第177話 可能性の話
蘆屋道孝が『八人目』の魔人になる。
八人目の候補は転生者と知った時から、その最悪の可能性については常に考えてきた。
オレが愛する『BABEL』の世界をオレ自身の手で壊してしまう、オレにとってはこれ以上の悪夢はそうない。フロイトから世界を守るために行動してきたが、その最悪の可能性を絶対に避けたいという気持ちもオレの原動力だった。
しかし、今、オレには選択が突きつけられている。
オレが『八人目』になり、その上で世界を守るという選択。考えもしなかった可能性であり、それを提案しているのが、魔人の一角だという事実がオレを困惑させていた。
「そもそも、今回の危機の発端となったのは『眠り姫』の予知夢だ。私の知る限り、彼女の予知夢は外れたことがない。つまり、彼女が八人目を見たと明言した以上、八人目は必ず現れる。そして、現実も崩壊を始める。しかし、その先について彼女は何も見ていない。」
そんなオレの心中を知ってか知らずか、局長はつらつらと話を続ける。だが、おかげで落ち着けた。
局長は人類の味方だ。その在り方にすべてを捧げている。逆にいえば、今の世界を守るためならばどんな手でも使う。
オレが八人目になるというのはそのための手段の一つなのだろう。
「あの時の、アリアの予言は確か…………」
空が割れて、星が落ち、現実が崩壊する。その中心に八人目が立っていた。そんな予言だったはずだ。
……こう思い返してみれば、この予言で確定しているのは八人目の出現のみでその後のことは明言されていない。
といっても、現実世界が崩壊する以上、そのあとがどうなったとしてもオレたちのような人間にはどうしようもない。
だが、局長は違う。深異界と接続された七人の魔人であれば、この予言はまた別の意味を持つのだろうか。
「実のところね。仮に現実世界が崩壊したとしても、我々魔人ならば、その後の世界を再構成するのはそう難しくないんだ。それこそ、思うままに世界を創れる。我々の一部はそのために八人目を容認したくらいだ」
「無論、その際には我々の間でも主導権争いは起きるがね」と付け加える局長。それはそれで見てみたいという良くないオタクも顔を出しそうになるが、どうにか堪えた。
「だが、より確実なのは八人目自身が世界を再構成することだ。世界を終わらせたものには、同じように始める権利がある。それゆえ、君が八人目になってくれれば話が早い、そう思っていたんだがね」
「……話は分かりました」
ようは、次善の策だ。
世界の崩壊は避けられない。避けられないのなら、その後に建て直せばいい。
しかも、その再建の主導権を味方が握るのならその方がいい。オレも局長の立場なら同じような策を考えるだろう。
でも、それは人間のオレにとっては――、
「そう難しく考える必要はないよ。君はすでに入り口に立っている。踏み出すだけで、あとは世界の方が君にかしずく」
オレの動揺を気に留めてもいないのか、魔人でもある『解体局局長』クロウリーはそう追い打ちをかけてくる。
現実世界の保護のために動いているとはいえ、彼はすでに人外の身。そんな彼にしてみれば人間をやめる程度のことは大したことじゃないんだろう。
無論、こっちにとっては大したことだ。
事実、オレだけじゃなくて背後の2人、厳徹殿と巫女田先生の2人の動揺も感じられる。
……この感じからすると、2人とも『八人目』の件については聞かされているのか。その上で、オレが候補者の一人だと知って動揺している、と思う。
ああ、くそ、完全に動揺してしまっている。六占式盤の操作さえおぼつかないなんて、いつ以来だ……?
「それとも、人間としての自分に未練があるのかい?」
「……そりゃ、あるでしょうよ」
辛うじてそう絞り出す。
オレは、『BABEL』の登場人物をすべて愛している。無論そこには人間ではない人外のキャラクターも含まれているし、この世界に転生してからであった人外の友人たちも愛している。
けれど、同時に人外の悲哀もオレは知っている。
原作『BABEL』のテーマの一つは『運命』だと言われているが、もう一つのテーマは『選択』だ。人間をやめるという選択はその中でも極北ともいえるもの。だからこそ、その意味や悲哀については特に入念に描写されていた。
特にオレの記憶に焼き付いて離れないのはエンディング30『運命の僕』だ。
このエンドでは主人公『土御門輪』は仲間を救うためにある怪異と契約を交わす。その結果、彼の魂は変質し、人間ではなくなってしまう。
昨日までの幸せが途端に無価値に思え、料理の味を理解はできても感じることはできない。人間という規格から一度はみ出してしまえば、もう二度とは元の自分には戻れない。
それでも、土御門輪は人間の中で生きていかねばならない。そうすることでしか、かつての自分を思い出すことができないから。
一つの選択の結果であり、悲しき末路。だが、間違いではないからこそ、このエンディングだけはBADENDでありながら右下のクレジットには『BADEND』ではなく『END』と表記されていた。
オレはこのエンディングに何度も涙した。主人公の輪の心中に切なくなり、悲しみ、本気でつらくなった。そして、その選択が登場人物も含めて多くの人間に傷を残すものなのだと知った。
だからこそ、転生してすぐに『人間をやめる』という選択肢は取らないと、そう誓ったんだ。
けれど、それでしかこの愛する世界を、みんなを守れないのなら、オレは――、
「まあ、不可逆の変化ではあるからね。迷うのは当然だ。それに、わたしが無理強いしようとすれば、厳徹に首を飛ばされかねない。この件は一旦、わきに置いておくとしよう」
オレが決断を下しそうになったところで、本気とも冗談ともつかない態度で局長はそう話を打ち切る。
……危ないところだった。あのままだったら、頷いていたかもしれない。
それも選択の一つではあるんだろうが……オレはまだみんなといたい。こんなオレのことを認めて、一緒にいたいと思ってくれる人達のところに帰りたい。他の選択肢があるうちは、まだ、決断はしたくない、そう思ってしまう。
……昔のオレなら、光のオタクとしての純度を保っていれば、喜んでこの世界のために身を捧げることもできたんだろうが、今はできない。
その意味では、オレも劣化していると言えなくもないか……、
でも、その劣化をオレは幸福だと感じている。今大事なのはそれだけだ。
「ああ、そうだ、理事就任の件だが、そちらは私が認可した。誰も文句は言わないだろう」
「……どうも」
ついでに、あっさりと理事になってしまった。
嬉しくはない。そもそもこれは査問会なわけだし、理事になれても拘束されたりすればそもそも意味がない。
「あまり嬉しそうじゃないな。うーん、支部長か副局長になりたかったのかい? あまりおすすめはしないが……」
「い、いえ、そういうわけじゃありません。ただ、これは査問会ということなので……」
「ああ、それか。なに、査問といっても君と直接話をしたかっただけさ。わずらわしい局内政治やら体面やらを抜きにね。それに、多少の粗があったとしても君ほど優秀な探索者をこの程度で罰したりはしないよ」
そう言い切った後で、局長は「あくまで私は、だけどね」と付け加える。
それもそうか。局長にもなれば局内の業務すべてをいちいち把握してなんかいられない。ましてや七人の魔人の一角ともなれば、視野が広すぎていちいち人間同士の些末事になど関心は向けていられないはずだ。
なので、仮にオレが転生者だとばれて監査部に拘束されたとしても局長はいちいち手を回してはくれないだろう。
でも、今は味方だ。それに、彼ほどの存在に質問できる機会はそうない。
「……局長。現実世界の崩壊を止めるのに、オレが八人目になる以外の方法はないんでしょうか?」
本当は魔人となった経緯やそれまでの来歴、あるいは趣味や好物なども聞きたいが、今はオタクを全開にしている場合じゃない。
局長は魔人だ。当然、人間であるオレなんかよりもはるかに広い見識と視野を持っている。
ならば、八人目の出現に対抗する手段をいくつも用意しているはず。オレ頼みなんていうどこから見ても勝率の低い博打にすべてを賭けたりはしないはずだ。
それを聞くことができれば、オレにとっても助けになるかもしれない。少なくとも、オレたちだけで動いている現状よりはマシになる、はずだ。
「ふむ。聞いていたよりもきちんと人間をしているんだね、君は。意外ではあるが、好ましくもある。けれど、私の答えられる範囲には制限がある。理由は知っているね?」
「……魔人同士の誓約ですね」
『七公会議』での決定は同格の魔人同士の間でもその行動を制限できる。
一度、八人目の誕生を容認すると決した以上は魔人たちがそこに直接干渉することはできないようにになっている。『死神』である誘先生がオレを弟子として動かしているのもそれが理由だ。
局長とてそれは同じ。八人目の誕生に干渉しないようにするには言葉を選ばざるをえないのだ。
「その上で、君の問いに答えるのなら、方法はある。危険かつ、君が魔人になるよりもともすれば可能性の低い方法ではあるがね」
それでも構わないとオレが頷くと、局長はどこか楽し気な笑みを浮かべた。
爬虫類は冷血動物とよく言うが、クロウリー局長には奇妙なまでの人間臭さがある。
おそらく意識的なものだ。人間であったことを忘れないためにやっている反復動作のようなものと見た。
「魔人の誕生には、深異界の成立が不可欠だ。そして、深異界は一種の『特異点』ともいえる。つまり、その場ではあらゆる法則が成り立たない。運命でさえも、あの場ではあやふやになってしまう」
「……つまり、深異界では眠り姫の予言も覆せる?」
オレの確認に、局長は曖昧な笑みを浮かべるだけだ。七公会議の誓約として肯定も否定もできないのだろう。
………理論としては理解できる。
同じ魔人である『教授』でさえ八人目の誕生に際して何が起こるかは予想できないと言っていた。
であれば、全てがひっくり返るということもありうる。
勝負は、八人目が誕生しようとするその時。そこにすべてを積んで不利な戦いをひっくり返す。
なんだ、そう考えれば、いつもやってることじゃないか。
「いい顔だ。探索者はそうでなくてはね」
局長に言われて、自分の顔に触れる。確かに表情が緩んでいる。どうやら肩の荷が少し降りたらしい。
すべきことがはっきりしたおかげだ。
相手がどんなに強大でも戦力を分析し、背景を知り、対策をうてば必ず勝てる。原作においても共通する原理だ。
そう、いつでもオレを救ってくれるのは『BABEL』。それをフロイトなんかに壊させてたまるもんか。
そのために必要なのは、やはり情報。フロイトの正体と目的、それらを知れば、対策が見えてくる。
だいたい、オレがこの場所に来たのも情報を集めるため。予想外の事態に翻弄されていたが、今こそ本来の目的を果たす時だ。
……局長の権限があれば、焚書指定の情報にもアクセスできるはず。こうなれば、借りれるだけ力を借りてやるさ。
「決意は固まったようだね。では、行くとしようか。20年前の事件、全ての因果の始まりとなったその場所に」
だが、そう口に出すより先に、局長が指を鳴らす。
次の瞬間、周囲の景色がぐにゃりと歪み、様々な色の光が消えかけの電灯のように明滅しはじめる。
連想するのは、絵の具が水に溶ける様。何もかもが溶け落ちていく中で、意識だけははっきりと保たれていた。
「少し待ってくれたまえ。君を仮想時間の因果から切り離すのに少し時間が――おっと、これはよくないね」
局長がなんでもないようにとんでもないことを言い放ったその時、オレの視界がその人影を捉える。
何かが局長の背後に立っている。
なんの気配も魔力も発さないそれは、確かにフロイトの姿と一致していた。