第176話 ある魔人の憂鬱
『BABEL』世界における最強存在の一角『七人の魔人』は全員もとは人間だった。
その点が、同じように強大な力を持ち人の認識から生じた歪みでもある『怪異』や『神』との最大の違いだ。
それゆえ『魔人』たちはかつて人間であった頃の名残をどこかに残している。外見か、あるいは内面か。生前の彼らを知らないオレ達には詳細を知るよしもないが、考察することはできる。
例えば、先生こと『死神』誘命の場合は外見と性格。教授の場合はおそらく行動原理である探究心は人間であった頃から持っていたものだろう。
では、目の前にいる『椅子に座るもの』の場合は――、
「あまり驚いてはいないようだね。さすがというべきなのだろうが、少々残念ではあるか」
「……驚いてますよ。驚きすぎて思考が追いついてないだけです」
解体局局長クロウリーを名乗る魔人が肩をすくめる。一見すると人間らしい動作だが、その表情やしぐさには微かな違和感があった。
人間の薄皮を被った人型の爬虫類……今の彼の肉体であるというだけだが、その情報は彼が司る深異界がどのようなものであるかを示している。
すなわち、社会の裏側に根付く『都市伝説』。社会が発達し、複雑化していくにつれて成立した概念が彼を生んだ。
……確かに設定資料集にその存在について記載されていた。もっとも、そこにあったのは別の名前だったが、本人がそう呼んでほしくないというのだからそちらに合わせるのが礼儀だろう。
それよりも気になるのは、七人の魔人の一人が解体局の局長をしているという点だ。
こればかりはいかなる設定資料でも一切触れられていない驚愕の事実だ。
いったい、どういう経緯でこんなことになっているのか。正直、その方が気になりすぎて怖がったり、驚いたりしている暇がない。
「聞きたいことが山ほどあるって感じの顔だ。聞いていた通り、腹芸には向いてないね。好感は持てるが」
いつのまにか『局長』の手には中身の注がれたシャンパングラスが握られており、楽し気に口を付ける。「君もどうだい?」などと聞いてくるので「未成年」なのでと断った。
「まず、前提条件として、私は間違いなく解体局の局長だよ。無論、自認の問題ではなく客観的な事実としてね。そうだろう、2人とも」
「……ええ、お久しぶりですな、局長殿」
「まさかご自身がいらっしゃるとは……」
局長に尋ねられて背後の2人、厳徹殿と巫女田先生が口を開く。
2人は解体局の上級職員だ。局長と面識自体はあるようだが、それでもその反応から彼がこうして直接姿を現すのは異例中の異例なのだと理解できる。
となると、解体局の局長が七人の魔人の一角であるというのは紛れもない事実らしい。無論、魔人ともなれば人の記憶や認識を改ざんして自分こそが局長であると思い込ませることも簡単だろうが、そこを疑うのは不毛だし、それはないと思う。
厳徹殿も巫女田先生もベテラン中のベテランだ。精神防壁は当然、強固で分厚い。簡単には認識改ざんされないはずだ。
もっとも、魔人相手に絶対安心なんてものはありえないのだけど。
「ついでに言うと、君が思っているのとは順序が逆だ。私が魔人になったのは、解体局の局長になった後、より正確に言えば、この組織を立ち上げた後のことさ」
な、なんと……! 原作では存在しか語られなかった解体局の『五人の創設者』、現局長がその1人だったとは……!
しかも、七人の魔人の一人でもある……! 盛りすぎじゃないかと思うほどに設定が重なっているが、オレとしては大好物だ。
……いかん。オタク心が暴走してしまっている。
相手は七人の魔人だ。その気になった瞬間にオレのようなか弱い存在は消し飛ばされる。それこそ、こっちにできることはほとんどないが、気を許してはいけない。
それに、こいつはあの『七公会議』で――、
「――なら、なぜ、貴方はあの会議で、『八人目』を認めたんだ?」
しまった、と思った時には疑問が口をついて出ていた。
だが、これは好奇心からではない。
噴き出したのは怒り。なぜ解体局の局長ともあろうものが、オレの愛するこの世界を滅ぼしてしまうような決定に賛同したのか。それを問いたださないことには、話などできない。
巫女田先生と厳徹殿が八人目のことを知っていようといまいと、この際どうでもいい。こんな機会はまたとない。
「その件か……」
オレの問いに、クロウリー局長はため息をついてシャンパングラスを揺らす。
金色の液体が周囲のサーバーの光を反射して、怪しくきらめいた。
……機嫌を損ねたかもしれない。でも、ここで逃げたら、この世界のために命を懸けている解体局員全員に申し訳が立たない。
原作でもこの世界でも、オレの知る解体局員はみんなそうだ。日の当たる場所で生きている人々のために、闇の中で戦う。その覚悟を持っている。
そんな彼らをこともあろうに、組織の長が裏切るなんて許せない。オタクとしても、男としても、人間としても。
「なかなかの心意気だ。『死神』が気に掛けるのも頷ける。多少考えなしではあるが、それもよかろう」
感慨深げに酒をあおってから、局長はオレの瞳を正面から覗き込む。
こちらも負けじと彼の瞳を見る。黄色の瞳孔は確かに人のそれではないが、そこにはどこか誠実さのようなものが感じられた。
「あれは、『私』としては不本意な判断だった。私は常にこの基底現実を憂いている。そこに暮らす君たちの営みと可能性を愛しているからね。そのために、この身を捧げると誓った」
クロウリー局長の瞳が深い愁いを帯びる。それはどこか子の将来を案じる親のようでもあった。
……その特性、司る異界とは相反して、局長の言葉には嘘がないように思える。
だからこそ、あの『七公会議』での行動に納得がいかなくなるが…………いや、違う。あの判断は、局長個人のものじゃない……?
「だが、かつて人間であった『私』と魔人である『私たち』は乖離している。どれだけ息を吸いたくないと望んでも、永遠には息を止めていられないように、この身はあらがえぬ本能を抱えている」
「……つまり、個人としては反対でも魔人としては賛成せざるをえなかった、というわけですか」
「簡単に言えば、そうなるね。だが、これは私だけの問題じゃない。魔人たち全体に共通する特性と言い換えてもいい。人としての感情と魔人としての衝動はつねに手を取り合うとはかぎらない」
最後に「まあ、これは魔人に限った話でもないがね」と付け加える局長。
……局長としてどう望んだとしても、『椅子に座るもの』という魔人の性質はやはり支配と暗躍だ。混沌や変革はその付随品のようなもの。『八人目』の出現を容認するのも頷けはする。
「ゆえに、あの場ではあのように票を投じた。望んだことではないが……しかし、必ずしも『八人目』の顕現がそのまま世界の終焉を意味するとは、私は考えてないんだ」
「……どういうことでしょうか」
原作設定では『魔人』は7人までしか存在できない。仮に『八人目』が誕生した場合、この現実は崩壊するとされていた。
処理容量以上のタスクを強いられたパソコンが強制終了するようなものだ。
ただでさえ今の世界はパンク寸前、そこに八人目なんかが現れれば世界は滅ぶ。オレはそう考えてここまで行動していたわけだが、違う可能性があるっていうのか……?
「言った通りさ。我々は『魔人』となった後でも『人間』としてのあり方を残している。そして、この二つは互いに影響しあっている。つまり、『八人目』本人が世界の存続を強く望めば、例え顕現しても現実を保全できるのではないか、そう考えたんだ」
「……なるほど」
理屈としては、理解できる。いや、納得さえできる。
魔人はかつては人間だった。それゆえ、規格外の存在となり果てた後でも人間の世界のために動くことはある。
先生もそうだし、『眠り姫』アリアもそうだ。そして、目の前にいる局長もそうだ。それぞれに魔人としてのあり方に抗いながら、か弱い世界を庇護してくれているのだ。
あらためてその気高さに敬意を表したい。解体局の一員としても、一人のオタクとしても。
「だから、そう、八人目には君がなってほしい。今回、私が会いに来たのはそのためだ」
だが、そんな感慨は次の一言で吹き飛ぶ。混乱と驚きに思考が停止するのが分かった。
――けれども、もっと奥深く、無意識の底でなにかがかみ合う音がしていた。