第一章 知らない横顔
恋なんて、もうしばらく縁のないものだと思っていた。
仕事に追われて、誰かを好きになる余裕なんてどこにもなくて。
気づけば、自分の心が乾いていることにさえ慣れてしまっていた。
だけど――ある日の電車で、ふと見かけた横顔が、そんな日常を静かに壊してしまった。
名前も知らない、話したこともない人。
それなのに、なぜだろう。胸の奥が強く震えて、私はどうしても目を逸らせなかった。
この物語は、そんな私が経験する小さな奇跡の記録だ。
派手な運命なんてなくても、ただ心を動かされる瞬間がある。
それを「恋」と呼ばずに、なんと呼べばいいのだろう。
――どうか、私の記憶を、あなたに読んでほしい。
電車の窓に映る自分の顔が、今日はやけに他人のものみたいだった。
頬は少しこけ、目の下には薄い影。残業帰りの疲労と、冷房の効きすぎた車内に押しつぶされながら、結衣はため息を落とした。
社会人になって三年。仕事を覚えるのに必死で、恋だの愛だのは置き去りにしてきた。気づけば、心が乾いていることにさえ慣れてしまったように思う。
そんなとき、視線の端に、知らない横顔が滑り込んだ。
きれいすぎるわけではない。雑誌のモデルみたいな派手さもない。
けれど――目を逸らせない。
彼はイヤホンを外して、スマホの画面を見つめたまま小さく眉をひそめていた。まるで、世界に自分一人取り残されたような表情で。
その横顔に、不思議な生々しさがあった。
結衣は気づけば、息を潜めるみたいに彼を見つめていた。
知らない誰かに心を奪われるなんて、ありえない。そう思うのに、目が離せない。
やがて電車が駅に停まった。
彼は立ち上がり、すっとドアの方へ歩いていく。
その背中を、ただ見送るしかできなかった。
ドアが閉まる直前、ほんの一瞬だけ彼が振り返った。
目が合った気がした。――いや、勘違いかもしれない。
それでも胸が、強く跳ねた。
彼の姿が消えたあとも、残された鼓動だけがやけに大きく響いていた。
――名前も知らない人の横顔に、心を奪われるなんて。
こんな感覚、何年ぶりだろう。