第162話 重なる魂
空の月が二つに割れている。
『山本五郎左衛門』の影により強化された『独眼真龍』の斬撃は月に届き、見事に両断せしめた。
魔術における照応の概念の応用だ。
『真龍』はまず湖面に映った満月を大太刀で切り裂いた。現実世界においては水面の月はただの鏡像に過ぎないが、異界において鏡像と実像はイコールで結ばれている。
そして、オレという転生者の存在が盈月の覚醒を促したように、同じような特徴を持つ存在は互いに影響し合う。
つまり、湖面の月が真っ二つになったということは天の月も真っ二つになりうるということであり、真龍の大太刀には月を両断するにたる力があるということになるわけだ。
ついでに『独眼真龍』が月に関する要素や属性を備えているという副次的な要素もあるが、ともかく、狙い通りに月を裂くことができた。
もっともこれは相手が盈月が創り出した異界の月だったからこそ起こった現象だ。実際に本物の天体としての月を真っ二つにするなんてことはさすがに不可能、できたとしてもその影響で現実の世界はとんでもないことになる。
事実、重力に引かれて落下を続けるはずの月は少しずつ消滅していっている。『満月』として創造されたものが両断されたことでその構成要件を失い、膨大な魔力に変換されているのだ。
とりあえず、落ちてくる月を止めるなんて無理難題はどうにか達成だ。あとは、盈月と話をして――、
「――っと」
ふいに、足元がふらつく。視界が揺れて、膝に力が入らない。胃が口から飛び出してしまいそうだ。
急激な魔力消費による反動だ。すぐさま真龍を送還するが、それでも不調は落ち着かない。少しでも気を抜けば、そのまま気絶するのが分かる。
この状態になるのは本当に久しぶりだ。最近は異界から魔力を吸い上げたり、魔力の運用を効率化したおかげでこうはならなかったが、今回は無茶が過ぎたか。
正直、このまま意識を手放してしまいたい。身体も精神も限界ギリギリだ。
「……いや、まだやれる」
歯を食いしばり、拳を握る。空元気は承知の上で、気合を入れなおす。
妹が見ているんだ、兄貴のオレがこんなところで情けない姿をさらすわけにはいかない。
「……まさか、ね」
そんなことを考えていると、盈月が目の前に降りてくる。先ほどまでの圧倒的な魔力と神威はだいぶ薄れている。
仮想のものとはいえ、象徴であり力の源でもある月を破壊された影響だ。一時的に、力を貸している神格との接続が切れたのだろう。今の盈月の状態が本来の彼女の戦力と見ていい。それでも今のオレとでは月とスッポンだが、まだ現実味のある範疇に収まっていた。
「それで、話はしてくれるのか?」
できるだけ不調を感じさせないように、軽い調子で声を掛ける。
疲労困憊ではあるが、月を止めてようやく第一歩だ。盈月のことを知って、彼女のためにオレができることをする、この兄妹喧嘩はそのためだったのだから。
「……調子に乗らないで。あんなの、アタシにとっては挨拶みたいなものよ」
言葉とは裏腹に、盈月の声にはさきほどまでの殺気がない。オレへの敵意も多少は薄らいだように思える。
……暴れるだけ暴れて、頭が冷えたか。子供の癇癪と同じだが、それを受け止めるのも兄貴の甲斐性だ。
「で、話の続きなんだが、オレを殺したとして、お前その後はどうするんだ?」
その場であぐらをかいて、そう切り出す。戦いの最中に交わした会話の続きだ。
……これは持論だが、相手の望みを知ることは相互理解の第一歩だ。逆に言えば、相手が何を望んでいるか知り、それを信じられなければ、仲良くするのも敵対するのも決められない。
「……別に。そのあとなんて、考えてない。アンタには関係ないし」
「それじゃダメだ。オレのことを殺すなら、きちんとその後を考えてからだ。お前、何がしたいんだ?」
オレの問いに、盈月は忌々しそうに唸る。思いっきりオレのことをにらんではいるが、攻撃はしてこない。
月を失ったことで余力がないせいか、あるいは、彼女なりに自分の言葉を守っているのか。おそらくは後者だな。まだ戦っただけだが、そのくらいのことは分かる。
「したいことなんて、ない。でも、彩芽は自由にする。こんな鎖、アタシがもっと強くなれば簡単に引きちぎれる」
鎖とは本家の連中が彩芽に掛けた従属の呪いのことだろう。本来、解除にはかなりの手間がいる代物だが、盈月が神格の権能をフルに活用することができれば無理やり解除することも可能かもしれない。
でも、重要なのはそこじゃない。
「……そうか。彩芽のために戦ってくれるんだな」
「当たり前よ。アンタのなんかより、アタシの方があの子のことをちゃんと考えてる。あの子は、あの子だけは、幸せにならないと……」
視線を伏せる盈月。握りこんだ両の拳が微かに震えている。それだけで、彼女が本気で自分の姉妹を思いやっていることが分かった。
それだけのことだが、オレには一番大事なことだ。盈月が彩芽のために戦ってくれるのなら、彼女は無条件でオレの味方だ。敵じゃない。
でも、それだけじゃダメだ。オレも同じだから分かる。自分の価値を低く見積もりすぎれば、そのことが誰かを、大事に思ってくれている誰かの傷になることもある。
「ありがとう、盈月。彩芽のことを大事にしてくれて」
「……そんなことを言ってもアンタのことは許さない。アンタはアタシにも気づかなかったし、彩芽のことも不幸にする。アンタはそういうやつよ」
「…………かもな。でもな、お前もそのままじゃダメだ。オレと同じになるぞ」
本心から、そう忠告する。当然、盈月は怒気を発して魔力を昂らせるが、攻撃まではしてこない。感情的になっていても、やはり冷静だ。
「お前は彩芽のことは考えても、自分のことは考えてない。それじゃダメだ。もし彩芽が自由になれたとしても、そのためにお前が犠牲になったんじゃ、彩芽は一生そのことを抱えて生きることになる。そんなのは、幸福とは言えないよ」
「アタシは、犠牲になるつもりなんてない」
「嘘だな。お前、全部片付いたら消える気だろ。それくらいオレでもわかるぞ」
図星を突かれて、盈月は視線を泳がせる。まあ、予想通りの反応だ。
オレが盈月と同じ立場なら、同じことをする。彩芽に罪の意識を背負わせないために自分の存在を永遠に消し去る。罪を犯した自分がそばに居続ける限り彩芽はそのことを突きつけられる、そう考えるからだ。
でも、それは安易な考えだ。誰かが消えればすべてが解決するような簡単な問題なんてこの世界のどこにも存在しない。
「お前が消えたら、彩芽は一生そのことを忘れないぞ。自分は実の姉妹を犠牲にして生きてるんだとそんなことをアイツに背負わせる気か?」
「――っアンタがどの口で!」
盈瑠がオレに詰め寄る。異能でいくらでもオレを攻撃できるくせに胸ぐらをつかんで、潤んだ瞳できっとオレをにらんだ。
それほどまでに盈月は怒っている。自分ではなく彩芽のために怒っていた。
「アンタがいない時、あの子がどんな気持ちで待ってるかも知らないくせに! そのアンタがえらそうな顔で、アタシに説教するな!」
「……そうだな。お前の言うとおりだ。オレは彩芽に甘えていた。アイツの安全のためだって理由を付けて逃げてた」
そんな盈月に、オレは淡々と自分の罪を認める。
ずっと頭のどこかで考えていたことだ。オレは多くのことを、皆に、特に彩芽に対して秘密にしてきた。
それで彩芽を守っているつもりだった。そう自分に言い聞かせてきた。
でも、それだけじゃなかった。オレ自身を守るための方便でもあった。
異界探索者として生きるなら誰に対しても話せないことは、ある。これは事実だ。だが、やりようはある。何もかもを秘密にしておけばいいというわけじゃない。
「少なくとも、オレが転生者であることは、彩芽にだけは話しておくべきだった。ずっと黙ってたのは、オレのエゴだ」
「っなによ! 認めたから許せって!? そんなんで、そんなことで!」
盈月が剣を生成し、オレに突きつける。先ほどまでとは違い、切っ先は鈍く、輪郭も霞んでいる。それでもオレのことを殺すには十分だ。
「ああ、そうだな。許してくれとは言わない。オレと同じ間違いをするなって言ってるんだ。じゃないと、オレを殺しても無意味だぞ」
「――それが! それがなに!? アンタを消せば、彩芽はあんな思いはせずに済む!」
「そうかもな。本気で考えた末に出した結論が本当にそうなら、そうしろ。オレは受け入れる」
覚悟を持って、あらゆる防御を解除する。身代わりの形代も、結界もない。今、斬りつけられればオレは確実に死ぬ。
盈月を信じている。だが、オレの予想と違う結果が訪れたとしてもそれを受け入れる。何、人と違って死んだとしても二度目だ。慣れてるから平気だ、たぶん。でも、やっぱり怖いのは怖いから、瞼を閉じる。
冷たい刃が喉の辺りを貫く。そんな錯覚を覚え、それが現実となるのを待った。
一秒、痛みはない。
二秒、まだ来ない。
三秒、静かに瞼を開けた。
刃は動いていない。盈月の手は震え、切っ先は行き場を失っていた。
澄んだ瞳からは大粒の涙が、次から次へと零れている。どうにかして止めてあげたいと思うが、オレにできることはただ待つことだけだった。
「……アンタはいつもそう。卑怯よ。自分を人質にして、アタシたちを脅す。でも――」
盈月はゆっくりと剣を降ろし、そのまま消滅させる。怒りと共に敵意が収まっていくのが分かる。無論、完全に消えたわけではないが、家族なんてそんなもんだ。都度都度折り合いを付けながら生きていくしかない。
「今回ばかりは、アンタが正しい。アタシがアンタを殺したら、彩芽は耐えられない。アタシを恨むんじゃなくて、自分を責める。それじゃ、この子は幸せになれない」
「そうだな。だけど、彩芽が幸せになるにはもう一つ条件があるぞ」
「なによ」
まるでわかってない様子の盈月。これは良くない。オレは確かに至らない兄貴だが、だからこそ、見えるものもある。
「お前が幸せになることだ。お前だって彩芽の家族なんだ、それを忘れちゃだめだ」
「……アタシは、ただのおまけ。それに、体もないのにどう幸せになるっていうのよ。嫌味?」
「それに関してはオレに任せろ。お前の兄貴は術師だぞ? それに自慢じゃないがコネには恵まれてる。体くらい、どうにかなるさ」
「………どうだか」
そう言いつつも、盈月の頬は少しだけ緩んでいる。まだオレには怒っているだろうが、彼女の幸福のためにオレが役に立てるならどんなことでもしたい。
「……まあ、期待はしないけどね。でも、一つ言っとくけど、半端な体じゃ満足なんてしないから」
「気を付けるよ。希望があったら言ってくれ」
涙をぬぐうと、無理やりにいじわるそうな顔をする盈月。
なるほど、こういう感じでいくつもりなのか。オレとしてもウェルカムだ。兄貴としては生意気な妹も愛せるぞ。いや、むしろ、推せる。最高だ。
「――っと」
そんな事を考えて安堵した瞬間、全身から力が抜けてしまう。緊張の糸が切れたせいか、抑え込んでいたありとあらゆる疲労と苦痛が一気に押し寄せてきた。
立ってられない。オレの体は正面に倒れていき――、
「――まったく。これだから、頼りにならないのよ」
盈月に支えられる。おかげで意識がはっきりしてくる。彼女の質感は彩芽に似ているけど、どこかひんやりとしていて、それでいてしっかりしている。やっぱり少しとげとげしいけど、それでも、確かに繋がりを感じられた。
「ありがとう、盈月」
「別に。アンタを許したわけじゃない。これから先次第よ。アンタが少しでも彩芽を傷つけたら、アタシが許さない」
「そうだな。でも、まずはその『鎖』を外さないと。お前も彩芽も自由になって、あとはそれからだ」
「……まあ、考えてはいたわけね」
盈月に頷いて、その場に座り込む。
彩芽の解放に関しては、ずっと考えていたことだ。無論、その方法についても。
あとは、向こうのオレとみんながうまくやってくれるはずだ。
……こっちもこっちで、まだ終わりじゃないみたいだしな。
予兆を感知したかと思えば、オレと盈月の側に膨大な魔力反応が生じ、次の瞬間、空間に穴が開く。
「――転移門?」
「『初代』だ。どうやらまだ試練は終わりじゃないらしい」
「……その状態で戦うつもり?」
「まあ、妹のためだしな」
盈月に支えられて、転移門に向かって進む。正直、仕切り直したいのは山々だが、あの初代がそんなことを許してくれるとは思えない。
魔力は、だいぶ回復している。全体の二割程度だが、どうにか動ける。それに右肩の傷の呪いもいつの間にか消えている。
誰のおかげかは考えるまでもない。盈月だ。彼女が先ほどから異界を操作して魔力を融通してくれている。でなければ、これほどの速度での回復はありえない。
口では言わないが、力を貸してくれる気らしい。であれば……そうなら……、
「……なあ、どうせだし、一緒にやるか?」
「…………なにを?」
「叔父上をぶっ飛ばして、蘆屋家を乗っ取る」
「………………最低のデートの誘いね。でも、気に入った」
盈月が初めて微笑む。その凶暴さに頼もしさと寒気を覚えながら、オレは妹と一緒に進む。
自分が寝てる間に、オレと盈月がこんなことをしたって彩芽が知ったら怒るかもしれないが、その時はその時だ。少なくとも叱られるのはオレだけじゃないわけだし、いつもよりは気楽かもな。