第154話 敵
アオイの一撃は確かに叔父上に届いた。
振りぬかれた太刀は防御結界を両断し、肩口から腰にかけてを切り裂いていた。
傷口から噴き出した血液が闘の間の畳を赤く染めていく。
普通なら致命傷だ。出血量からいっても数分も経たずに失血死するだろう。
もっとも、相手は超一流の術師だ。この程度の傷ならば修復可能だし、何より、仮に死んだとしてもその死すらも時には欺むくことができる。
だが、アオイの一撃はそんな理屈さえも斬り伏せていた。
「――見事だ」
叔父上が膝をつく。表情こそ平常と変わらないが、顔色は青ざめて、肩で息をしていた。
式神である黄幡神もその形を失い、崩れかかっている。主である叔父上からの魔力の供給が途絶え、制御する者がいなくなったことで実体を保てなくなったのだ。
……やはり、この叔父上は魔人たちや高位の術師たちが使うような分体の類じゃない。
間違いなく本体だ。でなければ、叔父上が負傷したからと言って黄幡神が消滅することはない。
オレたちの勝ちだ。いかに叔父上でもこの状態から傷を一瞬で治して、反撃を行うことはできない。
もっとも、油断は禁物。オレもアオイもなにかあればすぐに動けるように身構えてはいる。
「アオイはん……その……」
「大丈夫ですよ、盈瑠。これでも急所は外しています。魔力を練ることはできないでしょうが」
今にも泣きだしそうな盈瑠の問いに、アオイはそう答える。
叔父上はオレたちにとっては敵だが、盈瑠にとっては実の父親だ。その父親が目の前で死にかけているんだ、気にするなという方が無理だろう。
しかし、これだけの攻撃をしておきながら、アオイは本当に急所を避けているのだから驚きだ。
自分一人ではどうにもならないが、誰かが手を貸せば助かるように絶妙に調整されている。世界広しと言えども、こんなことができる剣士はそういない。
……つまり、アオイのヤンデレが悪化してオレを刺す場合、器用に急所を避けて刺すこともできるわけか。
…………なんか別の意味で寒気がしてきた。気を付けよう。
それはともかくとして、絶望的な状況をどうにかひっくり返すことができた。
叔父上を無力化できた以上、作戦はもう9割完了したも同然だ。
後は彩芽から神格を引きはがして、隷属の呪いを解くだけだ。なに、みんながいれば楽勝だ。どうとでもな――、
「――っ」
急に、足に力が入らなくなる。全身を覆う虚脱感と浮遊感はまるで突然重力が消え去ったかのようだ。
気が抜けたせいか。急激な魔力消費のせいか。あるいは、右肩の傷のせいか。なんにせよ、意識が飛びそうなほどに気だるい。
「道孝!? 大丈夫ですか!?」
「あ、ああ。大丈夫だ。心配ないよ」
すぐにアオイが走り寄ってくる。彼女に支えられてどうにか呼吸を整える。冷静に体の中を走査してみると原因はすぐにわかった。
……やっぱり、右肩の傷が原因か。痛みの信号は術で止めているが、先ほどの戦闘の間にわずかにしみ出した呪いが体を蝕みだしているのだ。
…………『月蝕の呪い』とでも名付けるか。強力な呪いではあるが、幸い、対処はできる。感染型呪いの中には呪詛を掛ける条件が複雑な代わりに、即死確定のものもあるからそうじゃなかっただけよしとしたい。
ともかく今は叔父上と彩芽だ。アオイにどうやってここに来たのか聞くのはそのあとでいい。
「叔父上。決着はつきました」
「……そのようだな。よもや、山縣の娘に一太刀受ける日が来ようとは思ってもみなかったが」
こちらが半ば反則のような手を使ったにもかかわらず、叔父上の顔にはやはり口惜しさや憎しみのような負の感情は一切見て取れない。
むしろ、どこかすっきりしたような、清々しさを覚えているような、そんな顔をしていた。
……叔父上とアオイの父親が学友だったというのが事実なら、そこにこの表情を紐解く鍵があるのだろう。個人的には興味がなくもないが、今はそこを追求してもいられない。
「貴方がオレたちにそうしようとしたように、オレたちも貴方の命までは取りません。ただ、いくつかの条件を呑んでいただく」
「敗者に抗弁はない。それより、道孝、勝者ならば勝者らしくせよ。他人の手を借りたことを気に病むことはない。術者の力量とはその運命で測るもの、お前の運命が私のそれを上回ったというだけのことだ」
叔父上はそういうとその場にあぐらをかき、深呼吸をする。アオイが反応するが、オレが制する。
……止血と痛み止めの呪いか。傷そのものの治療は行っていない。こっちも鬼畜じゃない。これくらいは人道的な処置として見逃すべきだろう。
しかし、『術者の実力はその運命をもって測るもの』、この言葉を叔父上の口から聞くことになるとは思ってもみなかった。
この言葉は『解体局』、ひいては『聖塔学園』に伝わる教育理念の一つで、原作『BABEL』においては地の文において何度も提示される標語でもある。
そう、異能を扱う術者の実力は単純な強さや術式の幅だけでは測れない。
その者が培った経験、育て上げた人格、あるいは取り巻く人間関係さえも異能者同士の戦いでは武器となる。ゆえに、それらすべてを術者の『運命』として定義し、その運命の強固さこそが勝敗を決める。そう解体局の先達たちは考え、自分たちの基礎に置いたのだという。
……確か、提唱者の名前も残っていたはずだが……いや、思い出せない。それに今はそんなことを考えて、感慨にふけっている場合じゃない。
「これで初代様もお前が次の当主、道摩法師だとお認めになるだろう。今頃、解体局の理事としての席も失っているはずだが、そちらもお前が引き継げばよい」
だが、叔父上はまるで何事でもないかのような調子で、自らの特権と立場を手放すと宣言する。
困惑したアオイと盈瑠がオレの方を見てくるが、オレとしても予想はできていたが理解不能だ。
叔父上は自分の立場や権力に執着していない。これまでの態度からそれは何となく察していたが、まさかここまであっさりしているとは…………やはり、腹の内が読めない。
「まあ、どちらもいずれはおまえのものになるはずだったものだ。私としては早めに荷を降ろせて安堵している」
「……意外ですね。叔父上はオレのことは嫌いだと思っていましたが」
「私が? お前を? ああ、そうか。私の考えと一族の考えは必ずしも同じではない。皆の望むように振舞ってきたのは事実だがな」
……なるほど。腹の内が読めないわけだ。オレは叔父上の見せようとしていた蘆屋家の当主としての貌しか見ていなかったのだから。
そう考えると、今の叔父上の表情、行動こそが彼の本来の姿なのかもしれない。
「まあ、お前の態度にも問題はあるが、術師にとって重要なのは才のみだ。その点において、一族でお前に勝るものはいない」
「……そいつはどうも。嬉しくはないですが」
「だろうな」と笑う叔父上。彼はひどく楽し気で、この状況でなければ叔父と甥っ子の他愛のない会話といってもいい。
けれど、本題はここからだ。オレにとっても地位や名誉はおまけでしかない。
「……貴方への要求は二つ。まず、彩芽に掛けられた隷属の呪いを解いてもらう。次に、八人目の魔人、いや、『フロイト』について知っていることをすべて話してもらう。この二つだ」
そう口にした時、叔父上の顔に憂いが浮かぶ。悲しみともあきらめともつかぬそれは次の瞬間には消えていた。
「残念だ。それだけは、それだけはできない。 私には、それだけは」
うわごとのようでいて、揺るがしがたい強い意思がその言葉には秘められている。まるでただそれだけを目的として、ただそれだけのために今息をしているような、そんな頑なさだった。
「……なぜです。なぜ、そこまで」
「一つは一族の、おまえたちのため。もう一つは誓いのためだ。これだけは曲げられぬ」
前者は彩芽に掛けられた隷属の呪いのことで、後者はフロイトのことだ。
だが、理解できない。彩芽の呪いを解かないのがオレ達のため……? フロイトのことを話さないのは誓いのため……? 一体、どういう――、
「――残念だ。ああ、残念だ。家族を殺さねばならぬとはな」
異様な魔力が叔父上の身体から立ち昇る。揺らめく蜃気楼のようなそれはこれまで感じたどの魔力とも違っていた。
その異様さに、オレより先にアオイが反応する。刃が煌めき、斬撃が奔った。
今度こそ、手加減なしの一撃だ。アオイは殺すつもりで刀を振るった。
……この状況では致し方ない。なにかが起こる。それを許してはならないと異能者としての直感が告げていた。
「なっ!?」
しかして、アオイの一撃は空中で静止した。見えない何かが概念さえも切り捨てる彼女の一撃を阻んでいるのだ。
「アオイ、オレの側に!」
咄嗟に防護結界の強度を上げて、オレ自身とアオイ、そして背後の2人を守る。叔父上の傷はいつの間にか傷跡さえ残さずに消えていた。
次の瞬間、可視化された魔力、超高濃度のそれが視界を塞ぐ。
色は黒。あらゆるものを吸い込んでしまうような色だ。オレの式神『山本五郎左衛門』の影とも違う。この世の終わり、ありとあらゆる明かりが消えた夜、そんな原作の一文が脳裏をよぎった。
「――さて、行儀のよい演技はもうやめだ。ここからは蘆屋の当主としてではなく、かつての『蘆屋道綱』として戦うとしよう」
そうして、叔父上の背後に『怪物』が現れた。
中空に突如として出現した、人間大の穴。どこまでも果てなく続く奈落のようなその穴は、まさしく宇宙の中心に居座る『黒い大穴』 に見えた。
オレは、この怪物を知っている。
その名こそは『虚空を貪るもの』。人類の集合無意識が眠る自滅機能の具現化であり、原作『BABEL』においてラスボスとして立ちはだかる最大にして最悪の怪異だ。