第170話 いつもどおりに
『九十九事変』とは今から二十年前に起きた解体局の歴史上有数の大事件だ。この事件以降、解体局の体制は大きく変化した。失われた多くの人材を補填するために『聖塔』の建設と『聖塔学園』の設立がおこなわれたのもこの時期のことだ。
だが、それ以上のことは何もわかっていない。この事件に関するすべての情報が最上級の秘匿指定がされているからだ。
怪異の中には知られること、知ることをトリガーに異能を発動させたり、増殖するものもいる以上、秘匿指定そのものは珍しくはないのだが、事件の概要や関わった人員に至るまで何もかもが秘匿されているというのはそうそうない。
そんな不可解な事件の発生時期と叔父上が解体局に所属していた時期が一致している。フロイトの異能の不可解さと叔父上とのただならぬ関係性といい、この事件と二人が無関係とはどうしても思えなかった。
しかも、『初代』の語る手がかりはそれだけじゃなかった。
「二十年前、道綱の身に何があったのか我にも詳細は知りえぬ。この郷の外はもはやよく見えぬゆえな。だが、郷の中で起きたことであれば、語ることもできる。特に、最近の事であればより鮮明だろうよ」
「……試しの儀ですか」
『本殿』の階段で腕を組んで頷く初代。顔のない影である彼の周囲には八つの星が旋回していた。
「あの試しの儀において、我はそなたと道綱に試練として対決を強いた。意識的であれ、無意識であれ、目を逸らしてきたものと対峙させようとしたのだ。自我との対話は術師としての完成には不可欠故な」
「それで、オレは盈月と……」
……目を逸らしてきたものとの対峙。それはある意味自分自身との戦いともいえる。目の前の相手を通じて、自分の過去、そして、あり方と向かい合うのだ。
そういう意味では、オレの相手が盈月というのは納得できる話ではある。実際、オレは彩芽と盈月のことについて気付くことができたはずなのに、無意識に目を逸らしていた。
だが、今重要なのはオレではなく叔父上のことだ。
「叔父上は、何と対峙したんですか?」
……盈瑠の前でこのことを聞くのは酷かもしれない。でも、今はそうしないといけない。叔父上の記憶を取り戻せる可能性があるとすれば、この先なのだから。
『道綱が試しの儀において対峙したのは、あの滅びだ』
オレの予想が当たる。いや、前後の状況を考えれば、それしかありえない。
叔父上は試しの儀で対峙したのは『貪るもの』だったのだ。
あの時、この星の間で叔父上と対峙した時、叔父上はすでに長い年月を経たかのように憔悴しきっていた。叔父上ほどの術師をそこまで追い詰めることのできる存在はそうないが、貪るものを撃退、いや、制御しようとしていたのなら納得だ。
『試しの儀に用いられる術を利用したのだ。それ自体は予想していたが、よもや、あのようなものが顕現するとは我も想定外だった。だが、不可能ではない。呼び水である因子を宿した肉体と魂さえあるのなら、あとはどうとでもなる』
……初代の言葉は正しい。
貪るものの顕現には条件があるが、実際にその因子を宿した存在ならばあとは膨大な魔力と相応しい場があれば、貪るものを召喚ぶこともできるだろう。
問題は叔父上が貪るものの因子をどこで手に入れたか。
記録や原作設定にある限り、貪るものはここ数十年顕現していない。最後に顕現したのも今から約60年前、現実世界での事件によりいわゆる滅亡時計の針が振り切った時だ。その時もかなりの激戦だったらしいが、いくら叔父上が優秀な術師だと言っても自分が生まれる前の出来事には干渉できない。
だとすれば、やはり、20年前の出来事が鍵だ。
九十九事変の起きた、1999年当時、この世界にはある『予言』が流布していた。
ここまでピースが揃って無関係ということはありえない。すべての手がかりは20年前の事件に続いている。
『我が道綱について知るのは、これだけだ。あとのことは他のものに聞くがいい』
「……ありがとうございます。おかげで続けられそうです」
オレの答えに初代は愉快気に口元をゆがめた、そんな気がした。
……あれほど蘆屋の一族を毛嫌いしていたというのに、その象徴も言うべきこの御霊をオレはどうにも嫌いになれない。
それはきっと彼が自分の言葉に忠実だからだ。あくまでこの郷を管理する巨大な機構であり、誰にも肩入れしないという言葉の通り、彼は求めに応えることこそあれどそれ以上のことをしなかった。
つまり、あちらも助けなかったし、こちらも助けなかった。言ってしまえば、それだけのことなんだが、その律義さがどうにも引っかかるというか、憎みきれない。
それはたぶんこの御霊の中に、別の誰かの面影を見ているからで――、
「…………最後に一つだけいいですか」
「なんだね?」
去り際に足を止めて尋ねる。
これを聞くべきか、聞かざるべきか、一瞬迷う。でも、オタクとしての探求心には抗えず、気が付くと言葉が口をついて出ていた。
「ご子孫に、なにか伝えることは?」
『――いいや、なにもない。ただ、そうさな、その瞳を持つ苦労には同情するとだけいっておいてくれ』
オレの言葉に、『初代』は一瞬驚いた後、心底楽しそうに笑いながらそう答えた。そんな気がした。
どんな経緯でこんな入れ替わりが起きたのかはオレには分からない。なんせ1000年も昔のことだ。初代本人に尋ねても答えてくれないだろうし、彼自身も知らないかもしれない。
でも、それでいい。だってロマンがある。終生のライバルの一族を死後見守る、なにがあったにせよ、その事実だけでオレには十分すぎるほど熱かった。
◇
星の間から出ると、そこは『本堂』の外だった。すでに日も暮れて、鬼火の灯篭が石畳を照らしていた。
どうやら、星の間内部では時間の流れる速度が異なるようだ。おそらく『宇宙空間』を再現していることによる副産物のようなものだろう。いわゆるウラシマ効果というやつだ。場合によっては逆に内部時間が遅い場合は修行には使えたりもするのだが――、
「……ふぅ」
不意に、隣の盈瑠がため息をついた。それだけで彼女が心身ともにどれだけ疲れているか如実に物語っていた。
罪悪感に胸を掻きむしりたくなるが、その資格さえオレにはない。そんなことをするくらいならオレが少しでも彼女の重荷を軽くすべきだ。
「なあ、盈瑠。やっぱりオレ、しばらくこっちに残るよ」
「は?」
そう提案すると、めちゃくちゃにらまれる。
まあ、うん、自業自得だ。今更だし、何より、最初は任せると言っといてこんなことを言いだすのは身勝手だ。優柔不断と言い換えてもいい。
「今更やし、そんなことされても迷惑なだけや」
「そ、そうは言うが、オレがいればヘイトはオレに向くわけだし、この場所はオレの回復にも役に立つだろ?」
「ふん。嘘やね。どうせうちがかわいそうとか、心配とか言い出すんやろ? 余計なお世話や」
「い、いや、それはそうなんだが……」
直接理由を言うとこう返されるだろうから言わなかったんだが、完全に見抜かれていた。
「てか、負担云々を言うなら、兄様にここにおられたほうが迷惑や。本家のやつらなんて兄様が怖くて引き籠もってんねんで? このまま居座られたら、話の一つもできへんわ」
え? そんなことになってたの?
「ほら、わかってへんし。普通、代替わりしたら親族が代わる代わる祝いの言葉を述べに来るもんや。いくら兄様が重傷やって言っても誰も来んのは、みんな兄様にビビりあがってるからや。先代の記憶と道摩法師の座を奪った無法者ってな」
「な、なるほど。だ、だが、片方は冤罪だぞ」
オレの抗議に肩をすくめる盈瑠。事実なんて各々が信じる真実の前には無意味だとそう言いたげだった。
「ともかく、ただでさえ異端者やった兄様はいまや一族の過半数にとっては権力と実力を備えたばけもんってわけや。その分、いらんことをされる危険もないやろうけど、一族の運営を考えたらそうもいかん」
「……だから、お前が懐柔する。そのためにはオレがいたら邪魔。それはわかる。分かるが、オレには一族全体よりお前の方が大事だ」
盈瑠の眼を見つめてそう断言する。
1000年以上の歴史がある一族の価値は理解するが、それと引き換えに妹達を幸せにできるんならオレは喜んでこの一族を滅ぼす。本心からそう思うし、一度はその覚悟もした。それは変わってない。
「……わかっとる。でも、それだけじゃダメなんや」
そんなオレに対して、盈瑠もまた同じようにまっすぐに見つめ返してくる。彼女の赤い瞳には覚悟の光が揺れていた。
「父様にはうちや一族よりも大事なものがあった。むかつくけど、それは分かる。許せんとも思う」
それは復讐を誓うようでいて、訣別をつげるようでいて、なによりも、盈瑠から父親に向けての手向けの言葉だった。
「だから、うちは父様とは違うことがしたい。家族も、一族も、きちんと守る。誰も取りこぼさないように、頑張りたいんや」
そうして、盈瑠は微かに笑う。月に照らされたその微笑は、しかして、力強く、誇らしかった。
同時に、オレは妹の成長に相反する思いを抱く。喜びと慙愧、その二つがないまぜになって、瞼に熱いものを感じる。
でも、それを零すわけにはいかない。こんなに強い妹に恥じないように、せめてオレも毅然としていないと。
「……わかった。でも、オレにも手伝わせてくれ。兄貴として、家族として、それくらいのことはしたい」
「うん。でも、兄様には大きなものを守ってもらわんと。だから今は――」
「――そう今は、わたしに任せてもらいましょう」
ふいに、声が響く。本殿の顔からいたずらっぽく顔を出してきたのは叔母上だった。
蘆屋盈恵。道綱叔父上の正室にして盈瑠の実母がそこにいた。
考えてみれば、彼女も一族の人間だ。ここにいても何の不思議もない。
というか、今回の一件でも最も想定外かつ不可解な動きをしていたのは彼女だったかもしれない。事ここに至ってもまだ彼女の行動の意図が読めない。
「母様……」
「盈瑠さん。もう、無理をしすぎよ。困ったときは人に頼ることを覚えなさい。頼れる相手がここにいるんですから」
微笑みながら盈瑠の頬に手を添える叔母上。その表情は慈しみに満ちているのと同時に、どこか吹っ切れたような清々しさを感じさせた。
「叔母上。叔父上の件は――」
「謝罪は不要ですよ、道孝さん。あの人も術師、死も覚悟していました。それに、ええ、あの人はずっと、この時を生きていなかった。であれば、あの結果はむしろ、救いなのかもしれません」
叔母上はどこか悲し気に、でも、その裏に怒りをにじませながら、オレの言葉を遮る。
……考えてみれば、叔父上に最も近い距離にいたのは叔母上だ。だというのに、叔父上は妻にさえ何一つも明かしていない。あくまで周囲に望まれるままの自分を演じていただけ。
それはある意味、どんな裏切りよりも残酷だ。最初から何もかもが本物でないなんて、そんなのは胡蝶の夢と同じだ。
「ともかく、道孝さんの代理は盈瑠が、この子の代理はわたしがします。道孝さんは、すべきことをなしなさい」
「母様!?」
急に自分が当主代理の代理をすると言い出した叔母上に盈瑠が驚く。
……なるほど。叔母上の行動原理がようやく理解できた。何のことはない。彼女は母親なのだ。娘たちのことを第一に考えて動いているのだ。
「せっかく外にも居場所ができたんです。貴方がこの郷に縛られる必要はありませんよ。状況が落ち着いたら、ここは母に任せて貴方も道孝さんの手伝いをなさい」
「で、でも……!」
「いいんですよ。それに、今すぐとはいきませんし、出たら二度と戻れぬというわけでもありません。貴方が戻ってもいいと思える場所にここを変えるのがわたしの仕事」
叔母上は右手で、盈瑠の頬を撫でる。その愛おし気な手つきはいつか見た、遠い、霞んだ記憶によく似ていた。
最後に叔母上は石段の方に視線をやる。その目には盈瑠に向けるのと同じ温かさがあった。
「……ありがとうございます」
叔母上の手を取り、盈瑠が頷く。
……2人は親子で、すでに協力し合っている。それに、2人ともが高位の術師だ。結婚以前は叔母上が郷の外で活躍していたというのは最近聞いた話だが、今彼女の放っている魔力の波長を見ればその実力も知れる。一族の連中が束になっても2人には勝てない。
……2人を信じて、郷のことは託す。戦ってこいと送り出してくれるなら、迷わずに進むだけだ。
「さて、盈瑠。そうと決まれば方針を立てましょう。いいですね?」
「はい、母様。まずは次代派を固めるところからやね」
そうして、すぐさま具体的な話に移った二人を後にしてオレは石段を降りる。情けない話だが、オレが参加すると余計なことを質問して大分怒られそうなので逃げたと言ってもいい。
たんたんとリズムよく石段を降りていく。そのまま真ん中に差しかかったところで、彼女が待っていた。
「彩芽、盈月」
「遅い」
着物姿の彩芽と盈月が石段に座っている。髪の色は茶色だが、着物を着ていて2人の気配がまじりあっていた。
許可もとらずに隣に座る。この場所からだと空に浮かぶ三日月がよく見えた。
「そういうこともできるんだな。知らなかった」
「今日は月が強いから。ちょうどいいバランスで出てこられるってだけよ。なんならこうしようか?」
右手の指を鳴らす。すると、彼女の体から青白い光がふわりと抜け出て、盈月の姿へと変わった。そのまま人魂となった盈月は彩芽の隣に腰掛けた。
なるほど。これはいい。おかげで三人で月が見られる。つまみに団子でもあれば最高だったんだが、そこは妹2人という花でオタク心を満たすとしよう。
「お兄様と盈月と三人で月が見られるなんて思ってもみませんでした」
彩芽が言った。その声の弾み具合に、自然とオレの頬も緩む。
『月なんて大したもんじゃないでしょ。見ようと思えば、いつでも見られるんだし』
「月の化身みたいなやつが言うと、説得力が違うな。だが、景色なんてのは大概、誰と見るかだ。オレはこれがいい」
「はい。彩芽もそう思います」
『彩芽がそういうなら、アタシも付き合うけど……』
そうしてしばらくの間、三人で月を眺めた。沈黙は心地よく、いつまでもこうしていたいが、オレには一つだけすべきことがあった。
「なあ、彩芽」
「なんです、お兄様」
「オレが転生者だっていつ気付いたんだ?」
オレの問いに、盈月の霊体が驚いたように息を呑む。まさかオレが自分からこの話題に触れるとは思ってもみなかったのだろう。
でも、決めていたことだ。盈月から彩芽がこの事実に気付いていたと聞かされた時から向き合わねばならぬとオレは覚悟を決めていた。
「……いつというのはありませんよ。でも、そうだろうなってすぐにわかりました。彩芽はお兄様の妹ですし、盈月もいましたから」
「…………そうか」
それでどう思ったと、そう聞かねばならない。そうしなければならないのに、勇気がわいてこない。万が一、彩芽に拒絶されたら、気色の悪い寄生生物だと罵られたら、そんな益体のない妄想ばかりが脳裏を巡っていた。
「お兄様はお兄様です。彩芽にはそれだけで十分ですし、今も昔も、愛おしいお兄様です。彩芽も盈月も、お兄様が心配されるようなことなんて一度も思ったことはありません」
『……まあ、浮気者の朴念仁だとは思ってるけどねー』
そんなオレの内心を見透かしたように、彩芽が言った。その声があまりにもまっすぐで、迷いがないせいで、オレは思わず泣きそうになってしまう。
ますます情けない兄貴だ。助けなきゃいけない妹達にいつもいつも救われている。
だからこそ、オレも真実と向き合い続けないといけない。
「……彩芽、盈月。分かってるとは思うが、本当はお前たち二人は本家の――」
その先を口にしようとしたところで、彩芽はかぶりを振ってオレの言葉を止める。彼女はそのまま力強い口調でこう言った。
「彩芽は彩芽です。盈月も盈月です。お兄様の妹です。それ以外の立場なんていりません」
ああ、でも、盈瑠様や盈恵様のことは大事に思っていますよと付け加える彩芽。その横顔は今までとは違い憂いとは無縁で、呼吸を忘れるほどに美しかった。
「でも、少し時間が欲しいのです。受け止めるのにも、受け入れるのにも」
「……そうか。お前の決めることだ。どうするにしてもオレは付き合うよ」
さすがはオレの妹だ。彩芽の強さ、優しさにはいつも救われる。こいつがいないとオレはとうの昔に立ち上がれなくなっていた。
ああ、そうだ。こいつがいてくれればオレは、この先も――、
「ありがとうございます。お兄様――あ」
しかして、感動的な雰囲気で締めようとしたところで、彩芽が一瞬、悪戯っぽい笑みをした。
……なにか余計なことに気付いたな、こいつ。
「お兄様と彩芽は、血縁的には従妹になるわけですよね?」
「……オレは妹だと思ってるが?」
「ええ。でも、二親等以内ではなくなるわけですよね?」
「…………まあ、うん。そうだな」
…………もう何を言い出すのか予想がついたが、 今回ばかりは付き合ってやるとするか。
「つまり、合法! 日本国憲法にも従妹はセーフと書いてありますよ、お兄様! ささ、早く、床に参りましょう!」
「戸籍上は妹なんですけど! あと、民法だろそれは!」
『……バカじゃないの』
そうして、いつものやり取りに盈月の冷たいツッコミが加わる。
変わらないやり取りも素晴らしいが、そこに新たな関係性が加わるのはオタクとしては大歓迎だ。
そうだ。これがオレの大事なものだ。この瞬間を守るためなら、魔人とだって戦える。