした瞬間、死角から何かが飛ぶように俺の体を殴りつけた。
壮絶な衝撃に一瞬意識が飛んだらしく、飛ばされ、木に叩きつけられたのは確かなのだが、映像は夢のように滲み、意識が揺らいだ。地に倒れる際も受け身が取れず、頭を土の地面に打ち付けてしまった。
――もう……ダメだ。こんな事ってあるかよ。まだ、大冒険が始まったばかりじゃないか。これ、負けイベなのか? 次目を覚ましたら、ノクティアのベッドの上にいて――
白く消えそうになる視界に、こちらへゆっくりと歩を進める怪物が映る。
――とどめを、させられる。俺、今度こそ死ぬんだ。
焚火の光に、不気味に揺らめく怪物の大きな影。……と、もう一つの小さな影。
ん、誰だ? え、あれは――
ルナリスだった。
「あなたを、絶対に許さない!」
暗闇に響く声は、いつも聞く優しい声とはかけ離れていた。ステッキを両手で持ち、肩を上下に大きく揺らして息をしている。腰は完全に引けてはいるが、睨みつける眼差しに“怪物を倒す”という意思を感じた。
ルナリスはステッキを怪物にかざして、詠唱を始めた。
「偉大なる大地と炎の精霊よ、我が願いに応え、疑念体となり現れたまえ!」
しかし強い意志も虚しく、あいかわらず、そこに魔法は現れなか――いや、ほのかに、かざすステッキの先に赤い揺らめきが見え始めた。その光は見る見るうちに大きくなり、遂には大人ひとり分ほどの大きさになった。大きな松明の様に揺らめく炎。ルナリスは渾身の力を振り絞るように叫んだ。
「フーレイムゥ! ルゥー!」
大きくなった炎は、まるで銃弾の様に、怪物の顔目掛けて一直線に飛んだ。放ったルナリス本人も、その威力に負け、後方に飛ばされた。
炎の速度は尋常ではなく、一瞬で怪物に被弾した。
怪物に当たりはしたが、炎は勢いを失う事無く、風を切りながらそのまま空高く飛んでいった。そして、すぐに目視では確認できなくなった。
訪れる静寂。
動きを止めた怪物。
そいつの不気味な無表情の仮面は、そこを含め、胸から上、全てが無くなっていた。
“あの夜”でも見たが、やはりルナリスの魔法は凄まじい。ヘビーマジックで間違いないだろう。
ルナリスは魔法を放ったせいか、息を切らし項垂れていたが、それでもこちらへふらつきながらも来てくれた。
すぐに俺のそばで膝をつき、両手を胸元にかざし回復呪文を唱えてくれた。小さな手のひらから優しい緑色の光が放たれ、俺の体をふわりと包んだ。
「はは、今度は、簡単に出せたな」
体中から痛みが消えていく。
「ええ、前回もそうでしたが、一度使えると、続けて使えるんです。コツとか、体に残っているのでしょうか」
ルナリスは照れたように微笑んだ。俺の回復を済ませると、すっくと立ちあがり、今度は表情を引き締めた。
「はぁはぁ、しばらく気を失っていた間に、大変なことになってしまいましたね。申し訳ありません。早く、ふたりにも回復魔法を――」
ルナリスが体を重そうに立ち上がると、ガルドとトウカの元へ行こうとした。その時、大きな木と木が、擦れるような音が静かな空間に響いた。不気味に、低い音。
ルナリスと共に、ゆっくりと音の鳴る方に目をやる。
胸から上が無くなった森の怪物は倒れず、まだそこに立っていた。残された胴体が、きしむ音を立て、ゆっくりと傾いだ。
――終わってなど、いなかった。
第九話「絶望の足音」 終わり




